第十四話 悪いのは大人です
柴田邸の門前に、籠と馬が止まった。
私は、勝家様の隣に立っていた。
背筋を伸ばす。
息を整える。
笑みを作る。
胃は痛い。
非常に痛い。
けれど、ここで顔に出すわけにはいかない。
徳姫様は、謝罪に来られる。
奇妙丸様と坊丸様は、その見届け役として来られる。
そして、奇妙丸様の傅役として、義冬も来ている。
義冬が奇妙丸様の少し後ろに控えている姿を見た瞬間、私は思わず胸が熱くなった。
知ってはいた。
義冬が奇妙丸様の傅役となったことは、もちろん知っていた。
文にも書かれていたし、義銀からも、琴からも、勝家様からも聞いていた。
けれど。
実際に見ると、違う。
あの小さかった千若が。
守護邸が燃えた日に、私が抱えて逃げたあの子が。
今、織田家の御嫡男の傅役として、きちんと控えている。
背筋を伸ばし、袖を整え、奇妙丸様の半歩後ろに立つ姿は、どこから見ても傅役だった。
いけません。
いけません。
今、泣くところではありません。
私は藤の方。
柴田勝家の妻。
柴田邸の奥を預かる者。
ここで、甥の成長に感動して涙ぐんでいる場合ではないのです。
「お藤」
低い声が、隣から落ちた。
勝家様である。
「顔が緩んでおる」
「申し訳ございません」
「後にせよ」
「はい」
後で泣いてよいということでしょうか。
たぶん違います。
けれど、今はそう受け取っておきます。
私は一度だけ息を吸い、門前へ進み出た。
籠の簾が上がる。
まず降りてこられたのは、徳姫様だった。
清洲でお会いした時よりも、少し顔色が悪い。
目元も赤い。
きっと、ずいぶん泣かれたのだろう。
けれど、きちんと身支度を整えておられる。
小さな手で袖を押さえ、籠から降りた徳姫様は、こちらを見るなり、ぎゅっと唇を結んだ。
そして、その場で膝を折ろうとした。
「藤の方様、妾は――」
「徳姫様」
私は、静かに声をかけた。
徳姫様の動きが止まる。
「ようこそいらっしゃいました。まずは中へどうぞ」
徳姫様が、はっとした顔をした。
今すぐ謝らなければならない。
そう思っておられたのだろう。
その気持ちは分かる。
分かるのですが、門前で膝をつかせるわけにはいかない。
謝罪にも、順序があります。
客人を門前に立たせたまま謝罪を受けるなど、それこそ失礼にあたる。
けれど、徳姫様の顔には、明らかな動揺が浮かんでいた。
止められた。
謝らせてもらえなかった。
そう受け取られたのかもしれない。
その瞬間、徳姫様の隣にいた侍女が、そっと身体を寄せた。
徳姫様付きの侍女だろうか。
まだ若い。
けれど、動きが落ち着いている。
その侍女は声を落とし、徳姫様の耳元で何かを囁いた。
ほんの短い言葉だった。
けれど、徳姫様の表情が少し変わった。
驚き。
不安。
それから、ほっとしたような色。
おそらく、ここで謝るのは礼に合わぬと伝えてくれたのだろう。
徳姫様は、袖を握りしめたまま、小さく頷いた。
「……はい」
よかった。
ちゃんと徳姫様を支えてくださる侍女がいるのですね。
私は心の中で、その侍女へ深く頭を下げた。
「奇妙丸様、坊丸様も、ようこそお越しくださいました」
私が礼をすると、奇妙丸様と坊丸様がそれぞれ礼を返された。
奇妙丸様は、信長様によく似た目をしている。
まだお若いのに、こちらを見る目が鋭い。
坊丸様は、どこか信行様に似た柔らかさがある。
けれど、ぼんやりしているわけではない。
こちらの様子を、静かに見ておられる。
そして、その少し後ろに義冬がいる。
義冬は、私と目が合うと、ごくわずかに目元を緩めた。
叔母上。
そう呼ばれたような気がした。
けれど、義冬は声には出さない。
今の義冬は、私の甥ではなく、奇妙丸様の傅役としてここにいる。
本当に、傅役なのですね。
私はまた泣きそうになった。
いけません。
