第十七話 謀反の夜に笑う人
その夜、柴田家の屋敷は静かだった。
静かすぎるほどに。
普段なら、夜になってもどこかしらに人の気配がある。
八右衛門殿が帳面をめくる音。
於光様が女中に小声で指示を出す声。
義銀が書を読む気配。
千若の寝息。
けれど今夜は、屋敷そのものが息を潜めているようだった。
理由は分かっている。
勝家殿が、出る。
表向きには、信行様の側につくために。
つまり、謀反に向かう。
いや、違う。
謀反の演技に向かう。
分かっている。
分かっているのだ。
信行様は、信長様を討つつもりではない。
勝家殿は、信行様を担ぐのではない。
信長様も承知の上で、不穏分子を炙り出す。
そう聞いている。
それでも、怖いものは怖い。
だって、史実では柴田勝家は信長様の弟側についた。
そして信長様は、弟を斬った。
詳しい流れは知らない。
けれど結末だけは知っている。
だから、怖い。
この道が、本当に演技のままで終わるのか。
どこかで誰かが間違えて、本物の謀反になってしまわないか。
勝家殿が、その火に呑まれてしまわないか。
私は、膝の上で手を握りしめた。
震えている。
嫌になる。
こんな時くらい、しっかり笑って見送りたいのに。
部屋の中央には、出立の支度を整えた勝家殿がいた。
鎧姿ではない。
だが、すぐに戦へ出られる装いだった。
無骨で、隙がなくて、やっぱり格好いい。
本当にやめてほしい。
こんな時にまで格好いいの、心臓に悪い。
八右衛門殿は、胃のあたりを押さえながらも、表情を崩さず立っていた。
「勝家殿。くれぐれも、くれぐれも、手順を違えませぬよう」
「分かっておる」
「本当に?」
「……分かっておる」
「その返事は信用ならぬと、於光がいつも申しております」
「八右衛門殿」
於光様が穏やかに口を挟む。
「私は『勝家の分かっているは、半分ほど分かっていない時の返事です』と申しただけです」
「同じでは?」
「少し違います」
違うんだ。
私は思わず、少しだけ笑いそうになった。
この夫婦、本当に強い。
こんな夜でも、いつもの調子を少しだけ残してくれる。
義銀は、私の隣に座っていた。
顔は青ざめている。
けれど、背筋は伸びていた。
この子も怖いのだろう。
信長様の側で学ぶ義銀にとって、これはただの家中の騒ぎではない。
信長様と信行様。
そして勝家殿。
その全員が、危うい橋を渡ろうとしている。
千若は、もう寝かせてある。
起きていたら、きっと勝家殿の袖を掴んでしまっただろう。
私も掴みたい。
掴んで、行かないでくださいと言いたい。
でも、それはできない。
勝家殿は行かなければならない。
信行様の側に立つように見せなければならない。
不穏分子たちを安心させ、釣り上げなければならない。
ここで止めたら、もっと悪い未来が来る。
分かっている。
分かっているけど、怖い。
勝家殿が、私を見た。
「藤乃殿」
「は、はい」
声が裏返った。
最悪である。
勝家殿は少しだけ眉を寄せた。
心配されている。
だめだ。
私がこんな顔をしていたら、勝家殿が行きづらくなる。
私は慌てて笑った。
笑え。
笑うんだ、藤乃。
大丈夫。
大丈夫だと言わなければ。
「だ、大丈夫ですよ!」
声が少し大きくなった。
全員の視線が私に向く。
やめて。
見ないで。
でも、もう止まれない。
「信行様は、信長様の隣で八右衛門殿みたいに胃を痛めている方が似合いますから!」
言った。
言ってしまった。
部屋が静まり返った。
あ。
やらかした。
いや、違う。
励ましたかったのだ。
信行様は信長様と争うより、信長様の隣で堅実に支える方が合うと言いたかった。
八右衛門殿みたいに胃を痛める、は完全に余計だった。
私は慌てて口を開く。
「あ、いえ、その、八右衛門殿がいつも胃を痛めておられるという意味ではなく、いや、実際に痛めておられるかもしれませんが、そうではなくてですね」
「藤乃姫」
八右衛門殿が、肩を震わせていた。
怒られる。
そう思った。
けれど。
「……ふ」
八右衛門殿が、吹き出した。
「ふ、ふふ……っ」
え。
八右衛門殿が笑っている。
胃痛担当の実務家みたいな顔の八右衛門殿が、口元を押さえて笑っている。
於光様も、扇で口元を隠しながら目を細めていた。
「まあ、藤乃姫」
その声は笑っている。
「確かに、信行様は信長様の隣で胃を痛めていらっしゃる方が、ずっとお似合いかもしれませんね」
「於光まで……」
八右衛門殿が少しだけ情けない顔をする。
けれど、まだ笑っていた。
義銀も、堪えきれないように口元を緩めている。
ああ。
少しだけ、空気が緩んだ。
よかった。
そう思った瞬間だった。
「ふ」
低い声がした。
私は顔を上げた。
勝家殿が、笑っていた。
ほんの少し。
本当に、ほんの少しだけ。
けれど、確かに。
目元がやわらぎ、口元がわずかに上がっている。
笑っている。
勝家殿が。
あの無骨で、言葉が少なくて、いつも真面目な顔をしている勝家殿が。
笑っている。
え。
かっこよ。
思考が止まった。
完全に止まった。
いや、待って。
笑うのはずるい。
普段あまり笑わない人が、こんな夜に、ふっと笑うのは本当にずるい。
しかも、これから危ない芝居に向かう人が、こちらを安心させるように笑うのは、反則では?
