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鬼柴田と忙しない姫 〜守護邸が燃えたので、柴田勝家の妻になりました〜  作者: まるちーるだ
鬼柴田とぺたんこの妻

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第五話 酒席の地図


藤乃の腹が、もうぺたんこではなくなった頃。


尾張には、不穏な風が吹き始めていた。


今川。


その名が、織田家中の誰の口にも上るようになっていた。


今川義元。


駿河、遠江、三河を抱える大大名。


その兵の数は、織田とは比べものにならぬ。


今川が本気で尾張へ出る。


その噂が広がるだけで、家中の空気は重くなった。


だが、勝家はそれ以上に、別のことが気になっていた。


信長様が、静かすぎる。


あの方は、ただ守る人ではない。


兵が少ないから籠る。

敵が大軍だから頭を下げる。

味方が不安だから動かぬ。


そんな男ではない。


道が塞がれているなら、横から破る。


敵が大軍なら、その大軍を支える首を狙う。


誰もが無理だと思う場所へ、笑って踏み込む。


勝家は、それを知っていた。


だから、今川が迫ると聞いた時から、胸の奥に嫌な予感があった。


いや。


嫌な予感ではない。


これは、戦の匂いだ。


しかも、ただの戦ではない。


信長様が、今川義元を喰おうとしている。


そう思うと、背筋に熱が走った。


その夜、勝家は清洲城にいた。


広間には酒が用意されていた。


だが、それは宴ではなかった。


信長様が盃を手にし、信行様がその向かいに座している。


二人の間には、尾張周辺の地図が広げられていた。


勝家は少し離れて控えている。


酒を注いでいるのは、斯波義銀だった。


もう、あの日の魚籠を抱えた少年ではない。


二十を越えた若武者。


織田家馬廻衆として信長様のそばにあり、信行様からも時折意見を求められる立場になっている。


それでも義銀は、酒を注ぐ所作に驕りを見せなかった。


斯波の若君ではなく、織田の馬廻としてそこにいる。


勝家は、その姿を見るたびに、藤乃を思い出す。


あの女が、守った子だ。


あの女が、飢えの中で育てた子だ。


そして今、その子は信長様の戦の場にいる。


「今川は、大高を重く見ておる」


信長様が、盃を置いた。


その指が、地図の上を滑る。


大高。


鳴海。


丸根。


鷲津。


砦と城と道。


それらを、信長様はただ眺めているように見えた。


だが、勝家には分かる。


あの目は、見ている。


人が通る道。


兵が詰まる場所。


首を取れば、全軍が揺らぐ場所。


「義元は、尾張を踏むつもりでしょう」


信行様が静かに言った。


「であろうな」


信長様は笑っている。


楽しそうに。


本当に、楽しそうに。


それが恐ろしい。


織田家中の多くは、今川の大軍に怯えている。


だが、信長様は怯えていない。


むしろ、獲物を見ている。


信行様も、それに気づいているのだろう。


盃を傾ける顔は穏やかだが、目は地図から離れない。


かつてなら、信行様は兄の速さに怯えるだけだった。


だが、今は違う。


兄がどこへ走るのかを見ようとしている。


そして、その後ろの道を整えようとしている。


勝家は、静かに息を吐いた。


藤乃の言葉が、また形になっている。


道を作る兄。


道を整える弟。


信長様が、不意に笑った。


「勘十郎」


「はい」


「お前なら、どこを見る」


信行様は、少しだけ目を伏せた。


そして、扇子を取る。


広げず、そのまま地図の上へ置いた。


とん。


扇子の先が叩いたのは、鳴海城だった。


「なるほど」


信行様は、静かに言った。


「でしたら、私の役目は、兄上の道へ横槍を入れさせぬことですな」


勝家は目を細めた。


やはり、信行様も察している。


信長様は、今川の大軍全体を受け止める気ではない。


義元を狙う。


そのために、ほとんどの者に告げず、少数で走る。


ならば、信行様が見るべきは、信長様の向かう先ではない。


信長様の横腹へ食らいつくもの。


信長様の背を断とうとするもの。


鳴海城。


岡部元信。


あの城を自由に動かせば、信長様の道に横槍が入る。


信行様は、そこを押さえるつもりなのだ。