本当にいけません。
「こちらへ」
私は、改めて一行を中へ案内した。
柴田邸の中は、いつもより静かだった。
女中たちはきびきび動いているが、足音は抑えられている。
廊下は掃き清められ、庭も整えられている。
物々しくはしない。
けれど、乱れは見せない。
於光様と八右衛門殿の手配である。
本当に、ありがたい。
ありがたすぎて、胃が痛い。
広間へ案内すると、上座に徳姫様、奇妙丸様、坊丸様にお座りいただいた。
奇妙丸様が中央。
その左右に徳姫様と坊丸様。
義冬は、少し下がった位置に控える。
傅役としての位置だ。
その姿に、また胸が熱くなりかけた。
いけません。
今は、徳姫様です。
私と勝家様は、下座に並んで座った。
その後ろには、藤七丸と紫乃がちょこんと座っている。
藤七丸は、いつもより背筋を伸ばしている。
紫乃は、少し緊張しているのか、藤七丸の袖を握っていた。
先日、香合が飛んできたことを覚えているのだろう。
それでも、ここに座ると言った。
怖いなら下がっていてよい、と言ったのに。
紫乃は首を横に振った。
「紫乃、あいます」
そう言った。
藤七丸もまた、紫乃の隣に座ると言った。
この子たちなりに、先日のことを受け止めようとしているのだと思う。
勝家様が、静かに手をついた。
「本日は、柴田邸へお運びいただき、まことにありがたく存じます。お招きできましたこと、嬉しく思います」
低く、整った声だった。
勝家様は無骨だ。
言葉数も多くない。
けれど、こういう時の礼は外さない。
鬼柴田などと呼ばれているけれど、この方は本当に家を大事になさる人だ。
徳姫様は、その挨拶を聞いた後、ちらりと隣の侍女を見た。
侍女が、ごく小さく頷く。
徳姫様は、ひとつ息を吸った。
そして、両手を畳についた。
「こたびは、妾のためにお時間をいただき、ありがとうございます」
声は震えていた。
けれど、逃げてはいなかった。
「藤の方様。先日は、たいへん申し訳ございませんでした」
徳姫様は、深く頭を下げた。
小さな背中が、畳へ向かって折れる。
その言葉は、きっと練習してきたものだ。
何度も何度も繰り返したのだろう。
言い間違えぬように。
途中で泣かぬように。
礼を失わぬように。
けれど、ただ練習しただけの言葉ではなかった。
そこに、本心があった。
私にも、それは分かった。
「徳姫様」
私は静かに言った。
「頭をお上げください」
徳姫様が、ゆっくりと顔を上げる。
目元は赤い。
涙をこらえている顔だった。
私は、その顔を見て、にこりと笑った。
できるだけ柔らかく。
できるだけ怖がらせぬように。
「徳姫様が謝りに来てくださったこと、確かに受け止めました」
徳姫様の目が揺れる。
「そして、私からもお詫びしなければなりません。徳姫様を叩いて、申し訳ございませんでした」
私は、徳姫様と同じように両手をつき、頭を下げた。
部屋の空気が、一瞬止まった。
「頭を上げてください!」
徳姫様の声が、ひっくり返るように響いた。
「悪いのは妾です! 藤の方様は、妾を叱ってくださいました! 悪いのは、妾で……!」
言葉の途中で、徳姫様の声が震えた。
涙がぽろりと落ちる。
また、落ちる。
徳姫様は慌てて袖で拭おうとした。
けれど、うまく拭えない。
泣かないようにしようとして、余計に涙が出てしまっている。
私は顔を上げた。
「徳姫様」
「はい……」
「無作法ながら、御身のお近くに参ってもよろしいでしょうか」
徳姫様は、涙をこらえたまま、困ったように私を見た。
おそらく、答えてよいのか迷ったのだろう。
すると、奇妙丸様が静かに口を開いた。
「許す」
短い言葉だった。
けれど、場を整える言葉でもあった。
私は、奇妙丸様へ礼をした。
「ありがとうございます」
そして、膝を進めて徳姫様のそばへ寄った。
徳姫様は、こらえきれない顔をしている。
