第六話 頭と槍と刃
義銀が柴田家の屋敷に戻ってきたのは、日が傾きかけた頃だった。
その顔を見た瞬間、私は思った。
あ、何かあったな。
甥というものは、隠し事が下手である。
いや、義銀は下手ではない。
むしろ、かなり上手い方だと思う。
信長様の側で学び、信行様にも時折意見を求められ、馬廻衆として動くようになった義銀は、昔のように顔に何でも出す子ではなくなった。
でも、私には分かる。
何かを考えている時。
心配を隠している時。
それでも、それを言うべきではないと判断している時。
義銀は、ほんの少しだけ眉間に力が入る。
今がそれだった。
「叔母上」
「お帰りなさい、義銀」
私は腹に手を添えて、座ったまま義銀を迎えた。
もう立ち上がるのも少し大変になってきた。
あの頃、ぺたんこだぺたんこだと嘆いていた私のお腹は、今ではかなり大きい。
正直、重い。
本当に重い。
命がいるのだから当たり前なのだけれど、それにしたって重い。
「お身体は」
「大丈夫よ」
「本当ですか」
「本当です」
「無理をなさっていませんか」
「していません」
「帳面は」
「見ていません」
義銀がじっと私を見る。
やめて。
その目はやめて。
疑っている目だ。
「……少しだけ見ました」
「叔母上」
「本当に少しだけです。八右衛門殿に怒られない程度に」
「怒られない程度ということは、怒られる可能性はあったのですね」
なんでこの子、こんなところで鋭いの。
私は目を逸らした。
「義銀、あなた、勝家様に似てきたわね」
「それは光栄です」
うん。
喜ぶのね。
知っていた。
義銀は勝家様を本当に尊敬している。
命の恩人で、槍の師で、今は義理の叔父でもある人。
だから、勝家様に似てきたと言われると少し嬉しそうにする。
かわいい。
二十一歳になっても、私から見ればかわいい甥である。
……と、思っていたら。
「お邪魔いたします」
「失礼いたします」
義銀の後ろから、二人の若武者が顔を出した。
ひとりは、いかにも勢いのある若武者だった。
背筋が伸び、目が強い。
肩に力がある。
何というか、槍を持たせたら真っ先に突っ込んでいきそうな顔をしている。
もうひとりは、対照的に静かだった。
目元が涼しく、周囲をよく見ている。
言葉少なに見えるけれど、たぶん口を開けばさらりと鋭いことを言うタイプだ。
私は瞬きをした。
義銀は一歩横へずれる。
「叔母上。こちら、同じ馬廻衆の服部小平太殿と、毛利新介殿です」
「服部小平太にございます」
勢いのある方が、明るく頭を下げた。
「毛利新介にございます」
静かな方も、丁寧に頭を下げる。
あ。
この二人が。
義銀から名前は聞いていた。
同じ馬廻衆として信長様の側にいる若武者たち。
義銀が時々、呆れたように話す相手。
けれど、その呆れ方がどこか楽しそうなので、私は少し気になっていた。
「まあ。あなたたちが、小平太殿と新介殿なのですね」
私がそう言うと、小平太殿がぱっと顔を上げた。
「義銀が我らの話を?」
「ええ。時々」
小平太殿は、にやりと笑って義銀を見る。
「何だ、義銀。俺たちの話を叔母上にしておるのか」
「必要な範囲でだ」
「必要な範囲とは何だ」
新介殿が静かに言う。
「小平太が地図を見る前に突っ込もうとした話では?」
「新介」
「あるいは、槍の稽古で勢い余って馬柵まで壊しかけた話か」
「新介」
「それとも、信長様に『槍はよいが頭も使え』と言われた話か」
「新介!」
小平太殿が声を上げる。
義銀は深く頷いた。
「だいたいそのあたりだな」
「義銀、お前もか!」
三人のやり取りを見て、私は思わず笑ってしまった。
ああ。
この感じ。
とても良い。
義銀が、こんなふうに軽口を言い合える相手を得たのだ。
胸の奥が、じんわり温かくなる。
あの日、魚籠を抱えて走ってきた少年。
父を失い、屋敷を失い、叔母と弟を守ろうと必死だった子。
その義銀が、今は織田家の馬廻衆として、同世代の若武者たちと肩を並べている。
「貴方たちは、本当に仲がよろしいわね」
私がそう言うと、三人が同時に黙った。
