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鬼柴田と忙しない姫 〜守護邸が燃えたので、柴田勝家の妻になりました〜  作者: まるちーるだ
鬼柴田と忙しない姫

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第十五話 兄上の道を舗装する人

勝家殿が屋敷に戻ったのは、夜も深くなってからだった。


その夜、私はとっくに寝るつもりでいた。


いや、寝るつもりだったのだ。


帳面仕事を終え、千若の寝顔を確認し、義銀がまだ起きて本を読んでいるのを見つけて「目が悪くなるわよ」と注意し、ようやく自分の部屋に戻ろうとしていた。


その時、於光様に呼び止められた。


「藤乃姫。少し、お付き合いくださいませ」


「私ですか?」


「ええ」


於光様は、いつも通り穏やかに笑っていた。


だが、その目が少しだけ真剣だった。


これは何かある。


そう思った。


「義銀様も」


「私も、ですか」


義銀も顔を上げる。


於光様は頷いた。


「勝家が戻りました」


その一言で、胸が少し跳ねた。


勝家殿。


信行様のもとへ行った勝家殿。


あの後、どうなったのか。


私は気になって仕方がなかった。


けれど、聞きに行くわけにはいかなかった。


これは織田家の内の話であり、私は柴田家に保護されているだけの身だ。


しかも、そもそもの発端は、私が勝家殿に余計なことを言ったからである。


本当に、兄弟を仲違いさせてよろしいのですか。


あの言葉。


言わずにはいられなかった。


けれど、言った後でずっと怖かった。


私の一言で、勝家殿が危うい場所へ踏み込んでしまったのではないか。


歴史通りなら、勝家殿は信長様の弟側についた。


そして信長様は、弟を斬った。


細かい流れは知らない。


でも、その結果だけは知っている。


だから怖かった。


私は未来を知っているわけではない。

ただ、断片を知っているだけだ。


その断片で誰かを動かしていいのか。


まして、勝家殿を。


「藤乃姫?」


於光様の声で、私は我に返った。


「あ、はい。参ります」


義銀も静かに立ち上がる。


「叔母上」


「何?」


「顔色が悪いです」


「気のせいよ」


「叔母上」


「……少しだけ、心配なだけ」


そう言うと、義銀は何も言わなかった。


ただ、私の横に並んだ。


義銀はこの二年で背が伸びた。


まだ勝家殿ほどではないけれど、もう少年というより若武者の顔をしている。


それなのに、こうして隣に立たれると、私はあの日の義銀を思い出す。


魚籠を抱えて、必死に助けを求めに走ってくれた子。


千若を落とさないように馬を走らせた子。


あの子が、今は私を支えるように隣に立ってくれている。


少しだけ、胸が痛くなった。


通された部屋には、勝家殿と八右衛門殿がいた。


八右衛門殿は、いつも以上に胃のあたりを押さえている。


つまり、大変な話である。


私は座りながら、内心で思った。


なんで私も呼ばれた?


義銀は分かる。


義銀は信長様のもとで学んでいるし、斯波家の若君としての立場もある。


八右衛門殿と於光様は、柴田家の中枢だから当然。


勝家殿は当事者。


でも、私。


私、いる?