私は懐紙を取り出し、その涙をそっと拭った。
小さな頬。
先日、私が打った頬。
もう、腫れは見えない。
それでも、あの日、この頬に痛みを与えたのは私だ。
胸が痛む。
けれど、ここで私が泣いてはいけない。
「徳姫様」
「はい……」
「徳姫様も悪うございますが、私も悪うございます」
徳姫様が、ぐしゃりと顔を歪めた。
「ちが……」
「ですが」
私は、少しだけ声を落とした。
「一番悪いのは、徳姫様をここまで叱らなかった信長様ですわ」
しん、と。
広間が静まり返った。
本当に、音が消えた。
徳姫様は涙を止めたまま固まっている。
奇妙丸様も、坊丸様も、目を見開いていた。
義冬は、ほんの少しだけ目を伏せた。
勝家様の眉間の皺が、深くなった。
藤七丸は何かを言いかけたようだが、紫乃に袖を握られて黙った。
八右衛門殿は、控えの位置で動かない。
於光様は、扇で口元を隠している。
え。
何でしょうか。
なぜ、皆様そのようなお顔をなさるのですか。
私は変なことを言いましたか。
言っていませんよね。
徳姫様は悪い。
私も悪い。
けれど、徳姫様がここまで声を大きくする前に、誰かが叱らねばならなかった。
そして、それを一番なさるべきだったのは、父君である信長様ではありませんか。
筋は通っていると思うのですが。
「藤の方様」
徳姫様が、震える声で言った。
「父上が……悪いのですか」
「一番叱られるべきは、信長様です」
私は頷いた。
「徳姫様を愛しておられるなら、徳姫様が人を困らせ、怖がらせ、傷つける前に、きちんと叱らねばなりません。周りの者は、信長様の姫君だからこそ叱りにくいのです」
徳姫様は、ぽかんとしていた。
「ですので、先ほど、信長様へお返事の文をお送りしました」
「父上へ?」
「はい」
勝家様の眉間の皺が、さらに深くなった。
あれ。
まだお話ししていませんでしたか。
いえ、少しだけ話した気がします。
気がするだけだったかもしれません。
私は、できるだけ穏やかに続けた。
「もちろん、たいへん恐れ多いことですから、言葉は選びました。何枚も絹を重ねるように、なるべく丁寧に書きました」
奇妙丸様の目が、少しだけ細くなる。
坊丸様が、隣で何とも言えない顔をした。
義冬は、とうとう口元に手を当てた。
なぜですか。
なぜ、皆様、そんな顔をなさるのですか。
「信長様が徳姫様をお叱りにならぬと、周りの者は叱れません。叱れぬまま徳姫様が苦しまれるのは、よくありません。ですから、その旨をお伝えいたしました」
かなり包みました。
本当に包みました。
直接、
信長様がちゃんと叱らないから、周りが叱れないのです。
とは書いていません。
いませんとも。
たぶん。
いいえ、書いていません。
似たようなことは書きましたが。
「ですので、徳姫様」
私は、徳姫様の涙をもう一度拭った。
「徳姫様も悪いです。私も悪いです。ですが、一番悪い信長様は、私が叱っておきます」
また、部屋が静かになった。
勝家様が、低く息を吐いた。
「お藤」
「はい」
「ほどほどにな」
「はい。かなり、ほどほどに書きました」
勝家様は、何も言わなかった。
その沈黙が怖い。
ですが、今は続けます。
私は徳姫様を見た。
「ですから、徳姫様はもう、必要以上にご自分を責めて泣くのではなく、反省を生かして、次の行動をなさってください」
徳姫様の目から、また涙がこぼれた。
「次の、行動……」
「はい」
「妾は、どうすれば……」
「間違えたと思ったら、謝る。怒った時は、物を投げる前に、何が嫌だったのかを言葉にする。人を動かす時は、その人にも名があり、家があり、時間があることを思い出す」
徳姫様の肩が震える。
「それから、父上に会いたい時は、まずお手すきか尋ねる」
その言葉を聞いた瞬間、徳姫様はくしゃりと顔を歪めた。
「妾、できました」
