第二話 藤乃以外を娶る気はない
柴田勝家は、子がないことを気にしていない。
少なくとも、自分ではそう思っていた。
藤乃が妻となって四年。
その間、子はできなかった。
それが家にとって大きなことだと分からぬほど、勝家は愚かではない。
武家において、跡継ぎは要る。
家を残すには、血を繋ぐ者が要る。
家臣たちを安心させるにも、次代の姿を示さねばならぬ。
分かっている。
分かってはいる。
だが、それを理由に藤乃を責める気など、勝家には欠片もなかった。
そもそも、藤乃はよくやっている。
いや、よくやっているなどという言葉では足りぬ。
あの女は、柴田家に来てからずっと働いている。
初めは、守護家の姫とは思えぬほど、何でも自分でしようとした。
掃除をしようとする。
皿を洗おうとする。
炊事場へ入ろうとする。
薪を運ぼうとする。
於光や八右衛門が慌てて止めた。
それでも藤乃は、何か役目を探した。
やがて帳面を見始めた。
数を直し、間違いを見つけ、計算の仕方を教えた。
勝家にはよく分からぬ細かな工夫が、柴田家の中に広がっていった。
兵糧の見込みが早くなった。
蔵の出入りが分かりやすくなった。
余分と不足が見えやすくなった。
人をどこへ回せばよいか、以前より早く分かるようになった。
八右衛門が、時々恐ろしいほど生き生きとした目で藤乃のもとへ通っている。
於光は、それを上手く屋敷に広げる。
勝豊も、その仕組みを覚えた。
義銀も義冬も、藤乃から教わった数の扱いを当然のように使う。
柴田家は変わった。
織田家中においても、勝家の家はただ武に頼る家ではなくなっていた。
それは、藤乃がいるからだ。
それなのに。
その藤乃が、時折、自分の腹へ手を添える。
何でもない顔をしている。
笑っている。
いつものように忙しなく動く。
だが、勝家には分かる。
あの笑いは、少しだけ下手だ。
藤乃は、子ができぬことを気にしている。
勝家に責められぬからこそ、余計に己を責めている。
そのことが、勝家には腹立たしかった。
藤乃を責める者がいるなら、斬る。
そう思う。
だが、藤乃自身が己を責めるなら、勝家にはどうすればよいのか分からなかった。
「気にするな」
そう言ったことはある。
だが、その一言で藤乃の顔が晴れたことはなかった。
言葉が足りぬ。
それは、よく分かっている。
於光にも言われた。
八右衛門にも言われた。
信長様にすら、言葉を足せと笑われた。
分かってはいる。
だが、言葉は難しい。
槍ならば、どう振ればよいか分かる。
馬ならば、どう走らせればよいか分かる。
兵ならば、どこへ置くべきか分かる。
けれど、妻の胸の痛みをどう扱えばよいか。
それだけは、いまだに分からなかった。
その日、八右衛門が勝家の前に座った。
顔色は悪い。
いつものことだ。
だが、今日の顔色は、いつもよりさらに悪かった。
「勝家殿」
「何だ」
「申し上げにくいことを、申し上げます」
勝家は、少しだけ眉を寄せた。
八右衛門がそう前置きする時は、本当に面倒な話である。
「ならば申すな」
「申します」
即答だった。
勝家は黙った。
この男は、こういう時だけ妙に強い。
いや、常に強いのかもしれぬ。
戦場には出ぬ。
槍を振るうわけでもない。
だが、柴田家を支えるためなら、勝家にも平然と苦言を呈する。
それが八右衛門という男だった。
「……側室や、最悪、子だけでも考えていただけませぬか」
部屋の空気が、落ちた。
勝家は、八右衛門を見た。
声が低くなる。
「八右衛門」
「はい」
「二度と申すな」
「必要があれば、何度でも申し上げます」
勝家の拳が、膝の上で握られる。
「藤乃を責める気か」
「違います」
八右衛門は即座に否定した。
「お藤の方様を責める気など、私には毛頭ございません」
「ならば何故申す」
「柴田家の未来を考えるのが、私の役目だからです」
八右衛門の声は、震えていなかった。
胃のあたりを押さえてはいる。
だが、逃げる気配はない。
「勝家殿。私はお藤の方様を敬っております。あの方が柴田家にどれほどのものをもたらしたか、誰より分かっているつもりです」
「ならば」