私はただの没落守護家の行き遅れ姫で、帳面と料理と葱の活用が得意なだけの女である。


織田家の内紛未遂みたいな話に同席していい身分ではない。


帰りたい。


いや、また帰る家は柴田家だった。


帰ってもここだ。


困った。


勝家殿は、しばらく黙っていた。


いつも通り、言葉が少ない。


けれど、今夜の沈黙はいつもより重かった。


やがて、勝家殿が口を開いた。


「勘十郎様と話した」


部屋の空気が少し変わった。


八右衛門殿が姿勢を正す。


於光様は静かに頷く。


義銀も息を呑んだ。


私は膝の上で手を握った。


「勘十郎様は、信長様を討つおつもりではなかった」


その言葉に、私は息を止めた。


よかった。


まず、そう思った。


信行様は、まだ兄を討つ気ではなかった。


勝家殿は続ける。


「周りに担がれておられた。ご自身でも分かっておられたが、止められずにいた」


「それで、勝家」


於光様が静かに問う。


「あなたは、どうなさったのです」


「お止めした」


勝家殿は短く答えた。


「担がれるまま兄君を討つ道へ進まれるなら、某が止めると申し上げた」


八右衛門殿が、深く息を吐いた。


「よくぞ、そこまでお話しくださいました」


本当にそうだ。


勝家殿が。


言葉が少なくて、説明を省いて、過程を省いて、相談も省く勝家殿が。


ちゃんと信行様を止めた。


私は思わず、胸が熱くなった。


勝家殿は続ける。


「その後、勘十郎様と共に信長様のもとへ参った」


「夜に、ですか」


八右衛門殿の声が少し裏返った。


「夜に」


「それ、夜襲と誤解されませんでしたか」


「された」


「でしょうね!」


八右衛門殿が頭を抱えた。


私は思わず同情した。


夜半に、信行様と勝家殿がそろって信長様のところへ行く。


それはもう、夜襲か謀反である。


違うけれど、絵面が完全にそれである。


「信長様は」


於光様が尋ねる。


「お怒りに?」


勝家殿は少し黙った。


「笑っておられた」


部屋が静まった。


ああ。


信長様だ。


すごく信長様っぽい。


危うい状況なのに、面白がって笑うあの感じ。


想像できてしまう。


「勘十郎様を担ぎ、兄弟を争わせようとする者どもを炙り出す。信長様は、その策に乗られた」


八右衛門殿が眉間を押さえた。


「つまり、これから勘十郎様と勝家殿は、反信長の動きをするように見せる、ということですか」


「そうだ」


「胃が痛い」


「八右衛門殿」


於光様が声をかける。


「まだ倒れないでくださいませ」


「倒れたい」


「後にしてください」


「はい」


この夫婦、強い。


私はそれどころではないのに、少しだけ笑いそうになった。


けれど、笑っている場合ではない。


これから勝家殿は、表向き信行様側につく。


史実に近い動きを、わざとする。


それは危険だ。


とても危険だ。


一歩間違えれば、本物の反乱になる。


誰かが先走れば、血が流れる。


信長様が途中で切り捨てる判断をすれば、信行様も勝家殿も危うい。


私は手のひらに爪を立てた。


勝家殿は、そんな私を見た。


「藤乃殿」


「は、はい」


急に名前を呼ばれて、声が跳ねた。


勝家殿が、私へ向き直る。


そして、深く頭を下げた。


「藤乃殿の言葉で、某も、勘十郎様も目が覚めた」


「え」


「感謝する」


私は固まった。


勝家殿が。


私に。


頭を下げている。


待って。


待って待って待って。


それは違う。


違う違う違う。


私はそんな大層なことを言ったわけではない。


ただ、怖かったのだ。


信行様が死ぬことが。


勝家殿が、そこに巻き込まれることが。


兄弟が争うことが。


義銀と千若のような兄弟を見てきたから、余計に嫌だっただけだ。


「い、いいえ!」


私は慌てて手を振った。


「私は、その、兄弟が争う必要はないと思ったからです!」


声が大きくなった。


恥ずかしい。


でも、止まらない。


「それに、適材適所といいますか!」


「適材適所?」


八右衛門殿が反応した。


やめて。


実務の人が反応しないで。


でも言葉が出てしまった。


「はい! あの、信長様は、その、すごい方です。たぶん、とんでもなくすごい方です。誰より早く見て、誰より早く動いて、敵も味方も置いていくような方です」


私は必死に言葉を探した。


「でも、あの方は、更地にするのはお得意そうですが、そこを舗装する前に走って行かれそうというか!」


於光様が目を瞬かせた。


八右衛門殿が固まった。


義銀が私を見た。


勝家殿も、じっとこちらを見ている。


私は焦った。


「い、いえ、悪い意味ではなく! 信長様は道なき場所に道を作る方だと思うんです。常識を壊して、敵を打ち破って、誰も思いつかない場所へ進む方だと思います」


そう。


信長様は、きっと先へ行く人だ。


誰より早く。


誰も追いつけない速さで。


「でも、道を作っただけでは、大勢は通れません。兵糧も、荷も、後続の兵も、通るには道を整えなければならないと思うんです」


頭の中に、前世の道路工事みたいな光景が浮かぶ。


いや、戦国で舗装とか言っていいのか。


でも、言ってしまった。


もう押し通す。


「信行様のような堅実な方が、兄君の作った道を一歩一歩整えてくだされば、大軍が信長様を追えます」


部屋が静かだった。


私は手を握りしめる。


「だから、信行様は信長様と争うより、ご協力した方が良いと思いましたの!」


言い切った。


言い切ってしまった。


どうしよう。


言い過ぎた。


完全に言い過ぎた。


私は恐る恐る顔を上げる。


於光様は、目を丸くしていた。


八右衛門殿は、帳面を見る時の顔ではなく、何か新しい道具を見つけた時の顔をしていた。


義銀は、呆然と私を見ている。


勝家殿は、黙っていた。


怖い。


黙られると怖い。


私は慌てて付け足す。


「も、もちろん、私が勝手に思っただけです! 戦のことは詳しくありませんし、信長様のことも信行様のことも、私が深く知っているわけではありません。ですが、その、兄弟なのに同じ役目を奪い合う必要はないのでは、と」


義銀が、小さく息を呑んだ。


「同じ役目を、奪い合う必要はない……」


呟くような声だった。


私は義銀を見た。


義銀の目が、静かに揺れている。


この子は、また何かを考えている顔だ。


やめて。


叔母は今、ただ焦って喋っているだけです。


そんなに深く受け取らないで。


けれど義銀は、私の言葉をしっかり受け止めてしまったようだった。


「叔母上」


「な、何?」


「信長様が道を作り、信行様がその道を整える。そうすれば、大軍が進める」


「ええと、まあ、たとえとしては」


「それは、戦だけではなく、政にも通じる考え方です」


義銀さん?