私は固まった。
勝家殿は、そんな私を見て、少しだけ不思議そうにした。
やめてください。
今、見ないでください。
顔が熱い気がする。
絶対、熱い。
於光様が、私と勝家殿を見比べて、何かを察したように微笑んだ。
八右衛門殿は、さっきまで笑っていたのに、今度は妙に遠い目をした。
義銀は、なぜか視線を逸らした。
やめて。
何その反応。
何もありません。
何も。
私はただ、勝家殿が笑った顔に不意打ちを食らっただけです。
それだけです。
たぶん。
勝家殿は、少しだけ私の前へ進んだ。
「藤乃殿」
「は、はい」
「勘十郎様は、信長様の隣に立たれる」
その声は静かだった。
「八右衛門のように胃を痛めるかは、知らぬ」
八右衛門殿が小さく咳き込んだ。
「ですが、できれば胃は痛めすぎぬようお伝えくださいませ」
於光様がさらりと言う。
勝家殿は、真面目に頷いた。
「伝えよう」
伝えるんだ。
いや、そこは伝えなくていいと思う。
でも勝家殿なら本当に伝えそうで怖い。
私は慌てて手を振った。
「い、いえ、そこは伝えなくて大丈夫です!」
「そうか」
「はい!」
勝家殿は少しだけ考え、それから短く言った。
「分かった」
この返事は、たぶん分かっている。
たぶん。
於光様が小さく笑う。
八右衛門殿は、また胃のあたりを押さえていた。
申し訳ない。
でも、少しだけ空気が軽くなった。
勝家殿が義銀へ視線を向ける。
「義銀殿」
「はい」
義銀はすぐに姿勢を正した。
「屋敷を頼む」
その一言に、義銀の顔が引き締まる。
「お任せください」
声はまだ若い。
けれど、しっかりしていた。
勝家殿は頷く。
「千若丸を頼む」
「はい」
「藤乃殿も」
義銀が一瞬だけ私を見た。
「はい。叔母上も、必ず」
待って。
私も頼まれる側なの?
いや、頼まれる側か。
勝家殿が、私へ向き直る。
「藤乃殿」
「はい」
「行ってくる」
たった、それだけだった。
でも、その一言が胸に刺さった。
行ってくる。
まるで、帰ってくるのが当然みたいな言い方だった。
私は、泣きそうになった。
だめ。
ここで泣いたらだめ。
笑って見送る。
そう決めた。
「はい」
私は、できる限り笑った。
「行ってらっしゃいませ、勝家殿」
勝家殿の目が、ほんの少しだけ揺れた。
そして、深く頷いた。
「うむ」
勝家殿は背を向けた。
その背中は、大きかった。
無骨で、頼もしくて、けれど今は少しだけ遠い。
於光様が静かに言う。
「勝家」
勝家殿が振り返る。
「必ず戻りなさい」
「承知」
「怪我も、できれば少なく」
「できれば、か」
「無傷で戻れと言っても、あなたは聞かないでしょう」
勝家殿は黙った。
図星らしい。
八右衛門殿が続ける。
「手順を守ってください。勝手に前に出ないでください。予定外のことをなさらないでください。報告を省かないでください」
「多い」
「普段の勝家殿への不安の数です」
「……分かった」
「本当に?」
「分かった」
「於光」
八右衛門殿が妻を見る。
於光様はにこりと笑った。
「半分ほどですね」
「でしょうな」
勝家殿は何も言い返さなかった。
そのやり取りに、また少し笑いがこぼれた。
けれど、それはすぐに静まった。
勝家殿が、今度こそ門へ向かう。
私は、その背中を見送った。
一歩。
また一歩。
夜の闇の中へ、勝家殿が進んでいく。
謀反の演技へ。
信行様を救うために。
信長様の策を成すために。
不穏分子を釣り上げるために。
そして、歴史を変えるかもしれない場所へ。
勝家殿の背が、闇に溶けていく。
私は笑顔のまま見送った。
見送ったつもりだった。
けれど、袖の中で握りしめた手は、震えていた。
ぎゅっと握っても、止まらない。
怖い。
怖いよ。
どうか。
どうか、帰ってきてください。
信行様も、信長様も、もちろん無事でいてほしい。
でも。
勝家殿。
あなたにも、必ず帰ってきてほしい。
その願いだけは、声に出せなかった。
出してしまえば、泣いてしまいそうだったから。
だから私は、ただ笑っていた。
夜の向こうへ消えていく勝家殿の背中を、ずっと見つめながら。
袖の中で震える手を、誰にも見られないように握りしめていた。




