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鬼柴田と忙しない姫 〜守護邸が燃えたので、柴田勝家の妻になりました〜  作者: まるちーるだ
鬼柴田とぺたんこの妻

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第四話 ぺたんこの腹に、命がいた

それから、三か月が経った。


私は、今日もぺたんこだった。


……はずだった。


いや、見た目はぺたんこである。


相変わらず、私のお腹は平らだった。


鏡があるわけではないけれど、湯浴みの時に自分の腹を見れば分かる。


うん。


平ら。


実に平ら。


柴田勝家の妻となって四年と少し。


あの夜、勝家様は言ってくれた。


私以外の者を妻にする気はない。


他の女を迎える気も、閨に入れる気もない。


家を残すために、私を傷つける道は選ばない。


思い出すだけで、今でも胸がぎゅっとなる。


あれは、ずるい。


本当にずるい。


普段あれだけ言葉が少ないくせに、たまに一撃で心臓を撃ち抜いてくるのだから、勝家様は本当に心臓に悪い。


しかも本人は、自分がどれほどのことを言ったか分かっていない顔をする。


反則である。


おかげで、私は少しだけ息がしやすくなった。


子ができないことを、完全に気にしなくなったわけではない。


そんな簡単に消えるものではない。


でも、勝家様が私を妻として選んでくれていること。


私がここにいてよいのだと、言葉にしてくれたこと。


それは、私の中でとても大きかった。


だから、私は以前より少しだけ笑えるようになった。


……はずだった。


「うっ」


朝餉を前にして、私は口元を押さえた。


目の前には、麦飯。


湯気の立つ汁物。


焼いた魚。


少しの漬物。


いつもなら、ありがたく食べる。


毎日食事があることのありがたさを、私は絶対に忘れない。


守護邸にいた頃の米櫃の底。


葱に助けられた日々。


義銀と千若に自分の膳を譲って、空腹を水で誤魔化した夜。


それを思えば、食べ物を粗末にするなど、絶対にしたくない。


したくない、のに。


「お藤の方様?」


女中の声が聞こえた。


返事をしようとした。


でも、無理だった。


胸の奥から、何かがこみ上げてくる。


私は慌てて立ち上がった。


「お藤の方様!?」


廊下へ出る。


歩いているつもりだったが、たぶん半分よろけていた。


女中が慌てて桶を用意してくれる。


そして私は、その桶に向かって吐いた。


食べたものが、ほとんど戻ってくる。


苦しい。


気持ち悪い。


涙が滲む。


けれど、それ以上に、桶の中を見て思った。


もったいない。


せっかくのご飯が。


魚も。


お米も。


全部、もったいない。


「……うう」


情けなさと気持ち悪さで、また涙が出そうになる。


何をしているのだ、私は。


食べ物を粗末にするなんて。


いや、吐きたくて吐いたわけではない。


それは分かっている。


分かっているけれど、もったいないものはもったいない。


「お藤の方様、大丈夫ですか!?」


女中が背中をさすってくれる。


私は涙目で頷いた。


「大丈夫……大丈夫です。ごめんなさい、ご飯、もったいない……」


「今はそのようなことを仰らないでくださいませ!」


叱られた。


その通りである。


でも、もったいない。


そんなことが、ここ数日続いていた。


最初は、疲れだと思った。


帳面仕事が続いていたし、蔵の確認もあった。


奇妙丸様の周りで使う品の相談もあれば、義銀や義冬が信長様のもとへ出入りする関係で、用意するものも増えている。


柴田家の中で、私に確認が回ってくることも多い。


忙しいのはいつものことだ。


だから、少し疲れが出たのだと思っていた。


でも、違った。


朝が気持ち悪い。


食べると気持ち悪い。


匂いでも気持ち悪い。


特に魚。


魚に罪はない。


何なら、魚には感謝している。


義銀が昔、私と千若に食べさせようと、川へ魚を獲りに行ってくれたことを思えば、魚には深い恩がある。


でも、今は匂いだけで駄目だった。


「うっ」


「お藤の方様!」


また吐いた。


そして、また桶を見て思った。


もったいない。


本当に、もったいない。


三度目に吐いたあたりで、於光様が飛んできた。


