第三話 泣くな
聞いてしまった。
聞くつもりなんて、なかった。
ただ、八右衛門殿に渡す文を持っていただけだった。
それなのに。
側室。
最悪、子だけでも。
その言葉が、頭の中で何度も響いている。
分かっていた。
いつか誰かが言うと思っていた。
四年。
四年も、勝家様との間に子ができない。
柴田家の正妻として、私は役目を果たせていない。
そう言われても仕方がない。
分かっていた。
分かっていたのに、実際に聞くと、胸の奥が潰れそうだった。
足が勝手に動いた。
八右衛門殿に届けるはずだった文を落としたことにも、しばらく気づかなかった。
ただ、逃げた。
誰にも見られたくなかった。
勝家様に、見られたくなかった。
側室を迎える。
子だけでも。
それは、この時代なら珍しいことではないのだろう。
むしろ、当然なのかもしれない。
勝家様ほどの方なら、跡継ぎを求められるのは当たり前だ。
柴田家を継ぐ子が要る。
家臣たちを安心させる子が要る。
勝家様の血を繋ぐ子が要る。
私には、それができていない。
「……っ」
部屋へ戻った瞬間、膝から力が抜けた。
どうにか座り込む。
声を出して泣くわけにはいかない。
誰かに聞こえてしまう。
私は両手で口元を押さえた。
それでも、涙が落ちた。
ぽろぽろと。
止まらなかった。
勝家様は、私を責めたことがない。
子ができないことを、何も言わない。
気にするな、と言ってくれる。
でも。
でも、気にしないなんて無理だ。
私は勝家様の妻なのに。
勝家様に子を抱かせてあげられない。
勝家様の子を産めない。
このままでは、勝家様が周囲から何か言われる。
柴田家が揺らぐ。
私のせいで。
全部、私のせいで。
「……ごめんなさい」
誰に向けた言葉か、自分でも分からなかった。
勝家様にか。
柴田家にか。
義銀や義冬にか。
それとも、何も宿らない自分の腹にか。
私は腹に手を当てた。
今日も、ぺたんこ。
何もいない。
何も、宿っていない。
その事実が、どうしようもなく寂しかった。
「藤乃」
低い声がした。
息が止まった。
顔を上げる。
部屋の入口に、勝家様が立っていた。
いつからいたのか分からない。
ただ、勝家様は私を見ていた。
その手には、私が落とした文があった。
聞かれていた。
いや、違う。
私が聞いてしまったことを、知られた。
「勝家様」
声が掠れた。
慌てて涙を拭おうとする。
でも、うまく拭えない。
次から次へと涙が落ちてくる。
「申し訳、ございません」
言わなければと思った。
何を謝るのか分からない。
でも、謝らずにはいられなかった。
「私、聞くつもりはなくて、でも、聞こえてしまって」
勝家様が部屋へ入ってくる。
足音は静かだった。
けれど、その存在感は大きい。
私は顔を伏せた。
見られたくない。
こんな顔を。
泣いている顔を。
妻なのに、子を産めずに泣いている顔を。
「私、ちゃんとしないといけないのに」
言葉が勝手にこぼれた。
「勝家様の妻なのに、柴田家の正妻なのに、子もできなくて、だから、側室の話が出るのも当然で」
「藤乃」
勝家様の声が、低く落ちた。
私は肩を震わせた。
怒られるのかと思った。
でも、違った。
勝家様は私の前に膝をついた。
そして、不器用に手を伸ばした。
大きな手が、私の頬に触れる。
涙を拭うには少し硬い指だった。
でも、その手はとても温かかった。
「泣くな」
短い言葉。
いつものように、短い。
けれど、いつもより少しだけ苦しそうだった。
「……無理です」
思わず、そう答えてしまった。
勝家様が黙る。
私は慌てて顔を伏せた。
「す、すみません」
「謝るな」
「でも」
「謝るな」
同じ言葉を、もう一度。
勝家様は、少しだけ息を吐いた。
言葉を探しているようだった。
それから、低く、はっきりと言った。
「お前以外の者を、妻にする気はない」
息が止まった。
勝家様の目は、まっすぐだった。
「子のために、他の女を迎える気もない」
「でも」
「閨に入れる気もない」
あまりにも直球だった。
私は涙で濡れた顔のまま、固まった。
今、何と。
いや、意味は分かる。
分かるけれど。
それを、そんなにはっきり。
「勝家様」
「某の妻は藤乃だ」
勝家様は言った。
「それ以外は要らぬ」
また涙が落ちた。
今度は、先ほどとは違う涙だった。
胸が痛い。
でも、温かい。
苦しくて、嬉しくて、どうしていいか分からない。
「でも、柴田家の跡継ぎが」
「道はある」
勝家様は短く言った。
