第十九話 夜明け前の帰還
勝家殿が戻ったのは、夜明け前だった。
空はまだ暗い。
けれど、真夜中の黒ではなく、遠くの端がほんの少しだけ白み始めている。
私は、結局ほとんど眠れなかった。
布団には入った。
目も閉じた。
けれど、まぶたの裏に浮かぶのは、夜の中へ消えていく勝家殿の背中ばかりだった。
謀反。
いや、謀反の演技。
分かっている。
信長様も、信行様も、勝家殿も分かっている。
全部、兄弟を争わせようとする者たちを釣り上げるための芝居だ。
そう聞いている。
でも、怖かった。
だって、史実では柴田勝家は信長様の弟側についた。
そして信長様は、弟を斬った。
詳しくは知らない。
細かい流れも知らない。
そもそも私は戦国オタクではない。
けれど、その断片だけは知っている。
だから、怖かった。
この世界で何か一つ間違えれば、勝家殿は本当に信長様に敵対したことになるかもしれない。
信行様が、本当に兄と争うことになるかもしれない。
勝家殿が、帰ってこないかもしれない。
そう思うたび、胸の奥が冷えた。
「叔母上」
隣で声がした。
義銀だった。
義銀もまた、起きていた。
いや、私が眠れないのを察して、付き合ってくれていたのだろう。
この子は本当に、変なところで気を遣う。
「眠っていていいのよ」
「叔母上が眠られましたら」
「……義銀、そういうところ、勝家殿に似てきたわね」
「そうでしょうか」
義銀は少しだけ困った顔をした。
けれど、どこか嬉しそうでもあった。
勝家殿は、義銀にとって目指すべき人だ。
救ってくれた人。
槍を教えてくれる人。
力みすぎると叱ってくれる人。
義銀が勝家殿を尊敬していることは、見ていれば分かる。
だからこそ、今夜は義銀も不安なのだろう。
信長様も。
信行様も。
勝家殿も。
義銀にとって、大切な人たちが危うい橋を渡っている。
「……大丈夫でしょうか」
義銀がぽつりと言った。
私は答えようとして、言葉に詰まった。
大丈夫。
そう言いたい。
けれど、私の手はまだ震えている。
袖の中で握り込んだ指先が、どうしても強張っている。
「大丈夫に、なってほしいわね」
ようやく、それだけ言った。
義銀は静かに頷いた。
その時だった。
屋敷の外が、わずかに騒がしくなった。
大きな騒ぎではない。
けれど、夜明け前の静けさの中では、その小さな気配だけでも分かる。
足音。
低い声。
門が開く音。
私は立ち上がった。
「叔母上」
義銀もすぐに立つ。
廊下へ出ると、於光様も出てきていた。
八右衛門殿もいる。
八右衛門殿は、いつも以上に顔色が悪い。
いや、夜通し胃を痛めていたのだろう。
「勝家が戻りました」
於光様が言った。
その声は落ち着いていた。
でも、手元の扇を握る指に、少しだけ力が入っている。
於光様も、心配していたのだ。
当たり前だ。
弟なのだから。
私たちは玄関へ向かった。
そして、そこに勝家殿がいた。
土埃を被っている。
肩に少しだけ汚れがついている。
顔には疲れがある。
けれど、立っていた。
自分の足で。
ちゃんと、戻ってきた。
その姿を見た瞬間、膝から力が抜けそうになった。
無事だった。
勝家殿が、無事だった。
「勝家」
於光様が一歩前に出る。
「戻った」
勝家殿は短く言った。
それだけ。
本当に、それだけ。
でも、その一言で、屋敷の空気が少しだけ緩んだ。
八右衛門殿が大きく息を吐いた。
「戻った、ではございません。報告を」
「後で」
「今です」
「……分かった」
勝家殿が少しだけ目を伏せた。
あ、負けた。
於光様ではなく、八右衛門殿に負けた。
いや、八右衛門殿の胃痛が限界だったのかもしれない。
勝家殿の視線が、私へ向いた。
「藤乃殿」
「は、はい」
声が少し上ずった。
恥ずかしい。
でも仕方ない。
今、私は勝家殿が生きて帰ってきたことだけで、胸がいっぱいなのだ。
