第二十二話 私、柴田勝家の奥さんになりました
婚礼の日は、驚くほど晴れていた。
空は高く、風は穏やかで、庭の木々はやわらかく揺れている。
まるで、今までの騒がしさが嘘のようだった。
守護邸が燃えた日。
義銀が魚籠を抱えて助けを求めに走った日。
千若を抱き締めて、どうにか逃げようとした日。
柴田勝家に片腕で攫われた日。
あの日から、どれだけのことがあっただろう。
織田家の兄弟の火種。
信行様を担ごうとした者たち。
謀反の芝居。
清洲評議。
そして、勝家殿の一世一代の告白。
思い返すだけで、情報量が多い。
多すぎる。
でも、今日は婚礼である。
私の。
藤乃姫の。
いや、もう藤乃姫ではなくなるのかもしれない。
柴田勝家の妻。
柴田のお藤の方。
……お藤の方。
自分で思って、なんだか妙に照れた。
「お藤の方、でございますね」
「於光様、今それを言わないでください」
支度を手伝ってくれていた於光様が、にこにこと笑う。
「まあ、どうしてです?」
「心臓に悪いからです」
「慣れていただきませんと」
「慣れる気がしません」
本当に。
まったく。
私は前世では独身だった。
今世でも二十歳まで嫁げず、これはもう今世でも結婚できないなと思っていた。
それが、まさか。
柴田勝家の妻になる。
何回考えても、現実感がない。
しかも相手は、あの勝家殿である。
無骨で。
言葉が少なくて。
説明を省きがちで。
八右衛門殿の胃を痛める原因で。
でも義銀と千若を大事にしてくれて。
信行様を兄殺しの道から引き戻した人。
そして、笑うと非常に心臓に悪い人。
その人の妻になる。
駄目だ。
考えると顔が熱くなる。
「藤乃おば様、綺麗!」
ひょこっと顔を出した千若が、目を輝かせてそう言った。
「千若」
「本当に綺麗!」
「ありがとう」
私は思わず笑った。
千若は十歳にもなっていないのに、この二年でずいぶん背が伸びた。
それでも、こうして目を輝かせてくれるところは、まだ幼い。
その後ろから義銀が顔を出す。
「叔母上」
「義銀」
義銀は、少しだけ言葉に詰まった。
それから、深く頭を下げる。
「おめでとうございます」
その声に、胸が詰まった。
ああ、だめ。
今日は泣かないと決めたのに。
「ありがとう、義銀」
「勝家殿ならば、叔母上を必ず幸せにしてくださると思います」
「……うん」
「ですが」
義銀は、少しだけ真面目な顔をした。
「何かあれば、私にお申し付けください」
「義銀?」
「私は叔母上の甥であり、斯波の者ですので」
待って。
何その顔。
完全に、嫁に行く叔母を見送る実家代表の顔である。
いや、間違っていない。
間違っていないけど。
「義銀、勝家殿に喧嘩売らないでね?」
「売りません」
「本当に?」
「勝家殿は尊敬しておりますので」
「ならよかった」
「ただし、叔母上を泣かせた場合は別です」
義銀さん。
やめなさい。
於光様が、まあ、と笑った。
「頼もしい甥御様ですこと」
「於光様、笑いごとではありません」
「大丈夫ですよ。勝家は不器用ですが、藤乃姫を粗末にはいたしません」
於光様の声は穏やかだった。
その言葉が、すとんと胸に落ちる。
そうだ。
勝家殿は、不器用だ。
言葉も少ない。
けれど、大事なところで人を粗末にしない。
私を褒美としてではなく、妻に望む相手として扱ってくれた。
義銀に筋を通し、信長様にも筋を通し、於光様と八右衛門殿にも頭を下げた。
それが、嬉しかった。
婚礼そのものは、厳かに進んだ。
緊張しすぎて、正直なところ細かいところはあまり覚えていない。
ただ、隣に勝家殿がいた。
それだけは、はっきり覚えている。
勝家殿は、いつもより少し改まった装いで、背筋を伸ばし、真面目な顔をしていた。
いや、いつも真面目な顔ではある。
でも今日は、何というか。
いつも以上に、格好よかった。
やめてほしい。
婚礼の日に夫が格好よすぎるのは、心臓に悪い。
私がちらりと横を見ると、勝家殿もこちらを見た。
目が合った。
私は慌てて目を逸らした。
すると、勝家殿がほんの少しだけ口元を緩めた。
見た。
見てしまった。
笑った。
あの人、また笑った。
駄目だ。
本当に駄目だ。
式の最中に心臓が跳ねる。
私は必死に平静を装った。
たぶん、装えていなかった。
婚礼の宴は、柴田家らしく賑やかだった。
武骨な家中の者たちが、妙に嬉しそうに酒を酌み交わしている。
