第十八話 うつけの弟ゆえ
「藤乃殿が、こう申しておりました」
出立の直前、勝家が言った。
すでに兵は動いている。
表向きは、勘十郎信行が兄・信長を討つために兵を挙げた。
柴田勝家は、その信行に従った。
そう見せている。
そう見せなければならない。
信行の周囲には、すでに目の色を変えた者たちがいた。
「今こそ」
「勘十郎様が立たれる時」
「信長様では織田は乱れる」
「柴田殿もお味方ならば、勝てる」
そんな言葉が、熱を帯びて渦巻いている。
その中で、信行は馬上にいた。
手綱を握る指は、冷えていた。
怖い。
やはり、怖い。
これは芝居だ。
信長も承知している。
勝家も側にいる。
不穏分子を釣り上げるための策だ。
分かっている。
分かっているのに、兵が動く音を聞くと、胃の底が冷える。
もし、この中の誰かが本当に暴走したら。
もし、信長が途中で見限ったら。
もし、自分が最後の最後で間違えたら。
そう思うと、息が詰まりそうだった。
そんな時に、勝家が藤乃姫の名を出した。
「斯波の姫君が?」
信行は勝家を見る。
勝家は、いつものように無骨な顔で、いつものように真面目だった。
「藤乃殿が、信行様は信長様の隣で、我が家令の八右衛門のように胃を痛めている方が似合う、と」
一瞬、信行は何を言われたのか分からなかった。
信長の隣。
胃を痛める。
八右衛門。
柴田家の家令、渋川八右衛門。
勝家の無茶に頭を抱え、於光殿にたしなめられ、それでも帳面と屋敷を回している、あの実務の男。
そういえば、柴田の屋敷で何度か見た。
勝家が説明を省き、八右衛門が胃のあたりを押さえる。
於光殿がにこやかに場を整え、八右衛門がさらに胃を痛める。
藤乃姫が妙な角度から核心を突き、八右衛門が帳面を抱えて固まる。
信長の隣に立つ自分。
兄上が無茶をする。
自分が胃を痛める。
それでも、道を整え、後続を進ませる。
あまりに想像できた。
信行は思わず吹き出した。
「ふ……っ」
こんな時に笑うべきではない。
分かっている。
兵を挙げた夜である。
謀反の夜である。
いや、謀反の芝居の夜である。
それでも、笑ってしまった。
「はは……っ」
勝家が少しだけ目を瞬かせる。
信行は口元を押さえた。
「確かに、似合う」
言ってから、また少し笑った。
信長の隣で胃を痛める自分。
兄の速さに振り回され、兄の無茶に顔を青ざめさせ、兄が更地にした道を必死に整え、後続を走らせる自分。
あまりに想像できた。
そして、それは不思議と悪くなかった。
兄の代わりになるのではない。
兄を討つのでもない。
兄の隣で、胃を痛めながらでも兄の道を整える。
それならば、自分にもできる。
「斯波の姫君には、本当に足を向けられんな」
信行が言うと、勝家は少しだけ困った顔をした。
「おそらく、藤乃殿は気にされます」
「そうだろうな」
その姫君は、きっと自分の言葉がここまで来ているなど思ってもいないのだろう。
ただ、兄弟が争う必要はないと言った。
ただ、役目を分ければよいと言った。
そして、その言葉は信行の胸に落ちた。
適材適所。
これほど、胸に馴染む言葉はなかった。
信行は息を吸った。
まだ怖い。
だが、震えは止まっている。
「勝家」
「はっ」
「行くぞ」
勝家は深く頭を下げた。
「はっ」
兵は進んだ。
信長を討つために。
少なくとも、そう見えるように。
信行の旗が掲げられ、勝家が側に立つ。
それを見た者たちは、ついに勘十郎様がお立ちになったと沸いた。
文を回した者。
兵を集めた者。
信長の留守を狙うと囁いた者。
母の名を使おうとした者。
彼らは、今夜こそ勝負だと思っていたのだろう。
誰も知らない。
信行が、兄を討つためではなく、兄の隣へ行くために馬を進めていることを。
勝家が、信行を担ぐためではなく、信行を支えるために側にいることを。
そして信長が、すでにそのすべてを承知して待っていることを。
やがて、前方の空気が変わった。
進軍していた兵たちの足が鈍る。
ざわめきが広がる。
「何だ」
「どうした」
「前が……」
信行は顔を上げた。
その先に、信長がいた。
織田信長は、馬上で待っていた。
月明かりの下、黒い影のように。
けれど、その存在感だけは、誰よりもはっきりしていた。
信長の背後には、すでに兵が並んでいる。
左右にも。
退路にも。
まるで袋の口を締めるように。
信行たちを囲む形で、信長の兵が布陣していた。
袋の鼠。
その言葉が、頭に浮かんだ。
兄上は、本当に恐ろしい。
信行は思わず、そう思った。
兵を挙げたように見せた自分たちを、兄はすでに待っていた。
逃げ道を塞ぎ、声を上げる者を見分けられるようにしている。
ここで誰が前へ出るか。
ここで誰が信行を押すか。
ここで誰が本当に信長を討てと言うか。
すべて見るつもりなのだ。
信長は、馬上で笑っていた。
楽しそうに。
心底、楽しそうに。
「勘十郎」
その声が響いた。
兵たちのざわめきが止まる。
信行は、手綱を握り直した。
怖い。
やはり怖い。
だが、ここで止まれば、また担がれる側に戻る。
勝家が、すぐ側にいる。
「勘十郎様」
低い声。
それだけで、信行は息を整えた。
「行かれるのですな」
「行く」
信行は答えた。
「兄上の隣へ」
勝家は深く頷いた。
信行は馬を進めた。
ざわめきが広がる。
「勘十郎様?」