信長様の口元が上がった。


「分かるようになったな、勘十郎」


「兄上の隣は、学ぶことが多すぎますので」


信行様は、少しだけ苦く笑った。


「胃に悪いほどに」


「八右衛門のようになるか」


「すでになりかけております」


その言葉に、信長様が声を立てて笑った。


勝家も、ほんの少しだけ口元が緩んだ。


だが、笑いは長く続かない。


信行様は扇子を鳴海城の上に置いたまま、視線を鋭くした。


「兄上が義元を喰うならば、鳴海は動かさせませぬ」


「誰が行く」


「私が」


信行様は即答した。


「権六を借ります」


「ほう」


信長様が勝家を見る。


勝家は頭を下げた。


「御命とあらば」


「命じぬ」


信長様は軽く言った。


「勘十郎が借りると言うておる」


勝家は、信行様へ目を向けた。


信行様は静かに頷く。


その目に迷いはなかった。


「権六」


「はっ」


「鳴海を抑える。岡部元信を自由にさせぬ。兄上が走る道に、横から刃を入れさせぬ」


「承知」


短く答える。


それだけで、十分だった。


勝家の役目は決まった。


信長様が道なき場所へ走るなら。


信行様はその道を塞がせぬ。


勝家は、その信行様の刃となる。


その時、信長様の視線が義銀へ向いた。


「義銀」


「はっ」


義銀は酒を置き、姿勢を正した。


「お前なら、どう見る」


広間が静まる。


義銀は一瞬だけ驚いたように目を伏せた。


だが、すぐに地図を見る。


信長様の指が触れた場所。


信行様が扇子で押さえた鳴海城。


その間にある地形。


義銀の目が、ゆっくりと動いた。


あの目は、藤乃に似ている。


勝家は、ふとそう思った。


目の色ではない。


何かを見る時、ただ目の前の物だけを見ないところが似ている。


地形。


人の動き。


兵の心理。


道。


そういうものを、まとめて見ようとする目だ。


義銀はしばらく黙った後、口を開いた。


「……そういえば、義経公が、鹿の下るを見て崖を下ったという逸話がございましたな」


信行様の扇子が止まった。


勝家も、思わず義銀を見る。


義銀は、地図の一部を見つめていた。


「地形が似ております。大軍は難しくとも、少数であれば、あるいは」


信長様が、にやりと笑った。


その笑みに、勝家の背筋がぞくりとする。


義銀は、気づいたのだ。


信長様が見ているものに。


いや、信長様が見たいと思っている道に。


信行様の顔色が、ほんの少し悪くなった。


「兄上」


「何だ」


「まさか」


信長様は答えなかった。


ただ、盃を手に取る。


飲む。


そして、笑う。


「義銀」


「はっ」


「面白い話だ」


「恐れ入ります」


「その鹿の話、詳しく聞かせよ」


義銀は、ほんの少しだけ喉を鳴らした。


それでも、逃げなかった。


「義経公が一ノ谷にて、鹿が険しき坂を下るのを見て、兵を率いて下ったと伝わる話にございます」


「鹿が下るなら、人も下れる、と」


「はい。ただし、伝承には諸説あり、実際の道筋までは」


「よい」


信長様が遮った。


「大事なのは、そこではない」


義銀は顔を上げる。


信長様は笑っていた。


「誰も下らぬと思うところを、下る。誰も来ぬと思うところから、来る。そういう話であろう」


「……はい」


「ならば、使える」


信行様が額に手を当てた。


「兄上」


「何だ、勘十郎」


「本当に胃に悪い」


「慣れろ」


「慣れたくはありません」


信長様は愉快そうだった。


勝家は、心の中で息を吐く。


やはり。


信長様は、今川義元を喰うつもりだ。


しかも、ほとんどの者に告げずに走る。


大軍を受けるのではない。


大軍の中枢へ、刃を突き込む。


それが信長様の戦だ。


義銀は、静かに地図を見ていた。


その横顔には、少しの緊張と、それ以上の覚悟があった。


信長様が、ふと盃を義銀へ差し出す。


「注げ」


「はっ」


義銀が酒を注ぐ。


信長様は、その手元を見ながら言った。


「義銀」


「はい」


「今の話、忘れるな」


義銀の手が、一瞬だけ止まる。


「はっ」


「昔語りが、戦の道になることもある」


信長様の声は軽い。


だが、その言葉は重かった。


義銀は深く頭を下げる。


「肝に銘じます」


勝家は、その様子を見ていた。


藤乃。