「はい」
「父上に、お手すきか、たずねました」
「はい。よくできました」
「半刻、待ちました」
「はい。よくできました」
「八重の名も、聞きました」
八重。
私は、そこで初めて侍女の名を知った。
徳姫様付きの、あの落ち着いた侍女。
徳姫様を門前でそっと助けてくれた方。
「はい」
「八重に、ごめんなさいも、言いました」
私は、その侍女を見た。
徳姫様が八重と呼んだ侍女は、静かに頭を下げている。
けれど、その目元が少し赤かった。
「それも、よくできました」
そう言った瞬間、徳姫様は、とうとうこらえきれなくなった。
「藤の方様ぁ……!」
小さな身体が、私へ飛び込んできた。
正確には、飛び込もうとして、途中で一瞬止まった。
おそらく、よいのか迷ったのだろう。
けれど、涙が勝った。
徳姫様は、そのまま私に抱きついた。
私は慌てて受け止めた。
「あ、あの、徳姫様」
「ごめんなさい……ごめんなさい……!」
徳姫様は、私の胸元で泣いた。
ぽろぽろと。
いや、もう、ぽろぽろではない。
ぼろぼろと泣いた。
「妾、知らなかったのです……父上にも、お仕事があること……八重にも、名があること……妾が言うと、みんなが走ること……知らなかったのです……」
「はい」
「でも、知ろうとしなかったのです……」
私は、徳姫様の背にそっと手を回した。
小さい。
本当に小さい。
数え七つ。
藤七丸より少し上なだけの、小さな子ども。
信長様の姫。
織田の姫。
そう呼ばれていても、この腕の中にいるのは、まだ母に甘えたい幼い子なのだ。
「徳姫様」
「はい……」
「知ったなら、これから覚えればよいのです」
「はい……」
「間違えたなら、謝ればよいのです」
「はい……」
「謝った後は、どう動くかが大事です」
「はい……」
「それから、泣く時は息をしてくださいませ。泣きすぎると苦しくなります」
「はい……ひっ……」
「吸って」
徳姫様が、ぐすっと息を吸う。
「吐いて」
「ふ、う……」
「もう一度」
「ひっ……ふ、う……」
あれ。
これは、産婆衆に広まりつつある呼吸法では。
いけません。
ここでまた変なことを広めてはいけません。
けれど、泣いている子どもの呼吸を整えるには、これが一番分かりやすいのです。
徳姫様の背を撫でながら、私はゆっくり息を合わせた。
部屋の中の空気が、少しだけ緩んだ気がした。
いや。
緩んだというより。
皆様の視線が、非常に生温かい。
なぜでしょうか。
私は、ただ徳姫様を泣き止ませようとしているだけなのですが。
奇妙丸様は、じっとこちらを見ている。
坊丸様は、少しだけ困ったように笑っている。
義冬は、目を伏せたまま肩を小さく震わせている。
笑っていますね、義冬。
叔母は見ましたよ。
勝家様は、眉間に皺を寄せたまま、けれど止めない。
藤七丸は、何かを考える顔で徳姫様を見ている。
紫乃は、藤七丸の袖を握ったまま、小さく言った。
「なかない、だいじょうぶ」
その声に、徳姫様の肩がぴくりと揺れた。
私は、紫乃へ目を向けた。
「紫乃」
紫乃は、私の後ろから少しだけ身を乗り出した。
「とくさま、いたい?」
徳姫様が、涙で濡れた顔を少しだけ上げる。
紫乃は、真剣な顔だった。
怖がっている。
まだ少し、怖いのだろう。
けれど、徳姫様を見ている。
逃げずに。
「徳姫様は、心が痛いのです」
私が言うと、紫乃は少し考えた。
「ここ?」
自分の胸に手を当てる。
「はい。そこです」
紫乃は、徳姫様を見た。
「いたいの、つらいね」
徳姫様の顔が、また泣きそうに歪む。
「紫乃……」
「なげるの、だめ」
紫乃ははっきり言った。
「はい……」
徳姫様は、ぐしゃぐしゃの顔で頷いた。
「もう、投げませぬ」
「いたいの、だめ」
「はい」
「でも、ごめん、できた」
紫乃は、少しだけ胸を張った。
「よくできました」
