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鬼柴田と忙しない姫 〜守護邸が燃えたので、柴田勝家の妻になりました〜  作者: まるちーるだ
鬼柴田と忙しない姫

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第十六話 適材適所


失敗したら、どうなるのだろう。


その問いが、頭から離れなかった。


兄上に斬られる。


まず、それが浮かんだ。


いや、兄上はまだ私を斬っていない。

夜半に勝家と共に訪ねた時も、兄上は私を斬らなかった。


それどころか、言った。


まだ何もしておらぬ者を、何故許さねばならん、と。


私はまだ、兄上に刃を向けていない。

だから許すも何もない。


あの言葉に、私は救われた。


救われた、はずだった。


それなのに、怖い。


この芝居が失敗したら。


私を担ごうとする者たちが、勝手に兵を動かしたら。

誰かが先走って、兄上のもとへ刃を向けたら。

兄上が、これは芝居では済まぬと判断したら。


その時、私はどうなるのだろう。


勝家はどうなるのだろう。


私を信じて側にいてくれる勝家まで、巻き込まれるのではないか。


そう思うと、指先の震えが止まらなかった。


「勘十郎様。もはや、迷っている時ではございませぬ」


目の前の男が、声を潜めて言う。


何度も聞いた声だった。


私を案じるように。

私を励ますように。

私を主と仰ぐように。


けれど今は、その声がひどく遠く聞こえる。


「信長様は、必ずや勘十郎様をお討ちになります」


別の男が続ける。


「先に動かねば、すべて奪われますぞ」


「兵を集める手はずは、こちらで」


「柴田殿も勘十郎様のお味方。今こそ、御旗を掲げられるべきです」


兵。


御旗。


先に動く。


その言葉を聞くたび、胸の奥が冷えていく。


兄上の言った通りだった。


私は怒らなくてよい。

威張らなくてよい。

ただ迷い、怯え、周囲の言葉に揺れればよい。


そうすれば、彼らは勝手に『あと一押し』と思う。


本当に、その通りだった。


私は兄を討つなど、一言も言っていない。


それなのに彼らは、もう兵の話をしている。

文を回す話をしている。

誰に声をかけるかを、得意げに語っている。


私のためだと。


織田のためだと。


そう言いながら、私を旗にして、兄上に刃を向けようとしている。


「勘十郎様?」


呼ばれて、私は顔を上げた。


皆が私を見ている。


答えを待っている。


私は唇が乾いていることに気づいた。


今、ここで頷けば、彼らはさらに進む。


だが、まだだ。


兄上は、一線を越えさせるなと言った。

勝家も、決める時は自分を通せと言った。


私は震える手を袖の中で握りしめた。


「……考えよう」


そう言うのが、精一杯だった。


男たちの顔が、ぱっと明るくなる。


「おお」


「勘十郎様」


「ついに、お覚悟を」


違う。


違うのだ。


私はまだ、覚悟などできていない。


ただ、芝居をしているだけだ。


いや。


芝居だと分かっていても、怖い。


「勝家と、話す」


私がそう言うと、男たちは満足げに頷いた。


「柴田殿ならば、必ずや勘十郎様をお支えくださいます」


「ええ、柴田殿が先陣を切れば、こちらの勢いも増しましょう」


「信長様も、さぞ驚かれる」


その言葉を聞きながら、私は思った。


この者たちは、勝家のことも見ていない。


勝家を、私のために兄上へ刃を向ける武将だと思っている。


違う。


勝家は、私を止めた人だ。


私を兄殺しの道へ行かせぬと言った人だ。


幼い頃から、私が転びそうになると、手を貸す前に叱る人だった。


もう一人の兄のような人だった。


その勝家まで、自分たちの駒として見ている。


胸の奥が、少しだけ熱くなった。


怒りだった。


怖さの中に、ようやく怒りが混ざった。


その夜。


勝家が来た。


人目を避け、音を立てず、けれどいつも通りの重い気配で部屋に入ってきた。


「勘十郎様」


低い声だった。