「だからこそ、申し上げます」
八右衛門は、勝家をまっすぐ見た。
「世間は、そう見ませぬ」
勝家は黙った。
「子なき正妻を抱え、後継ぎをどうするのか。いずれ必ず言われます。もう言われ始めております」
「誰が言った」
「その問い方をなさらないでください。斬るおつもりでしょう」
「斬らぬ」
「斬らずとも、槍は持たれるでしょう」
勝家は黙った。
否定はできなかった。
八右衛門は深く息を吐く。
「お藤の方様のお耳に入る前に、答えを用意すべきです」
「答え」
「はい」
八右衛門は、苦い顔をした。
「側室を置くのが、一番分かりやすい答えです」
勝家の視線が鋭くなる。
「八右衛門」
「分かっております。勝家殿がそれを望まぬことも、お藤の方様が傷つかれることも」
「ならば言うな」
「言わずに済むなら、私も言いたくありません」
八右衛門の声に、わずかに苦しさが滲んだ。
「ですが、子がなければ家が揺らぎます。家が揺らげば、お藤の方様も傷つく。勝家殿がいくら守ろうとしても、周囲の声は止められませぬ」
勝家は、歯を噛んだ。
分かっている。
分かっているから、腹が立つ。
八右衛門は間違っていない。
それが余計に腹立たしかった。
「だが」
八右衛門は続けた。
「それならば、我が息子が養子となることになるでしょう」
勝家が眉を寄せる。
「勝豊か」
「はい」
「それがどうした」
「我が息子は……勝家殿の跡を継げる器に非ず」
八右衛門は、はっきりと言った。
実の息子を、そう評した。
冷たい言葉に聞こえる。
だが、勝家には分かった。
これは冷たさではない。
八右衛門は、己の息子を冷静に見ている。
勝豊は悪い子ではない。
むしろ賢い。
帳面も読める。
家の中の動きも見える。
人の顔色も読める。
だが、柴田の旗を背負い、織田家中で立つ器かと言われれば、別だ。
勝家は何も言わなかった。
八右衛門は続ける。
「勝豊は、己の力量を見極めております」
「ほう」
「この話を少し匂わせたところ、青ざめて申しました」
八右衛門は、遠い目をした。
「『無理無理無理! 勝家叔父上の跡継ぎなんて務まるわけない! 斯波の兄上――義銀様も、義冬殿も、私よりずっと向いております! 藤の方様の甥御様方の方が絶対に良いです!』と」
勝家は黙った。
しばし、黙った。
それから、低く言う。
「……随分と己を分かっておるな」
「そこは私に似ました」
「そこは、か」
「そこだけでも似てくれて幸いです」
八右衛門は真顔だった。
勝家は、ほんの少しだけ息を吐いた。
笑いそうになったのかもしれない。
だが、笑うには話が重すぎた。
「勝豊は、義冬殿を本気で認めております」
八右衛門は言った。
「義冬殿は勝豊より二つ下です。それでも勝豊は、義冬殿の方が柴田の名を背負えると見ております」
勝家の脳裏に、義冬の顔が浮かぶ。
かつて千若と呼ばれていた幼い子。
燃える屋敷から義銀に抱えられて逃げた子。
藤乃の袖を掴んで、泣くのをこらえていた子。
その子は、もう元服した。
名を義冬と改めた。
烏帽子親は勝家が務めた。
烏帽子を戴いた時、義冬は目を潤ませながらも背筋を伸ばしていた。
あの時、勝家は思った。
よく育った、と。
藤乃が守った子。
義銀の背を追った子。
柴田家で育ち、勝家を叔父と呼ぶ子。
ならば。
「義冬を養子とする」
勝家は言った。
八右衛門が顔を上げる。
「血筋を言う者がいるならば、従姉のところに娘がいる。義冬と婚姻させればよい。柴田の血も、斯波の名も、形は整う」
八右衛門は、しばし黙った。
「……それならば、賛成です」
「早いな」
「良き案ですので」
八右衛門は静かに頭を下げた。
「お藤の方様の甥御であり、勝家殿が烏帽子親となった若君。斯波の血を持ち、柴田家への情もある。さらに義銀様もおられる。義冬殿を養子とするならば、周囲も黙らせやすい」
「最初からそれを言え」
「勝家殿ご自身のお口から出ることが大事なのです」
勝家は眉を寄せた。
八右衛門は続ける。
「ただし、周囲を黙らせるには、我が息子と比べるがよろしいかと」
「お前の息子、ぐれぬか」
「ぐれませぬ」
即答だった。