徳姫様が、とうとうまた泣いた。
ああ。
これは泣きますね。
私も泣きそうです。
けれど、今は泣きません。
大人ですから。
たぶん。
「徳姫様」
私は、徳姫様の肩に手を添えた。
「紫乃は、まだ怖い気持ちも持っています。ですから、すぐに仲良くせよとは申しません」
徳姫様は、涙を拭いながら頷いた。
「はい」
「けれど、謝る言葉は届きました」
「はい……」
「ですから、次は、怖がらせない行動を見せてください」
「はい」
私は、抱いていた腕を緩め、徳姫様をそっと離した。
「お座に戻れますか」
「……はい」
徳姫様は、袖で目元を押さえ、深く息を吸った。
そして、先ほどの侍女――八重殿の方を見た。
八重殿が小さく頷く。
徳姫様は、少しふらつきながらも、上座へ戻った。
その動きは、まだぎこちない。
けれど、先ほどよりも落ち着いていた。
私は自分の席へ戻ろうとした。
その時、奇妙丸様が口を開いた。
「藤の方」
「はい」
「一つ、尋ねてもよいか」
「はい。私に答えられることでしたら」
奇妙丸様は、まっすぐこちらを見ていた。
信長様によく似た目。
けれど、どこか少し違う。
見ようとしている目だった。
「なぜ、父上が一番悪いと言った」
おお。
そこを問われますか。
そうですよね。
気になりますよね。
私は、少しだけ考えた。
「奇妙丸様」
「何だ」
「子どもは、何がよくて何が悪いかを、最初からすべて知っているわけではございません」
奇妙丸様は黙って聞いている。
坊丸様も、義冬も。
「ですから、周りの大人が教えます。危ないことは危ない。いけないことはいけない。人を傷つけてはいけない。立場を使って人を困らせてはいけない。そう教えるのは、大人の役目です」
私は、徳姫様を見た。
徳姫様は、涙を拭いながらも、こちらを見ていた。
「徳姫様は、先日、間違えました。けれど、その間違いが先日突然生まれたわけではないのです。少しずつ、周りが困っても止められず、徳姫様ご自身も止まり方を知らぬまま、あそこまで行ってしまった」
部屋は静かだった。
「徳姫様を叱るべきだった方は、何人もおられたでしょう。私も、もっと早く何かできたかもしれません。帰蝶様にも、お辛い事情がおありだったと思います。吉乃様のお加減も関わっておられましょう」
私は、一度息を吸った。
「けれど、父君である信長様が、徳姫様を誰よりも強く愛しておられるなら、誰よりも早く叱るべきだったのです」
奇妙丸様の目が、わずかに揺れた。
「愛しているから、叱るのか」
「はい」
私は頷いた。
「叱ることと、嫌いになることは違います」
徳姫様が、小さく息を呑んだ。
「叱られぬまま、人を傷つける者になってしまう方が、ずっと怖いことです。ですから、徳姫様を本当に大事に思うなら、叱らねばなりません」
「……父上をも、か」
「はい」
私は、にこりと笑った。
「信長様も、間違えたなら叱られるべきです」
また、部屋が静まった。
勝家様が、片手で眉間を押さえた。
「お藤」
「はい」
「それ以上は」
「はい。控えます」
私は素直に頷いた。
かなり控えました。
本当に、控えました。
奇妙丸様は、しばらく私を見ていた。
それから、ふと横の坊丸様を見た。
坊丸様は、小さく笑っている。
義冬は、涼しい顔をしている。
奇妙丸様は、何かを納得したように、ほんの少しだけ息を吐いた。
「なるほど」
何が、なるほどなのでしょうか。
少し怖いです。
「藤の方は」
奇妙丸様は言った。
「笑いながら怒る人なのだな」
私は、目を瞬いた。
「怒っておりますか、私」
「怒っている」
即答された。
坊丸様も頷いた。
義冬も頷いた。
藤七丸まで、小さく頷いた。
紫乃も、よく分かっていない顔で頷いた。
なぜですか。
私は笑っております。
声も荒げておりません。
「私は、怒鳴っておりませんが」