小平太殿が、少しだけ照れたように鼻を鳴らす。
「仲がよいというか、まあ」
新介殿が淡々と言う。
「小平太が放っておくと突っ込むので、義銀が頭を使い、私が後始末をする関係です」
「おい、新介。俺の扱いが雑ではないか」
「事実だ」
「義銀、お前からも何か言え」
義銀は真面目な顔で考えた。
「小平太が突っ込むのは事実だ」
「そこではない!」
私はまた笑ってしまった。
お腹の子が、私の笑いに反応したのか、内側からぽこりと動いた気がする。
「っ」
思わず腹に手を当てると、三人が一斉に固まった。
義銀の顔が青ざめる。
「叔母上?」
「大丈夫。今、動いただけよ」
「動いた?」
小平太殿が目を丸くする。
「赤子が、でございますか」
「ええ。たぶん」
新介殿が少しだけ目を細めた。
「御子は、母君の笑い声に反応なさったのでしょうか」
「まあ、そうだと嬉しいわね」
私は腹を撫でた。
「この子、最近よく動くの。勝家様が手を当てると、なぜか大人しくなるのだけれど」
「勝家殿の気配を感じているのでは?」
新介殿が言う。
小平太殿が腕を組んだ。
「生まれる前から鬼柴田の気配を読むとは、末恐ろしい若君ですな」
義銀が小平太殿を睨む。
「小平太」
「褒めている」
「それは褒め言葉なのか」
「たぶん」
「たぶんで叔母上の御子を評するな」
新介殿が静かに言う。
「小平太にしては、かなり褒めている方だ」
「新介、お前は俺を何だと思っている」
「槍」
「人ですらないのか」
義銀がため息を吐く。
「叔母上、このような者たちですが、腕は確かです」
「義銀、お前もまあまあひどいな?」
私はお腹を抱えて笑いそうになった。
いや、笑いすぎると少し苦しいので我慢する。
でも、嬉しかった。
義銀の隣に、この二人がいることが。
義銀が、ただ「斯波の若君」として扱われているのではなく、仲間としてからかわれ、信じられ、言い返していることが。
「それで」
私は三人を見る。
「今日はどうしたの? 義銀が二人を連れてくるなんて、珍しいわね」
義銀が一瞬だけ目を伏せた。
小平太殿と新介殿も、少しだけ表情を改める。
ああ。
やっぱり何かある。
私は腹に手を添えたまま、静かに待った。
義銀は、言葉を選ぶように口を開いた。
「信長様の御側で、近く大きな動きがあるかもしれませぬ」
「今川ね」
三人が、同時にこちらを見た。
「叔母上」
「分かるわよ。屋敷の空気が変わっているもの。勝家様も、最近ずっと顔が戦の顔をしているし」
「戦の顔……」
小平太殿が小さく呟く。
新介殿が頷いた。
「分かりやすい表現ですね」
義銀は少しだけ困ったように笑った。
「叔母上には、隠せませぬね」
「隠したいのなら、もう少し顔をどうにかしなさい」
「……努力します」
「その返事、勝家様に似ているわ」
今度は義銀が少し嬉しそうにした。
本当に、この子は。
私は小平太殿と新介殿へ視線を移した。
「あなたたちも、信長様の側へ?」
「はい」
小平太殿が即答する。
「馬廻衆ですので」
新介殿も頷いた。
「信長様が走られるなら、我らも走ります」
当たり前のように言う。
若い。
とても若い。
けれど、その目には覚悟があった。
私は息を吐いた。
怖くないはずがない。
この子たちは、若い。
義銀だって、私から見ればまだ子供のようなものだ。
でも、彼らはもう戦へ行く。
信長様のそばで、命を賭ける。
「義銀」
「はい」
「危ないことをするのでしょう」
義銀は黙った。
その沈黙が、答えだった。
私は腹を撫でた。
本当は止めたい。
危ないことはしないでと言いたい。
帰ってきてと縋りたい。
でも、それはできない。
義銀はもう、守られるだけの若君ではない。
織田家馬廻衆、斯波義銀。
この子自身がそう選んだ道だ。
ならば、私にできることは一つしかない。
「三人とも」
私は言った。
「必ず、生きて戻ってきてね」
小平太殿が、意外そうに目を瞬かせた。
新介殿も、わずかに表情を緩める。
義銀は、まっすぐ私を見た。
「必ず」
「約束よ」
「はい」
小平太殿が胸を叩いた。
「藤の方様。義銀は我らが連れて帰ります」