女中さんたちも楽しそうで、於光様は完璧な差配で場を整え、八右衛門殿は胃を押さえながらも、どこかほっとした顔をしていた。
千若は、料理を見て目を輝かせている。
義銀は、私の方を見ては少しだけ微笑む。
ああ。
幸せだ。
そう思った。
こんな日が来るとは思わなかった。
米櫃の底を見ていた頃には、考えもしなかった。
守護邸が燃えた日には、想像もできなかった。
私は今、柴田家の宴の中にいる。
勝家殿の隣にいる。
その事実が、胸の奥をじんわり温める。
だが、そこで終わらないのが、この家である。
いや、この時代である。
宴が半ばを過ぎた頃、門の方が急に騒がしくなった。
「何事ですか」
八右衛門殿が立ち上がる。
家中の者が慌てたように走ってくる。
「お、お客様が」
「客? 今さらどなたが」
「その、御忍びで……」
嫌な予感がした。
御忍び。
この言葉が似合わない人を、私は一人知っている。
次の瞬間、広間の空気が凍った。
現れたのは、織田信長様だった。
その隣に、信行様。
二人とも、いかにも「こっそり来ました」という顔をしている。
いや、無理です。
全然こっそりじゃありません。
存在感が強すぎます。
清洲城の主と、その弟が婚礼の宴に来た時点で、忍ぶも何もない。
宴が一瞬で大混乱になった。
「信長様!?」
「勘十郎様まで!?」
「なぜこちらに!?」
八右衛門殿の顔色が消える。
於光様は一瞬だけ目を瞬かせ、それから完璧な笑顔で頭を下げた。
強い。
本当に強い。
勝家殿は、珍しく少しだけ驚いた顔をした。
「信長様」
「祝いに来た」
信長様は当然のように言った。
「御忍びで」
八右衛門殿が胃を押さえた。
「御忍びとは」
「忍んでおるだろう」
「まったく忍べておりませぬ」
「細かい」
細かくない。
かなり大ごとである。
信行様は、少し困ったように笑いながら頭を下げた。
「急な訪い、申し訳ない。兄上が、どうしても顔を出すと」
「勘十郎、お前も来ると言ったであろう」
「私は、もう少し穏便にと申しました」
「祝いは早い方がよい」
「御忍びの意味をもう少しお考えください」
あ。
信行様、すでに胃痛ポジションが板についてきている。
八右衛門殿と少し似た顔をしている。
私は思わず口元を押さえた。
信行様と目が合う。
すると、信行様は柔らかく笑った。
「藤乃姫」
そう呼んでから、少し考えたように首を傾げる。
「いや、今はお藤の方とお呼びするべきですかな?」
お藤の方。
その名で呼ばれた瞬間、胸がきゅっとした。
本当に、私は今日からそう呼ばれるのだ。
柴田のお藤の方。
勝家殿の妻として。
「お好きにお呼びくださいませ、信行様」
なんとかそう答えると、信行様はふっと笑った。
「では、お藤の方」
信行様は、私に向かって丁寧に頭を下げた。
「適材適所。良き言葉をありがとうございました」
息が止まった。
あの言葉。
私が、焦って言った言葉。
信長様は更地にするのが得意そうで、信行様はその道を舗装するのが向いている、などという、我ながらどうかと思う比喩。
それを、信行様は覚えていてくださった。
「私は、兄上にはなれませぬ」
信行様は静かに言った。
「ですが、兄上の作った道を整え、後続を進ませることならば、私にもできるかもしれぬ。そう思えました」
信行様の顔は、以前より少しだけ強く見えた。
怯えが消えたわけではない。
でも、怯えているだけではない。
自分の立つ場所を見つけた人の顔だった。
「お藤の方」
「はい」
「末永く、勝家をよろしく頼みます」
その言葉に、私は思わず勝家殿を見た。
勝家殿は少しだけ視線を逸らしている。
耳が赤い。
あ。
赤い。
勝家殿の耳、赤い。
私はなぜかそれを見て、胸がいっぱいになった。
「こちらこそ」
私は深く頭を下げた。
「信行様も、どうか信長様の隣で、八右衛門殿のように胃を痛めすぎない程度に頑張ってくださいませ」
言ってから、しまったと思った。
また言った。
また余計なことを言った。
けれど信行様は、声を出して笑った。
「ははっ。無理ですな。兄上の隣は、胃に悪い」
八右衛門殿が深く頷いた。
「よく分かります」
「八右衛門殿」
「はい」
「今度、胃の痛め方をご教授願おう」
「できれば痛めぬ方法をお教えしたいところでございます」
広間に笑いが起きた。
信長様が、それを面白そうに眺めている。
「お藤」
いきなり呼ばれた。