「義冬を養子とする道もある」
「義冬を……?」
「すぐに決める話ではない。義銀にも、義冬にも、お前にも、筋を通す」
勝家様の手が、もう一度、私の涙を拭った。
「家を残すために、お前を傷つける道は選ばぬ」
その言葉で、私はとうとう耐えられなくなった。
口元を押さえていた手が震える。
涙が、また溢れる。
「私は」
声が震えた。
「私は、勝家様に子を抱かせて差し上げたいです」
ずっと、言えなかった言葉だった。
「勝家様の子が欲しいです。でも、できなくて、ずっと、ずっと申し訳なくて」
「藤乃」
「私が、守護邸でろくに食べていなかったからかもしれません。身体が悪いのかもしれません。私のせいで」
「違う」
勝家様の声が強くなった。
「違う」
もう一度、言われた。
「誰のせいでもない」
「でも」
「藤乃」
勝家様が、私の名を呼ぶ。
その声に、何も言えなくなる。
「お前は、十分すぎるほど柴田家を支えている」
私は首を横に振った。
「そんなの、子を産むこととは違います」
「違っても、支えている」
勝家様は譲らなかった。
「帳面も、兵糧も、蔵も、人も。お前がいなければ、今の柴田家はない」
「でも、私は」
「某も、今の某ではない」
その言葉に、顔を上げた。
勝家様は少しだけ目を伏せた。
「お前が来てから、変わった」
「勝家様が?」
「そうだ」
「どこがですか」
聞いてしまってから、少しだけ後悔した。
でも、勝家様は真面目に考えた。
そして言った。
「言葉を、探すようになった」
それは、とても勝家様らしい答えだった。
あまりにも不器用で。
あまりにも真面目で。
私は泣いているのに、少しだけ笑ってしまった。
「それは、よい変化なのでしょうか」
「分からぬ」
「分からないのですか」
「だが、悪くはない」
勝家様が、私を見る。
「お前に伝えねばならぬことが増えた」
胸が、ぎゅっとなった。
「藤乃」
「はい」
「某は、お前と夫婦でよかったと思っている」
涙が、また溢れた。
けれど今度は、もう隠せなかった。
隠したくもなかった。
「私も」
声が震える。
「私も、勝家様の妻でよかったです」
勝家様の表情が、ほんの少しだけ柔らかくなった。
その顔を見た瞬間、私はまた泣いた。
もうだめだった。
勝家様が、ぎこちなく私を抱き寄せる。
硬い腕だった。
戦場を知る腕。
槍を振るう腕。
けれど今は、私を壊さないように、ひどく慎重に抱いていた。
「泣くな」
「無理です」
「そうか」
「はい」
「なら、少し泣け」
その言葉に、また涙が出た。
本当に、この人は不器用だ。
慰め方も不器用。
言葉も足りない。
でも、私には十分だった。
私は勝家様の胸に額を寄せた。
「勝家様」
「何だ」
「私、本当にぺたんこで」
「何がだ」
「お腹が」
勝家様が黙った。
私は少しだけ笑った。
「子がいなくて、ぺたんこで、情けなくて」
「……藤乃」
「はい」
「今は、それでよい」
「よいのですか」
「お前が生きている」
勝家様の声が、低く響く。
「それでよい」
息が詰まった。
守護邸が燃えた日。
勝家様は、歩けない私を置いていかなかった。
生きていればよい。
この人は、きっと最初からそう思ってくれていたのだ。
「勝家様」
「何だ」
「ありがとうございます」
「礼を言われることではない」
「それでも、ありがとうございます」
勝家様は黙った。
それから、私の頭に手を置いた。
撫でるというには不器用な手つきだった。
でも、とても優しかった。
外はもうすっかり夜だった。
部屋の灯りが、静かに揺れている。
私はまだ泣いていた。
けれど、先ほどまでのように、ひとりで潰れそうな涙ではなかった。
勝家様がそばにいる。
それだけで、息ができた。
「藤乃」
「はい」
「今夜は、もう何も考えるな」
「……難しいです」
「なら、某のことだけ考えろ」
思考が止まった。
え。
今、何と。
顔が一気に熱くなる。
泣いていたはずなのに、涙が引っ込んだ。
「勝家様」
「何だ」
「それは、あの」
勝家様は、少しだけ目を逸らした。
耳が赤い。
あ。
照れている。
言った本人が照れている。
ずるい。
本当にずるい。
私は、少しだけ笑った。
泣き笑いだった。
「はい」
小さく答える。
「今夜は、勝家様のことだけ考えます」
勝家様の腕に、少しだけ力が入った。
灯りが、ふっと揺れる。
夜は深い。
誰も、もう部屋を訪ねては来なかった。
やがて、二人の部屋の灯りは、静かに消えた。