「義冬も怒鳴らぬ」
奇妙丸様は、義冬をちらりと見た。
「だが、怒っている時がある」
義冬は、にこりと笑った。
「さて、どうでしょう」
「その顔だ」
奇妙丸様は、少しだけ苦い顔をした。
「その顔の時は、たいてい逃げられぬ」
坊丸様が、小さく吹き出した。
私は、義冬を見た。
義冬は、実に穏やかな顔で微笑んでいる。
ああ。
これは。
確かに、怒っている時の顔かもしれません。
誰に似たのでしょう。
私でしょうか。
義銀でしょうか。
どちらにしても、少し申し訳ない。
「藤の方様」
徳姫様が、小さく呼んだ。
「はい」
「妾は、怒られても、嫌われてはおりませぬか」
その声は、まだ少し震えていた。
私は、徳姫様へ向き直った。
「嫌っておりません」
徳姫様の目に、また涙が浮かぶ。
「ただし」
私は続けた。
「次に物を投げたら、また叱ります」
徳姫様は、涙目のまま、こくりと頷いた。
「はい」
「人を困らせたら、叱ります」
「はい」
「父上の名を使って誰かを怖がらせたら、叱ります」
「はい」
「でも、謝ることができたら、そのことは褒めます」
徳姫様の涙が、またこぼれた。
「はい……」
「今日、ここまで来られたことも、よくできました」
徳姫様は、また泣きそうになった。
けれど、今度は必死に息を吸った。
「ひ……ふう……」
あ。
覚えてしまいましたね。
泣く時の呼吸法として。
まあ、よいでしょう。
苦しくならないなら、よいことです。
たぶん。
「徳姫様」
私は言った。
「謝罪は、受け取りました」
徳姫様が、息を止める。
「ただし、先日のことがなかったことになるわけではありません。紫乃が怖かったことも、冬姫様が泣いたことも、犬姫様が倒れたことも、なくなりません」
「はい」
「ですから、これからを見せてください」
「はい」
「徳姫様が、どのように変わっていかれるのかを」
徳姫様は、両手を畳につき、もう一度深く頭を下げた。
「はい。見ていてください」
その声は、まだ幼かった。
けれど、先日の癇癪の声とは違っていた。
私は、静かに頷いた。
「では、お茶にいたしましょう」
場の空気が、少しだけ動いた。
於光様が控えの女中に目配せする。
茶と菓子が運ばれてくる。
子どもでも食べやすいよう、小さく切った菓子と、薄く淹れた茶。
紫乃が、菓子を見て少し目を輝かせた。
藤七丸が、それを横目で見ている。
徳姫様も、まだ涙の跡を残したまま、菓子を見た。
食べられるでしょうか。
泣いた後は、甘いものが少し助けになることもある。
私は、徳姫様へ微笑んだ。
「どうぞ。泣いた後は、少し甘いものを召し上がると落ち着きます」
徳姫様は、ためらいながらも小さく頷いた。
「いただきます」
その言葉を聞いて、八重殿がまた少しだけ目を細めた。
奇妙丸様は、その一連の流れをじっと見ていた。
坊丸様も。
義冬も。
私は、ふと気づく。
この方々は、謝罪だけを見に来たのではない。
徳姫様が謝るところ。
私がそれを受けるところ。
柴田邸が、どう人を迎え、どう茶を出し、どう子どもを座らせ、どう怖がった子を逃がさぬようにしつつ、無理をさせぬようにしているのか。
それらを見ているのだ。
胃が痛い。
やはり、非常に胃が痛い。
けれど。
徳姫様の拙い文を思い出す。
せんじつは、もうしわけございませんでした。
父うえにおねがいして、あやまりにうかがいたいです。
とく。
あの文を書いた小さな手を思えば、逃げるわけにはいかない。
叱った後の忙しさ。
謝ろうとする子を迎えるための忙しさ。
そして、米櫃の底を知らぬ姫君たちに、米櫃の底へつながるものを見せるための忙しさ。
その最初が、今日なのだろう。
私は、茶を口にする徳姫様を見守りながら、静かに息を吐いた。
忙しない。
本当に、忙しない。
けれど、今度の忙しさは、少しだけ温かかった。