「我が息子は、己の器を分かっております。むしろ、比較対象として使われることに安堵するでしょう」
「安堵」
「ええ。『それで勝家叔父上の跡継ぎ候補から外れるなら、いくらでも比べてください』と言うでしょうな」
「……本当に己を分かっておるな」
「ええ」
八右衛門の口元が、少しだけ緩んだ。
「そこは、誇っております」
勝家は、静かに息を吐いた。
義冬。
その名が出た時、胸の内にあった怒りは少しだけ形を変えた。
藤乃以外を娶る必要はない。
別の女に子を産ませる必要もない。
家を繋ぐ道は、他にもある。
藤乃を傷つけずに済む道がある。
ならば、迷う必要はない。
「八右衛門」
「はい」
「二度と、藤乃以外を娶れとは言うな」
八右衛門は静かに目を伏せた。
「必要があれば、また申し上げます」
「お前」
「家令ですので」
勝家が睨む。
八右衛門は、胃を押さえながらも引かなかった。
「ただし、今は申し上げませぬ。義冬殿という道が見えましたので」
勝家は、長く息を吐いた。
「……ならばよい」
「はい」
沈黙が落ちる。
その沈黙の中で、勝家は改めて言った。
「某は、藤乃以外を娶る気はない」
声は、低く、揺るがなかった。
「子ができぬならば、別の道を探す。家を残すために、藤乃を傷つける道は選ばぬ」
八右衛門は、深く頭を下げた。
「承知いたしました」
「藤乃は」
勝家は、少しだけ言葉を探した。
「藤乃は、十分すぎるほど柴田家を支えている」
「はい」
「子ができぬことだけで、あれを責める者がいるなら」
「槍はお置きください」
「まだ何も言っておらぬ」
「顔に出ております」
勝家は黙った。
八右衛門は小さく息を吐いた。
「お藤の方様は、すでにご自身を責めておられます」
勝家の目が揺れる。
「……分かっておる」
「ならば、言葉にして差し上げてください」
「言葉」
「はい。気にするな、だけでは足りません」
勝家は黙った。
それは、自分でも分かっている。
だが、どう言えばよいのか。
藤乃が己を責めぬように。
藤乃が、柴田家にいてよいのだと思えるように。
どう言葉にすればよいのか。
「難しい」
思わず漏らすと、八右衛門は少しだけ目を丸くした。
それから、静かに笑った。
「勝家殿がそう仰るなら、少しは進歩ですな」
「何がだ」
「昔なら、難しいとも言わずに黙っておられました」
勝家は視線を逸らした。
確かに、そうかもしれない。
藤乃と出会ってから、勝家は少し変わった。
言葉にしなければ伝わらぬことがある。
それを、幾度も思い知った。
勘十郎様を止めた時もそうだった。
信長様に密談を持ち込んだ時もそうだった。
藤乃に妻になってほしいと伝えた時もそうだった。
言葉は苦手だ。
だが、苦手だからと言って黙っていてよいわけではない。
「……考える」
勝家は言った。
八右衛門は頷く。
「はい」
「義冬の件も、すぐに決める話ではない」
「もちろんです。お藤の方様、義銀様、義冬殿、勝豊。皆に筋を通す必要があります」
「分かっておる」
「本当に?」
勝家は八右衛門を見た。
八右衛門は、ほんの少しだけ目を逸らした。
「於光が言いそうなことを言うな」
「夫婦ですので」
「そうか」
勝家は、少しだけ息を吐いた。
その時だった。
廊下の方で、微かな気配がした。
本当に、かすかな音。
衣擦れか。
足を引いた音か。
勝家は顔を上げた。
「誰だ」
返事はなかった。
だが、何かがいた気配は残っている。
八右衛門も顔を向ける。
「女中でしょうか」
勝家は立ち上がった。
廊下へ出る。
誰もいない。
ただ、廊下の端に、畳まれた文が落ちていた。
勝家はそれを拾う。
八右衛門に届けられるはずの文だった。
筆跡は、藤乃。
勝家の胸が、嫌な音を立てた。
「……藤乃」
聞いていたのか。
どこから。
どこまで。
側室。
子だけでも。
義冬を養子に。
藤乃以外を娶る気はない。
どの言葉を、聞いたのか。
勝家は、文を握りしめた。
八右衛門が後ろで息を呑む。
「勝家殿」
「探す」
短く言って、勝家は歩き出した。
言葉は苦手だ。
だが、今度ばかりは、逃げるわけにはいかなかった。