「それは心強いわ」
「ただし」
新介殿が静かに口を挟む。
「小平太が真っ先に突っ込んだ場合は、義銀が連れ戻すことになります」
「新介!」
「事実だ」
「お前、今日は事実しか言わぬな」
「嘘を言う必要がない」
義銀が小さく笑った。
「大丈夫です、叔母上。小平太が突っ込んだら私が止めます。私が無茶をしたら、新介が止めます」
「俺は?」
小平太殿が自分を指差す。
義銀と新介殿が同時に言った。
「突っ込む」
「突っ込む」
「お前ら!」
私はついに声を出して笑ってしまった。
お腹の子がまた、ぽこりと動いた気がする。
「あら」
三人がまた固まる。
「今、また動いたかしら」
小平太殿が、妙に神妙な顔になった。
「若君も、笑っておられるのでは」
「まだ男の子かどうかは分からないわよ」
「勝家殿の御子です。きっと強い若君です」
「女の子かもしれないでしょう?」
小平太殿は、はっとした顔をした。
「姫君でも強そうですな」
新介殿が頷く。
「藤の方様と勝家殿の子ですから」
「それはどういう意味かしら」
私が微笑むと、新介殿は少しだけ目を逸らした。
「良い意味です」
「本当に?」
「はい」
義銀が苦笑する。
「叔母上、新介は嘘が下手です」
「義銀」
「事実だ」
小平太殿がここぞとばかりに言う。
新介殿が小平太殿を見る。
「覚えておく」
「待て、新介。冗談だ」
三人のやり取りを見ていると、不思議と不安が和らいだ。
戦は怖い。
今川は大軍だ。
信長様が何を考えているのか、私には分からない。
でも、義銀は一人ではない。
この二人がいる。
義銀を頭だと言い、小平太殿を槍だと言い、自分を後始末だと言う新介殿。
無茶をしても笑って突っ込む小平太殿。
そして、その二人に呆れながらも信頼している義銀。
「ねえ、義銀」
「はい」
「良い友を得たのね」
義銀は、少しだけ目を見開いた。
それから、ゆっくりと頷いた。
「はい」
その声は静かだった。
けれど、とても大事なものを認める声だった。
「私は、幸いです」
その言葉に、胸が詰まった。
本当に。
本当に良かった。
あの日、義銀は何もかも失ったような顔をしていた。
でも今は、こうして隣に並ぶ友がいる。
信長様の道を共に走る仲間がいる。
「小平太殿、新介殿」
私は二人へ向き直った。
「どうか、義銀をよろしくお願いします」
二人は、同時に表情を改めた。
小平太殿が深く頭を下げる。
「必ず」
新介殿も静かに頭を下げた。
「義銀は、我らの頭ですので」
「また頭か」
義銀が少し不満そうに言う。
新介殿は淡々と返す。
「小平太の槍と私の刃だけでは、まっすぐ突っ込んで終わる」
「待て新介、俺はともかくお前は考えるだろう」
「考えた上で、最後は斬る」
「結局斬るのか」
「必要ならば」
義銀がため息を吐く。
「だから、私が道を見るのか」
小平太殿が笑った。
「そうだ。お前が道を見ろ。俺が突く。新介が仕留める」
新介殿が少しだけ頷く。
「悪くない」
義銀は、二人を見た。
そして、小さく笑った。
「では、道を外さぬようにせねばな」
その言葉は、軽いようで重かった。
この三人は、きっと戦場でもこうなのだろう。
軽口を叩きながら、命を預け合う。
信じているからこそ、雑に言える。
信じているからこそ、背を任せられる。
私は、腹に手を当てた。
この子が生まれる頃、彼らはどこにいるのだろう。
戦場か。
馬上か。
雨の中か。
どうか、全員無事で。
そう祈らずにはいられなかった。
「藤の方様」
小平太殿が、少しだけ照れたように頭を掻いた。
「その、戻りましたら、またこちらへ伺ってもよろしいでしょうか」
「もちろん」
「若君……いや、御子にも挨拶したく」
「ふふ。気が早いわね」
「気が早いのは小平太の常です」
新介殿が言う。
「だが、私も伺いたい」
「あら」
私は少し驚いた。
新介殿は静かな顔で続ける。
「妹には、義銀殿のことを話しておきます。私が背を預ける方だと」
その瞬間、義銀が何故か少しだけ動揺した。
ほんの少し。
でも、私は見逃さなかった。
あら。
あらあら。
義銀?