お願いだから、その方向に広げないで。


でも義銀は真剣だった。


「兄弟が同じ役目を争えば、片方が邪魔になる。ですが、役目を分ければ、互いが必要になる」


部屋の空気が変わった。


八右衛門殿が、深く頷く。


「なるほど。信行様の立ち位置を、信長様の代替ではなく補佐とする。しかもただの補佐ではなく、後続と兵站を整える要とするわけですか」


「はい」


義銀が頷く。


「信行様は真面目で堅実な方と聞きます。ならば、兄君の奇策や速さについて行けぬ者たちをまとめる役にも向いているのでは」


八右衛門殿の目が光った。


「信長様に恐れを抱く者を、信行様が受け止める。だが、信長様に敵対させるのではなく、信長様を追う隊として整える」


於光様が静かに言った。


「兄の影ではなく、兄の後ろを支える灯になる、ということですね」


私は内心で頭を抱えた。


話が大きくなっている。


私はただ、信行様が死なず、勝家殿も死なず、兄弟が争わずに済めばいいと思っただけなのに。


なんでこんな戦略会議みたいになっているの。


勝家殿が、低く言った。


「藤乃殿」


「はい」


「その考え、勘十郎様に伝えてもよいか」


「え」


信行様に?


私のこの、焦りと前世語彙が混ざった舗装理論を?


「い、いえ、そのままですと意味不明では」


「道を切り開く兄君と、道を整える弟君」


勝家殿は言った。


「分かりやすい」


「そ、そうでしょうか」


「勘十郎様にも、必要な言葉だ」


勝家殿の声は静かだった。


けれど、その目は真剣だった。


私は言葉を失う。


信行様は、兄に劣っているから担がれた。


信長様の代わりとして立てられようとした。


でも、代わりになる必要はない。


違う役目を持てばいい。


それを、信行様自身が納得できるなら。


もしかしたら、本当に変わるかもしれない。


「……私の言葉でよろしければ」


私は小さく言った。


「どうか、信行様がご自身を責めすぎない形で、お伝えください」


勝家殿が頷いた。


「承知した」


八右衛門殿が、ぽつりと呟いた。


「藤乃姫は、時折、本当に妙な角度から盤面をご覧になりますな」


「すみません」


「褒めております」


「え、そうなのですか」


「はい」


八右衛門殿は、少しだけ笑った。


「信長様の速さに置いていかれる者は多い。その者たちの受け皿が信行様になるなら、織田家はむしろ強くなる」


於光様も頷く。


「信行様が兄上と争う理由ではなく、兄上と共にある理由を得られるのですね」


義銀は、まだ考え込んでいた。


「叔母上」


「はい」


「やはり、叔母上はすごいです」


「違うのよ、義銀」


私はすぐに否定した。


「これは本当に、たとえ話で」


「たとえで、役目の本質を示せるのがすごいのです」


義銀さん。


そういうこと言うの、本当にやめて。


叔母は照れる。


しかもこの場で褒めないで。


勝家殿が、再び私に頭を下げた。


「藤乃殿。重ねて礼を申す」


「やめてください、勝家殿! 本当に、そんな大層なことでは!」


「大層なことだ」


勝家殿の声は、短く、けれど確かだった。


「某は、勘十郎様を担ぐことしか見えておらなんだ。止めることも、支えることも、考えきれておらなんだ」


勝家殿は、まっすぐ私を見る。


「藤乃殿の言葉で、兄弟を争わせる道ではなく、並び立たせる道を考えられた」


胸が、ぎゅっと締めつけられた。


私は、何も言えなかった。


勝家殿が私を見ている。


真面目に。


とても真面目に。


私は目を逸らしたくなった。


だって、そんな風に見られたら困る。


私がしたのは、ただ怖くて言葉をこぼしただけだ。


勝家殿を失いたくないと思っただけだ。


それだけなのに。


「……どうか」


私は、声を絞り出した。


「どうか、勝家殿もご無事で」


勝家殿の目が、わずかに揺れた。


「信行様も、信長様も、もちろん大事です。でも、私は」


言いかけて、止まる。


危ない。


今、何を言おうとした。


私は慌てて言い直した。


「私は、柴田家の皆様にも、傷ついてほしくありません」


於光様が、ほんの少しだけ微笑んだ気配がした。


八右衛門殿は、なぜか視線を逸らした。


義銀は、黙っている。


勝家殿は、静かに頷いた。


「心得た」


それだけだった。


でも、その一言で、少しだけ胸が軽くなった。


この夜、私はまた思った。


歴史は、よく分からない。


斯波家の先も知らない。

信長様と信行様の細かな争いも知らない。

勝家殿がどの場面で何をしたのかも、詳しくは知らない。


けれど、目の前にいる人たちが争わずに済む道があるのなら。


たとえそれが、私の知っている歴史と違う道でも。


私は、そちらを選んでほしい。


信長様が道を切り開くなら。


信行様がその道を整えればいい。


そして勝家殿が、その道で迷う人たちを支えればいい。


そんな未来があってもいいのではないか。


私は、そう思った。



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