お前の育てた甥は、ここまで来たぞ。


そう思った。


魚籠を抱え、父を救えず、叔母と弟を助けてくれと頭を下げた少年は、もういない。


今ここにいるのは、信長様の戦の地図を読み、義経公の逸話を戦の道へ繋げる若武者だった。


やがて、信長様は地図から目を離した。


「勘十郎」


「はい」


「鳴海は任せる」


「承知しました」


「権六」


「はっ」


「勘十郎の胃が潰れぬよう支えてやれ」


「承知」


信行様が小さく呻いた。


「兄上」


「何だ」


「私の胃を戦略物資のように扱わないでください」


「使えるものは使う」


「やはり胃に悪い」


信長様はまた笑った。


その笑い声が、広間に響く。


だが、勝家には分かっていた。


この笑いの下で、戦はもう始まっている。


今川は迫る。


織田家中は怯える。


信長様は笑う。


信行様は鳴海を見ている。


義銀は崖の話をした。


そして勝家は、信行様と共に鳴海を抑える。


役目は定まった。


問題は、その時がいつ来るかだ。


信長様は、ほとんど告げずに出るだろう。


そういう御方だ。


その速さに、家中は置いていかれる。


だからこそ、信行様が必要になる。


兄の速さに追いつけぬ者たちを、信行様が動かす。


その道を、勝家が守る。


勝家は、拳を膝の上で握った。


家に帰れば、藤乃がいる。


腹の中には、子がいる。


あのぺたんこの腹に宿った命は、もう確かに大きくなっている。


藤乃は、腹を撫でて笑うようになった。


時折、まだ不安そうな顔をする。


それでも、以前とは違う。


そこに命がいることを、愛おしそうに受け止めている。


その藤乃を思うと、胸が少しだけ痛んだ。


戦が始まれば、勝家は出る。


たとえ藤乃が身重であっても。


たとえ、子が生まれる時が近づいていても。


柴田勝家は、戦場へ行かねばならぬ。


そのことを、藤乃はきっと分かっている。


分かっているからこそ、笑って送り出すだろう。


それがまた、勝家には苦しかった。


「権六」


信長様の声で、勝家は我に返った。


「はっ」


「顔が怖いぞ」


「元よりです」


信行様が少しだけ笑った。


義銀も口元を押さえている。


信長様は楽しげに言った。


「藤乃に叱られることでも考えたか」


勝家は黙った。


信長様が笑う。


「図星か」


「……戦のことを」


「嘘が下手だな」


勝家は返す言葉がなかった。


信行様が助け船を出すように、静かに言った。


「藤の方様のお身体もあります。権六が案じるのも当然かと」


信長様は少しだけ目を細めた。


「そうか。もう近いか」


「はい」


勝家は答えた。


「そろそろ、いつ生まれてもおかしくないと」


「そうか」


信長様は盃を置いた。


その声が、少しだけ静かになる。


「ならば、勝てば祝いも重なるな」


勝家は顔を上げた。


信長様は、ただ笑っていた。


「今川を喰う。柴田には子が生まれる。悪くない」


信行様が深く息を吐いた。


「兄上は、本当に縁起も何も一緒くたにされますね」


「勝てば縁起は後からついてくる」


「それが胃に悪いのです」


「ならば、道を整えろ」


信行様は黙った。


それから、扇子で再び鳴海城を叩いた。


とん、と。


「承知しております」


その声は、静かだった。


だが、強かった。


「兄上が義元を喰うならば、私は兄上の道に邪魔を刺させませぬ」


勝家は深く頭を下げた。


「某も、お供いたします」


義銀もまた、静かに頭を下げる。


「私も、織田家馬廻衆として、信長様の道を見届けとうございます」


信長様は、それを見て笑った。


「よい」


その一言で、場が締まった。


夜は更けていく。


酒の席は続く。


だが、誰も酔ってはいなかった。


地図の上で、鳴海城が静かに沈黙している。


その先に、今川義元がいる。


そしてさらにその先に、まだ誰も知らぬ桶狭間の朝が待っている。


勝家は、盃には手を伸ばさなかった。


ただ、地図を見ていた。


信長様が走る道。


信行様が守る道。


義銀が見つけた、あり得ぬ道。


そして、自分が駆けるべき道。


それらが、地図の上で重なっていく。


戦は、もう始まっていた。


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