私はびくっとした。
信長様に、いきなりお藤と呼ばれた。
距離が近い。
怖い。
「は、はい」
「権六が評議の場で何をしたか、聞いたか」
勝家殿が固まった。
「あの、少しだけ」
「では、詳しく話してやろう」
「信長様」
勝家殿が低い声を出した。
信長様は無視した。
「褒美を問うたらな。権六がぽつりと申した」
やめて。
やめてください。
それは私が恥ずかしいやつです。
「藤乃殿、と」
広間がざわついた。
いや、もう皆知っているのかもしれない。
でも本人の前で言わないでほしい。
勝家殿は無言で固まっている。
信長様は楽しそうだった。
とても楽しそうだった。
「清洲の広間が止まったぞ。あの鬼柴田が、馬でも槍でも金子でもなく、姫の名を口にしたのだからな」
「信長様」
勝家殿の声が少しだけ低くなる。
でも信長様は止まらない。
「しかもその後、何でもないと言い張る。名を呼んでおいて何でもないは通らぬだろう」
信行様が口元を押さえている。
笑っている。
八右衛門殿も笑いを堪えている。
於光様は堂々と笑っている。
私は顔が熱い。
とても熱い。
「信長様、どうかその辺で」
「なんだ、お藤。照れておるのか」
「照れております!」
開き直った。
もう無理。
照れていないふりなんてできない。
信長様は、一瞬きょとんとしたあと、声を上げて笑った。
「ははっ。よいな、権六。面白い妻を得た」
勝家殿が、静かに私を見る。
その目が、また柔らかかった。
「はい」
短い返事。
でも、その一言に、胸がぎゅっとなった。
はい、って。
はい、って言った。
私を妻として、面白い妻を得たと言われて、はいって言った。
駄目だ。
幸せで頭がおかしくなりそう。
信長様は盃を取った。
「では、祝いだ」
広間が静まる。
信長様が盃を掲げる。
「柴田権六勝家と、お藤の方の婚礼を祝う」
信行様も盃を掲げた。
「末永く、よき夫婦で」
於光様が微笑む。
八右衛門殿が、ようやく少しだけ胃から手を離す。
義銀と千若が、嬉しそうにこちらを見ている。
勝家殿が、隣にいる。
私は盃を持つ手が少し震えた。
でも、今度の震えは怖さではなかった。
嬉しくて。
幸せで。
胸がいっぱいで。
どうしようもなく震えていた。
「お藤」
勝家殿が、低く呼んだ。
初めての呼び方だった。
藤乃殿ではなく。
お藤。
私は顔を上げた。
「はい、勝家様」
自然に、そう呼んでいた。
勝家様。
今まで勝家殿だった人。
今日から、私の夫になった人。
勝家様は、少しだけ目を見開いた。
そして、また笑った。
ほんの少しだけ。
けれど、私には十分すぎるほどだった。
宴はそのまま、さらに賑やかになった。
信長様は評議の時の勝家様の慌てぶりを面白おかしく語り、信行様はその隣で時々胃を押さえながらも笑っていた。
八右衛門殿は「信行様、こちら側へようこそ」とでも言いたげな顔をしていて、於光様は完璧に場を整えながら楽しそうにしていた。
義銀は少しだけ寂しそうで、でも心から嬉しそうだった。
千若は料理をたくさん食べながら、「藤乃おば様、柴田のおば様になるの?」と聞いてきた。
私は笑って答えた。
「そうね。柴田のお藤の方、かしら」
「お藤の方!」
千若が嬉しそうに繰り返す。
その声が、胸に温かく響いた。
柴田のお藤の方。
それが、これからの私の名になる。
歴史がどうなるのかは分からない。
信長様がどこまで走るのかも分からない。
信行様がどれだけ胃を痛めるのかも分からない。
義銀と千若がどんな道を進むのかも分からない。
そして、私が知っている史実とは、もう何もかも違ってしまった。
けれど。
今、私は幸せだった。
心から、そう思った。
守護邸は燃えた。
兄は亡くなった。
何もかも失ったと思った。
でも、義銀が助けを求めて走ってくれた。
千若が生きていてくれた。
勝家様が、私たちを助けてくれた。
柴田家が、私たちを受け入れてくれた。
そして今日、私は柴田勝家の妻になった。
宴の笑い声の中で、私はそっと隣を見る。
勝家様がいる。
無骨で、不器用で、言葉が少なくて。
でも、私を妻に望んでくれた人。
私は、胸の奥がじんわり温かくなるのを感じながら、小さく息を吐いた。
ああ。
私、柴田勝家の奥さんになりました。
そう思ったら、どうしようもなく幸せで。
私は、こぼれそうになる涙を笑顔で誤魔化しながら、にぎやかな婚礼の宴の中に座っていた。