「……戻った」
勝家殿は、私にも同じことを言った。
戻った。
たったそれだけ。
でも、それは私には、帰ってきた、と聞こえた。
「お帰りなさいませ」
気づけば、そう言っていた。
勝家殿の目が、ほんの少しだけ揺れた。
本当に少しだけ。
でも、私は見た。
勝家殿は低く答えた。
「うむ」
それだけ。
でも、それだけで十分だった。
私は泣きそうになるのを必死で堪えた。
ここで泣いたら、また於光様に手拭いを用意されてしまう。
いや、たぶん用意されている。
絶対ある。
「奥へ」
於光様が言った。
「話は座って聞きましょう。勝家も、まず水を」
「不要」
「勝家」
「……いただく」
早い。
於光様、強い。
いつも通りのやり取りに、少しだけ安心した。
部屋に入ると、勝家殿は水を飲み、ようやく報告を始めた。
「勘十郎様は、信長様の隣に立たれた」
その言葉に、私は息を呑んだ。
隣。
信長様の、隣。
「ご無事ですか」
義銀が問う。
「無事だ」
「信長様は」
「ご無事」
「では」
義銀の声が少しだけ震えた。
「兄弟は、争わずに済んだのですね」
勝家殿は頷いた。
「済んだ」
その一言で、私はやっと息ができた。
よかった。
本当に。
本当に、よかった。
信行様は死ななかった。
信長様は弟を斬らなかった。
勝家殿も、帰ってきた。
歴史が変わった。
そう思った瞬間、背筋が震えた。
歴史が変わったのだ。
私が知っている断片とは違う方向へ。
それは嬉しい。
でも、怖くもあった。
変わった歴史が、必ず良い方向へ進むとは限らない。
だから、まだ油断できない。
勝家殿は続けた。
「不穏な者どもは、釣れた」
八右衛門殿が眉間を押さえる。
「数は」
「勘十郎様の周りに集まった者のうち、三分の一ほど」
「三分の一……」
八右衛門殿の顔色が、さらに悪くなった。
「多いですな」
「多い」
勝家殿は短く言った。
「文を回した者。兵を動かそうとした者。母君の名を使おうとした者。信長様を討てと明言した者。いずれも名が上がった」
部屋の空気が重くなる。
三分の一。
それだけの人間が、信行様を旗にして信長様を討とうとした。
いや、信行様を心配していたのではない。
信行様を利用していた。
兄弟を争わせようとしていた。
私の手が、また震えそうになった。
けれど、勝家殿は続けた。
「ただし、三分の一は違う」
「違う、とは」
於光様が静かに尋ねる。
勝家殿は少しだけ目を伏せた。
「本気で、兄弟が争うのを心配していた者たちだ」
私は顔を上げた。
「信長様を恐れ、勘十郎様の身を案じ、だが兄弟が争うことを望まなかった者たちがいた」
勝家殿の声は低い。
「その者たちは、今夜、不穏分子を打ち破る側に回った」
義銀が息を呑んだ。
「信行様を案じていた方々が、信行様を利用しようとした者たちを止めたのですか」
「そうだ」
勝家殿は頷いた。
「勘十郎様が信長様の隣に立たれた時、その者たちは迷わなかった」
私は、胸の奥が熱くなった。
三分の一は、裏切った。
けれど、三分の一は、本気で心配していた。
信行様を担ぐのではなく、信行様を守りたかった人たち。
信長様を恐れていても、兄弟が血で争うことまでは望まなかった人たち。
その人たちが、今夜、信行様の本当の味方になった。
「……よかった」
思わず、呟いた。
勝家殿が私を見る。
私は慌てて言葉を足した。
「あ、いえ、裏切った方々がいたことは、まったく良くないのですが。でも、信行様の周りに、本当に心配していた方々もいたのなら、それは、よかったと思って」
勝家殿は静かに頷いた。
「勘十郎様も、そう仰った」
「信行様が」
「自分を本気で案じた者と、利用した者を同じにはしたくない、と」
私は少しだけ目を伏せた。
信行様は、きっと怖かっただろう。
自分を慕うような顔をした人たちの中に、自分を旗としてしか見ていない人間がいた。