「藤乃姫」


於光様は、いまだに時々私をそう呼ぶ。


もう私は柴田のお藤の方なのだけれど、於光様にそう呼ばれると、なんだか柴田家に来たばかりの頃に戻ったような気がする。


「お、於光様……申し訳ありません。また、食べたものを」


「今は食べ物の心配ではありません」


於光様は、私の顔をじっと見た。


穏やかな顔。


けれど、その目は少しだけ鋭い。


あ。


これは叱られる。


「顔色が悪いですね」


「少し気持ち悪いだけで」


「いつからです?」


「えっと……少し前から」


「少し前とは」


「……十日ほど?」


於光様の目が細くなった。


しまった。


言うのをためらったのが、完全にバレた。


「藤乃姫」


「はい」


「なぜ早く言わなかったのです」


「疲れかと」


「食べては吐くのを繰り返しておいて?」


「……吐いたものが、もったいなくて」


於光様が、額に手を当てた。


「ああ、もう」


怒られる。


そう思った。


けれど、於光様は怒らなかった。


代わりに、私の顔をじっと見た。


それから、ふと何かに気づいたように瞬きをする。


「藤乃姫」


「はい」


「月のものは?」


私は固まった。


月のもの。


そう言われて、考える。


そういえば。


そういえば、来ていない。


忙しかった。


気持ち悪かった。


吐いてばかりだった。


だから、そこまで気が回っていなかった。


でも、確かに。


「あれ……?」


ぽつりと声が漏れた。


於光様の表情が変わった。


ほんの一瞬。


驚き。


期待。


そして、慎重さ。


それらが混ざった顔だった。


「もしかして……」


於光様は、すぐに女中へ振り向いた。


「医師を。すぐに呼びなさい」


「は、はい!」


「勝家にも知らせを。ただし、騒ぎすぎないように」


騒ぎすぎないように。


於光様はそう言った。


とても落ち着いた声だった。


けれど、その後の柴田家は、まったく落ち着かなかった。


「藤乃が倒れたのか」


勝家様が来た。


速かった。


ものすごく速かった。


報せを聞いた瞬間、走ってきたのではないかという速さだった。


「倒れてはおりません」


於光様が冷静に言う。


「吐き気が続いているだけです」


「だけ、ではなかろう」


勝家様の顔は険しい。


完全に戦場の顔である。


いや、違う。


これは、妻が体調を崩した夫の顔だ。


眉間に皺が寄っている。


怖い。


でも、心配されているのが分かって、少しだけ胸が温かい。


「勝家様、大丈夫です」


私が言うと、勝家様はこちらを見た。


「どこがだ」


「えっと、吐いただけで」


「食べられぬのだろう」


「少し」


「少しではない」


勝家様は私の隣に座った。


大きな手が、私の背に添えられる。


「苦しいか」


「今は少し落ち着きました」


「何が食える」


「……分かりません」


「水は」


「飲めます」


「なら飲め」


「はい」


私は大人しく水を飲んだ。


勝家様の目が、ずっと私を見ている。


落ち着かない。


とても落ち着かない。


でも、動くなと言われる前に、私は布団へ戻された。


於光様の指示である。


勝家様も、それには逆らわなかった。


義銀と義冬も駆けつけた。


「叔母上!」


「藤乃叔母上!」


二人とも顔色が悪い。


特に義冬は、今にも泣きそうだった。


「大丈夫よ」


「大丈夫な顔ではありません!」


義冬に怒られた。


十三歳に怒られる二十四歳。


情けない。


義銀は私の顔を見て、静かに息を吐いた。


「叔母上。無理をなさいましたね」


「してないわ」


「しましたね」


「……少しだけ」


「少しではありませんね」


義銀まで厳しい。


この子たち、私に対して時々とても容赦がない。


勝家様を見ると、頷いていた。


味方がいない。


やがて医師が来た。


落ち着いた年配の医師だった。


脈を取り、顔色を見て、いくつか質問をする。


そこで、於光様が男性陣を一度部屋の外へ追い出した。


ありがたい。


本当にありがたい。


そのうえで、医師は月のもののことも聞いた。


私は顔を赤くしながら答えた。


いや、医師相手なのだから、恥ずかしがっている場合ではない。


でも、やはり恥ずかしいものは恥ずかしい。