その声を聞いた瞬間、張り詰めていたものが少しだけ緩んだ。


「勝家」


情けない声が出た。


勝家は何も言わず、私の前に座る。


私は、震える手を隠すのをやめた。


「見事に釣れている」


「はい」


「兄上の言った通りだ。私が迷えば、あの者たちは勝手に前へ進む」


「はい」


「三分の一ほどは、もう名が上がったと聞いた」


「はい」


「私を本当に案じてくれた者もいる。流されただけの者もいる。だが、あの者たちは違う。私を旗にして、兄上を討つ道を進もうとしている」


勝家は黙っていた。


「怖いな」


ぽつりと漏れた。


勝家は、すぐには答えなかった。


その沈黙が、逆にありがたかった。


安易に怖くないと言われるより、ずっといい。


やがて、勝家は言った。


「怖くて当然にございます」


私は顔を上げる。


「これは、謀反の芝居です」


「……そうだな」


「一歩誤れば、本物になります」


勝家は、淡々と言った。


正直すぎる。


だが、その正直さに、不思議と息がしやすくなる。


「勝家は、怖くないのか」


「恐ろしゅうございます」


即答だった。


私は思わず笑いそうになった。


「お前は、本当に正直だな」


「嘘をつくのは不得手にございます」


「今、芝居をしているのにか」


「だから難儀しております」


とうとう、私は小さく笑った。


笑えるのか、と自分でも驚いた。


勝家は、少しだけ表情を緩めたように見えた。


「勘十郎様」


「何だ」


「信長様は、道なき場所に道を作る御方にございます」


私は瞬きをした。


「兄上が?」


「はい。誰より早く見て、誰より早く動き、敵も味方も置いて進まれる御方」


あまりに的確で、私は少し笑った。


「その通りだな」


兄上は、いつも早い。


私が一つ考える間に、兄上は三つ先へ行く。

私が理解した頃には、兄上はもう別の道を切り開いている。


だから怖い。


だから追いつけない。


勝家は続けた。


「ですが、道を作っただけでは、大勢は通れませぬ」


私は息を止めた。


「大勢?」


「兵も、荷も、兵糧も、後続も。信長様が切り開いた道を、大軍が進めるように整える者が必要にございます」


胸の奥に、何かが落ちた。


すとん、と。


今まで、ずっと胸の中で絡まっていたものが、ほどけるような感覚だった。


「それが、私だと?」


「はい」


勝家は、まっすぐに頷いた。


「勘十郎様のように堅実な御方が、兄君の作った道を一歩一歩整えれば、大軍が信長様を追えます」


兄上を追う。


その言葉に、息が詰まった。


私は、兄上になれない。


そのことが、ずっと苦しかった。


母上も、家臣たちも、私に言った。


信長ではなく、信行こそが織田にふさわしいと。


そう言われるたび、私はどこかで分かっていた。


私は兄上にはなれない。


兄上の代わりにはなれない。


兄上のように走れない。


だから、担がれるほど苦しかった。


兄上に勝てと言われているようだった。


兄上の代わりになれと言われているようだった。


できるはずがない。


そう思っていた。


だが。


道を整える。


兄上の作った道を、一歩一歩踏み固める。


兵糧を運び、後続を整え、大軍を向かわせる。


兄上が走り抜けた後ろを、私が守る。


兄上の早さについて行けぬ者たちを、私が連れて行く。


その光景が、不意に見えた気がした。


兄上が前を行く。


恐ろしく早く。


誰も追いつけぬ速さで、敵を裂き、道なき場所に道を作る。


その後ろに、私がいる。


置いていかれた者たちを拾い、兵糧を整え、道を固め、後続の大軍を前へ進める。


兄上の背を追うのではない。


兄上が作った道を、皆が通れる道にする。


それなら。


それなら、私にもできるかもしれない。


いや、やりたいと思った。


勝家は低く言った。


「信長様には信長様の役目があり、勘十郎様には勘十郎様の役目がある。適材適所にございます」


「適材、適所……」


その言葉を、私はゆっくり繰り返した。


これほど胸に落ちた言葉はなかった。


私は兄上にならなくていい。


兄上の代わりとして立つ必要もない。