「何を」
「前へ出ては危のうございます!」
不穏分子たちが慌てている。
当然だ。
彼らは、信行が信長と対峙するものだと思っていた。
信長を敵として睨み、勝家を先陣に立て、兵を進ませるものだと思っていた。
だが信行は、刃を向けるためではなく、兄の隣に並ぶために進んでいる。
信長の馬のすぐ近くまで来ると、信行は一度だけ深く息を吸った。
信長が、愉快そうに弟を見る。
「よう来たな、勘十郎」
「兄上」
「怖いか」
「怖いです」
信長は笑った。
「正直でよい」
以前と同じ言葉だった。
だが今の信行は、少しだけ違う。
怖いと言っても、逃げなかった。
信行は馬を進め、信長の隣に並んだ。
後ろではない。
向かいでもない。
隣に。
その瞬間、場が大きく揺れた。
「勘十郎様!?」
「何をなさる!」
「我らを謀りましたか!」
「臆病風に吹かれましたか!」
「信長に屈したのですか!」
罵声が飛んだ。
信行は、それを正面から受けた。
顔色は悪い。
手も、ほんの少し震えている。
けれど、もう逃げない。
隣には信長がいる。
少し後ろには勝家がいる。
そして、胸の奥には藤乃姫の言葉がある。
適材適所。
信行は、ゆっくりと息を吐いた。
そして、笑った。
「ははっ」
その笑いに、不穏分子たちが言葉を止める。
信行は顔を上げた。
「皆様方、お忘れのようですが」
声は、震えていなかった。
「私は、うつけの弟ゆえ」
信長の目が、愉快そうに細まる。
信行は、兄の横で堂々と前を向いた。
「演技も、なかなか上手かったでしょう?」
ざわり、と場が揺れた。
不穏分子たちの顔色が変わる。
信行は、その反応を見た。
ああ。
この者たちは、本当に自分を担げると思っていたのだ。
自分を恐れさせ、煽り、背を押せば、好きなように動かせると思っていたのだ。
そう分かると、不思議と腹が据わった。
「私を担げると思いましたか」
誰も答えない。
「兄上を恐れる私なら、少し囁けば、少し煽れば、あなた方の望む通りに動くと思いましたか」
男たちの顔が青ざめていく。
信行は続けた。
「確かに、私は兄上が恐ろしい」
場が静まる。
「兄上の考えが分からぬ時もある。兄上の速さに追いつけぬ時もある。兄上の背が、あまりに遠く見える時もある」
信行は、隣の信長を見た。
兄は何も言わない。
ただ、面白そうに弟を見ている。
信行は、もう一度前を向いた。
「ですが、私は兄上にはなれぬ」
はっきりと言った。
「兄上のように、誰より先を見て、誰より早く駆け、道なき場所に道を作ることは、私にはできぬ」
不穏分子たちが息を呑む。
信行の声は強くなった。
「だが、兄上の作った道を、堅実に、一歩一歩、踏み固めることはできる」
その言葉に、勝家がわずかに頭を下げた。
「荒れた道を整え、兵糧を運び、後続をまとめ、大軍を向かわせる。兄上が切り開いた先へ、人と兵と物を送り届ける」
信行は、不穏分子たちを見据えた。
「それが、我が役目だ」
場が、静まり返る。
「私は、兄上の代わりになるために立つのではない」
信行は、はっきりと言った。
「兄上の隣で、兄上の作った道を広げるために立つ」
信長の口元が、わずかに上がった。
信行はさらに続ける。
「ゆえに、兄上を討てと囁く者は、私の味方ではない」
言葉が、夜の中へ落ちる。
「兄弟を争わせる者は、そのどちらの味方でもない」
藤乃姫の言葉だった。
けれど今は、信行自身の言葉でもあった。
「私は、ようやくそれを知った」
不穏分子たちは、もう何も言えなかった。
信長が、そこでようやく口を開いた。
「さて」
低く、楽しげな声だった。
「鼠は、存外よく釣れたな」
信行が、ほんの少しだけ青ざめる。
分かっていたことだ。
だが、信長がそう言うと、やはり怖い。
けれど、信行は隣から動かなかった。
信長はそんな弟を横目で見て、愉快そうに笑った。
「悪くないぞ、勘十郎」
信行は、一瞬だけ目を見開いた。
兄に褒められた。
それだけのことなのに、胸の奥が熱くなる。
けれど、泣くわけにはいかない。
泣くなら終わってからにしろと、兄に言われている。
信行は、深く頭を下げた。
「ありがとうございます、兄上」
「礼はあとだ」
信長は、不穏分子たちへ目を向ける。
「まずは、この者どもを片づける」
その声に、場の空気が一気に凍った。
信長の兵が動く。
勝家もまた、信行の少し後ろで構えた。
不穏分子たちは、自分たちが担いだはずの信行が信長の隣に立っている事実に、ようやく理解が追いついたのだろう。
逃げようとする者。
言い訳を始める者。
信行を罵る者。
勝家を裏切り者と叫ぶ者。
そのすべてを、信長の網は逃がさなかった。
袋の鼠。
本当にそうだった。
だが、袋に入っていたのは信行ではない。
信行を旗にして、兄弟を争わせようとした者たちだった。
信行は、信長の隣に立ったまま、拳を握った。
震えはまだある。
けれど、その震えはもう、逃げるためのものではなかった。
この夜、織田家の中に潜んでいた毒の三分の一が、信行という餌に食いついた。
そして信行は、初めて兄の後ろではなく、兄の隣に立った。
それは小さな一歩だった。
だが、その一歩は、信行にとって生涯忘れられぬ一歩となる。
信長が切り開く道を、堅実に踏み固める。
その役目を、信行はこの夜、自ら選んだのだった。