しばらくして、医師は静かに頷いた。


「おめでとうございます」


私は瞬きをした。


「え?」


医師は、穏やかに言った。


「ご懐妊にございます」


時間が止まった。


懐妊。


ご懐妊。


私が。


私の、お腹に。


「……え?」


間抜けな声が出た。


於光様が口元を押さえている。


目が潤んでいた。


「藤乃姫」


「え、あの」


私は自分のお腹を見た。


まだ平らだ。


ほとんど何も変わっていない。


いつもの、ぺたんこなお腹。


そこに、そっと手を当てた。


「ここに?」


声が震えた。


「ここに、いるのですか?」


医師が頷く。


「まだ初めの頃にございます。どうか、無理をなさらぬよう」


初めの頃。


まだ小さい。


だから、お腹は平らなのか。


でも。


いる。


ここに。


私の中に、勝家様の子がいる。


そう思った瞬間、涙が溢れた。


「藤乃姫」


於光様が、そっと私の肩を抱く。


「よろしゅうございましたね」


私は頷こうとした。


でも、うまくできなかった。


涙で前が見えない。


四年。


ずっと、できなかった。


自分の身体が悪いのかもしれないと思った。


守護邸で食べられなかったせいかもしれないと思った。


勝家様に子を抱かせてあげられないのが、申し訳なくて仕方なかった。


それなのに。


いる。


ぺたんこの腹に、命がいた。


「勝家様に」


声が震える。


「勝家様に、伝えないと」


於光様が、ふっと笑った。


「もう、扉の向こうで半分聞いておりますよ」


「えっ」


私は扉の方を見た。


確かに、外が静かすぎる。


いや、静かなのに気配が多い。


あれは絶対、皆が聞き耳を立てている。


於光様が扉を開けた。


そこには、勝家様、義銀、義冬、八右衛門殿、勝豊、そして女中たちまでいた。


全員、真剣な顔だった。


近い。


近すぎる。


「勝家」


於光様が言う。


「藤乃姫は、ご懐妊です」


勝家様が固まった。


本当に、固まった。


あの鬼柴田が。


戦場で恐れられる柴田勝家が。


完全に動きを止めた。


「……懐妊」


低く、呟く。


「はい」


於光様が頷く。


「勝家と藤乃姫のお子です」


勝家様は、しばらく何も言わなかった。


私は少し不安になった。


いや、不安になる場面ではないはずだ。


でも、勝家様が黙ると怖い。


「勝家様」


私が呼ぶと、勝家様がこちらを見た。


目が、揺れていた。


こんな顔、初めて見た。


勝家様はゆっくり部屋へ入ってくる。


そして、私の前に膝をついた。


「藤乃」


「はい」


「本当か」


「お医者様が、そうだと」


「そうか」


勝家様は、私のお腹を見た。


まだ平らな腹。


でも、そこに命がいる。


私はそっと手を当てた。


勝家様の手が、少し迷うように動いた。


私は、その手を取った。


自分のお腹の上に、重ねる。


勝家様の手は大きくて、温かい。


「まだ、ぺたんこですけど」


私は泣き笑いで言った。


「いるみたいです」


勝家様は、息を止めたように黙った。


それから、ゆっくりと私の腹に置いた手を見つめた。


「……そうか」


声が少し掠れていた。


「ここに、いるのか」


「はい」


勝家様は目を伏せた。


その表情は、泣きそうにも見えた。


いや、勝家様が泣くはずはない。


たぶん。


でも少なくとも、いつもの無骨な顔ではなかった。


「藤乃」


「はい」


「よく、耐えた」


その言葉で、また涙が出た。


「まだ何もしていません」


「吐いておった」


「吐いただけです」


「苦しかっただろう」


「……少し」


勝家様の眉間に皺が寄る。


「無理をするな」


「はい」


「食えるものを探せ」


「はい」


「動くな」


「それは無理です」


「藤乃」


「帳面が」


「帳面は八右衛門に投げろ」


八右衛門殿が、後ろで「増える……」と小さく呻いた。


於光様がにこやかに言う。


「八右衛門殿、しばらく頑張りましょうね」


「はい……」


勝豊が慌てて父の肩を支える。


「父上、私も手伝いますから!」


「勝豊……」


「ただし、勝家叔父上の跡継ぎは無理です!」


「今その話はしておらぬ」


勝家様が低く言う。


勝豊は青ざめた。