兄上には兄上の役目がある。


私には、私の役目がある。


それは、負けではない。


逃げでもない。


隣に立つための、別の道なのだ。


気づけば、手の震えが止まっていた。


私は自分の手を見た。


先ほどまで、どうしても止まらなかった震えが消えている。


「勝家」


「はっ」


「その言葉、お前のものではないな」


勝家は、一瞬だけ目を伏せた。


「……はい」


やはり。


勝家は誠実だ。

だが、今の言葉は、勝家の言葉というよりも、誰かが盤面を少し離れたところから見た言葉だった。


「誰の言葉だ」


「藤乃殿にございます」


「斯波の姫君か」


「はい」


私は小さく笑った。


「斯波の姫君には、足を向けられんな」


勝家は、少しだけ困ったような顔をした。


「おそらく、気にされます」


「なら、礼はあとで形を変えるとしよう」


私は息を吐いた。


先ほどまで胸にあった重いものが、少しだけ軽くなっていた。


怖さは消えていない。


失敗すれば、終わる。


それは変わらない。


だが、私はようやく、自分が何のためにこの芝居をするのか分かった。


兄上に屈するためではない。


兄上に勝つためでもない。


兄上の隣に立つためだ。


兄上の作った道を、私が整える。


その役目を掴むためだ。


「勝家」


「はい」


「私は、明日、兄上の隣に立つ」


「はい」


「怖いが」


「はい」


「立つ」


勝家は、深く頭を下げた。


「某が側におります」


その言葉は、いつもと同じだった。


けれど、今夜は少し違って聞こえた。


私は頷いた。


「明日、私は言う」


胸の奥に、先ほど見えた光景がまだ残っている。


兄上が道を切り開く。


私は、その道を整える。


その道を、大軍が進む。


「兄上の作った道を、堅実に、一歩一歩、踏み固める。それが私の役目だと」


勝家は静かに聞いていた。


「私は兄上の代わりになるために立つのではない。兄上の隣で、兄上の作った道を広げるために立つのだと」


言葉にしてみると、不思議と腹が決まった。


勝家が、少しだけ目を細める。


「よきお言葉かと」


「藤乃姫の受け売りだ」


「受け売りでも、ご自身の言葉になればよろしいかと」


「お前がそれを言うのか」


「某も、借りましたので」


私は今度こそ笑った。


勝家も、ほんのわずかに口元を緩めた。


明日は、怖い。


兄上の前で、不穏分子たちの前で、私は立たねばならない。


罵られるだろう。


臆病風に吹かれたかと言われるだろう。


謀ったのかと責められるだろう。


それでも、立つ。


兄上の後ろではなく。


兄上の横に。


「勝家」


「はっ」


「明日、私が震えていたら」


「はい」


「見なかったことにしろ」


勝家は少し考えた。


「それは難しゅうございます」


「なぜだ」


「見えますので」


「お前は本当に……」


私は呆れて、そして笑った。


「では、震えていても、立っているように見せろ」


「承知」


「それならできるのか」


「某が側に立ちます」


それだけで十分だった。


私は深く息を吸った。


怖い。


けれど、もうただ怯えているだけではなかった。


未来の姿が見えた。


兄上が走る。


私が道を整える。


勝家が側にいる。


そして、兄弟を争わせようとした者たちは、その道から弾き出される。


「斯波の姫君には、いつか必ず礼を言う」


私がそう言うと、勝家は静かに頷いた。


「その時は、藤乃殿が困らぬ形で」


「難しい注文だな」


「はい」


「なら、まずは明日を越えねばならぬな」


「はい」


私はもう一度、自分の手を見た。


震えは止まっている。


完全に恐怖が消えたわけではない。


けれど、足は動く。


明日、私は兄上の隣に立つ。


うつけの弟としてではなく。


信長の代わりとして担がれる弟でもなく。


兄上の道を舗装する者として。


そのために、私はこの芝居を最後まで演じ切る。


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