もしかして?
小平太殿がにやりと笑った。
「新介の妹は、こいつと違ってよく笑うぞ」
「小平太」
「事実だ」
「その言葉を返されるとは思わなかった」
義銀は咳払いをした。
「今は、その話ではないだろう」
「何だ義銀、照れているのか」
「照れていない」
「顔が少し赤いぞ」
「赤くない」
新介殿が義銀を見る。
「……覚えておく」
「新介殿!?」
私は思わず口元を押さえた。
あら。
これは、そのうち何かあるかもしれない。
いや、今は戦の前だ。
そんなことを考えている場合ではない。
でも、少しくらい未来の明るい話を思い浮かべても、罰は当たらないだろう。
義銀がいつか、誰かと並んで笑う日が来る。
それが、この新介殿の妹君であっても、悪くない。
むしろ、良い。
とても良い。
「義銀」
「叔母上、何でしょう」
「帰ってきたら、また三人でいらっしゃい」
義銀は、少しだけ表情を改めた。
「はい」
「約束よ」
「必ず」
小平太殿が笑う。
「藤の方様。義銀が渋ったら、俺が引きずってきます」
「頼もしいわ」
新介殿が静かに言う。
「小平太が引きずると怪我をしますので、私が促します」
「新介、お前は本当に俺を何だと思っている」
「槍」
「だから人ではないのか!」
義銀が笑った。
本当に、楽しそうに。
その笑顔を見た瞬間、私は少し泣きそうになった。
あの子が、こんな顔で笑えるようになったのだ。
でも、泣かない。
今泣いたら、義銀が心配する。
だから私は笑う。
「本当に、仲がよろしいこと」
三人は、また少し照れたように目を逸らした。
若武者たちの顔だった。
戦へ向かう者たちの顔でありながら、まだどこか少年のような顔でもあった。
やがて、義銀たちは立ち上がった。
「叔母上。そろそろ戻ります」
「ええ」
私は腹に手を添えたまま、三人を見上げる。
「無事に」
「はい」
義銀が深く頭を下げる。
小平太殿と新介殿も、それに倣った。
「必ず戻ります」
義銀の声は、静かで強かった。
三人が部屋を出ていく。
その背中を見送りながら、私は思った。
頭と槍と刃。
義銀が道を見て。
小平太殿が突いて。
新介殿が仕留める。
きっと、この三人は戦場でもそうやって進むのだろう。
どうか、無事に帰ってきて。
私はお腹を撫でた。
「あなたも、覚えておいてね」
まだ生まれていない子に、そっと語りかける。
「あれが、あなたの義銀兄上と、その大切なお友達よ」
腹の中で、小さく動いた気がした。
まるで、分かったと言うように。
私は窓の外を見た。
空には、重い雲がかかっている。
遠くで、戦の気配が濃くなっていく。
それでも、先ほどの三人の笑い声が、まだ耳に残っていた。
どうか。
どうか、あの笑い声が、戦場で途切れませんように。
私はそう祈りながら、静かに目を閉じた。