「すみません!」


場が一瞬だけ緩んだ。


義冬が、涙目で私を見る。


「藤乃叔母上」


「義冬」


「本当に? 本当に赤子が?」


「そうみたい」


義冬は、顔をくしゃっと歪めた。


「よかった……!」


そのまま泣きそうになった義冬を、義銀がそっと支える。


義銀も、目が潤んでいた。


「叔母上、おめでとうございます」


「ありがとう、義銀」


「勝家叔父上も」


義銀が勝家様へ頭を下げる。


「おめでとうございます」


勝家様は、少しだけ頷いた。


「うむ」


その声は、いつもより柔らかかった。


柴田家は、その後、大騒ぎになった。


まず、於光様が一気に指示を出した。


「藤乃姫の食事を変えます。匂いの強いものは避けて。食べられるものを少しずつ。水と白湯を切らさないように。寝具も整えて。医師の言いつけは必ず守ること」


「はい!」


「勝家」


「何だ」


「藤乃姫を心配しすぎて、部屋の前に居座らないように」


「……分かった」


「本当に?」


「分かった」


「半分ですね」


「姉上」


勝家様が少し不満そうにした。


でも、たぶん居座る。


私は分かる。


八右衛門殿は帳面を抱えながら、すでに予定の組み直しを始めていた。


「お藤の方様のお仕事はしばらく減らします。蔵の確認は私が。兵糧の見込みは勝豊と文官に回します。義銀様、義冬殿にも一部ご助力を」


「承知しました」


「任せてください!」


「勝豊、あなたも」


「はい!」


「それから、勝家殿」


「何だ」


「絶対にお藤の方様を戦の話で悩ませないでください」


「せぬ」


「本当に?」


「……せぬ」


「怪しい」


本当に、柴田家は大騒ぎだった。


女中たちは嬉しそうに走り回り、台所では「何なら召し上がれるか」と相談が始まり、於光様は私のそばから離れず、勝家様は本当に部屋の前に居座りかけて怒られた。


私は、その騒ぎの中心にいながら、まだ少し夢の中にいるようだった。


だって、お腹はまだ平らなのだ。


ぺたんこなのだ。


なのに、ここにいる。


そう思うと、不思議で、不思議で仕方がなかった。


夕方になり、ようやく少し静かになった頃。


私は布団の上で、そっと腹に手を当てた。


勝家様が隣にいる。


「まだ、全然分かりませんね」


「そうだな」


「本当にいるのでしょうか」


「医師が言った」


「そうですけど」


「いる」


勝家様は、はっきり言った。


その言い方があまりにも強くて、私は少し笑った。


「勝家様が言うと、本当にいる気がします」


「いる」


「はい」


私はお腹を撫でた。


まだ平ら。


でも、もうただのぺたんこではない。


ここに、命がいる。


私と勝家様の子がいる。


そう思うと、胸の奥が温かくなった。


「勝家様」


「何だ」


「嬉しいです」


「……うむ」


「勝家様は?」


勝家様は、少しだけ黙った。


それから、私のお腹にそっと手を重ねた。


「嬉しい」


短い言葉だった。


でも、十分だった。


「とても」


その一言が足されて、私はまた泣きそうになった。


本当に。


この人は、たまに一撃が強すぎる。


私は涙をこらえながら笑った。


「では、頑張って育てますね」


「無理はするな」


「はい」


「吐いたら言え」


「はい」


「食えぬなら、食えるものを探す」


「はい」


「動くな」


「それは少し相談で」


「藤乃」


「はい、できるだけ動きません」


勝家様が頷いた。


私は小さく笑いながら、もう一度お腹を見る。


ぺたんこ。


でも、そこには命がいた。


四年、何も宿らなかったと思っていた場所に。


今、小さな命がいる。


私は手を当てたまま、そっと呟いた。


「ようこそ」


まだ聞こえないだろう。


まだ、何も分からないだろう。


それでも、言いたかった。


「ようこそ、私たちのところへ」


勝家様の手が、私の手の上に重なる。


大きくて、温かい手。


私はその温かさを感じながら、目を閉じた。


今日、私のぺたんこの腹に、命がいることが分かった。


柴田家は、大騒ぎになった。


そして私は。


人生で初めて、自分の平らなお腹を、こんなにも愛おしいと思った。


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