それを知るのは、つらい。
でも同時に、本当に案じてくれた人たちもいた。
それを見分けられたことは、きっと大きい。
八右衛門殿が静かに言った。
「では、残る三分の一は」
「流された者たちだ」
勝家殿が答える。
「どちらにつくか見ていた者。場の空気に乗った者。強い方へ転ぶつもりだった者」
八右衛門殿は深く息を吐いた。
「一番処分が難しい者たちですな」
「明日、清洲で評議が開かれる」
勝家殿の声に、部屋の空気がまた変わった。
清洲。
信長様の城。
そこで、今回の仕置が決まる。
「信長様は、義銀殿にも同席するようにと仰った」
「私に、ですか」
義銀の顔が強張る。
「はい」
勝家殿は、義銀を見た。
「今後、信長様の側で学ぶ者として、見ておけと」
義銀は、しばらく黙った。
私は思わず義銀を見る。
心配だった。
この子はまだ十六だ。
けれど、信長様は義銀に見せようとしている。
人が裏切ることを。
不穏分子を釣り上げることを。
仕置が下されることを。
戦だけではない。
家を治めるとは、そういうものを見ることでもあるのだと。
義銀はゆっくりと息を吸った。
そして、まっすぐ勝家殿を見た。
「喜んでお供します」
声は震えていなかった。
「信長様が見ておけと仰るなら、私は見ます」
「義銀」
思わず名を呼ぶ。
義銀は私を見る。
少しだけ、昔の顔になった。
魚を獲りに行って、叱られるのを覚悟していた時のような顔。
でも、すぐに若武者の顔に戻る。
「叔母上。私は、知らねばなりません」
その言葉に、私は何も言えなくなった。
義銀はもう、ただ守られる子供ではない。
もちろん、私から見ればまだ甥だ。
頭を撫でたくなる子だ。
でも、義銀は自分の足で信長様の側へ進もうとしている。
それを止めることはできない。
止めたくもない。
ただ、心配なだけだ。
「……無理はしないでね」
結局、それしか言えなかった。
義銀は少しだけ笑った。
「はい」
勝家殿が義銀へ頷く。
「明朝、共に清洲へ」
「はい」
八右衛門殿が、そこで小さく咳払いした。
「では、勝家殿。清洲での評議に向けて、今から確認すべきことがございます」
「今からか」
「今からです」
「夜が明ける」
「明けますな」
「寝ぬのか」
「寝られると思いますか」
勝家殿は黙った。
於光様がにこやかに言う。
「八右衛門殿、倒れるなら評議の後にしてくださいませ」
「於光、それは優しさですか」
「もちろん」
「本当に?」
「もちろん」
八右衛門殿は、また胃のあたりを押さえた。
私は少しだけ笑ってしまった。
こんな時なのに。
いや、こんな時だからこそ、笑えたのかもしれない。
勝家殿が無事に戻った。
信行様は信長様の隣に立った。
不穏分子は釣り上がった。
本当に信行様を案じていた人たちは、信行様を利用しようとした者たちを打ち破った。
まだ、終わってはいない。
明日、清洲で評議がある。
そこで仕置が決まる。
血が流れるかもしれない。
誰かが罰されるかもしれない。
信行様も、勝家殿も、まだ完全に安全とは言えない。
それでも。
今夜、兄弟は争わなかった。
それだけで、少しだけ救われた気がした。
やがて、空が白み始めた。
部屋の外が、ゆっくり明るくなっていく。
夜の黒が薄れ、障子の向こうに淡い光が差した。
私はそっと立ち上がり、外を見た。
朝日が昇るところだった。
とてもきれいな朝日だった。
血の色ではなく。
炎の色でもなく。
ただ、新しい一日が始まる色だった。
私は、その光を見ながら思った。
どうか、この朝が、良い方へ続きますように。
勝家殿が戻ってきたこの朝が。
信行様が兄の隣に立ったこの朝が。
義銀が清洲へ向かうこの朝が。
どうか、誰かを失う朝ではなく。
何かを守れた朝になりますように。
そう祈りながら、私は夜明けの光を見つめていた。




