第十五話 猿の弟
徳姫様が、ようやく菓子をひと口召し上がった。
小さく切った菓子を、両手でそっと持って、少しだけかじる。
泣いた後だからだろうか。
それとも緊張しているからだろうか。
徳姫様の動きは、いつもよりずっと慎重だった。
紫乃も、菓子を手にしている。
ただし、徳姫様の方をちらちら見ている。
怖い気持ちは、まだ残っているのだろう。
けれど、逃げてはいない。
藤七丸は、紫乃の隣で背筋を伸ばして座っている。
兄らしい顔をしている。
少し前まで、転ばぬよう私の手を握って歩いていた子が、今は妹を守るように隣へ座っている。
子どもは、いつの間にか育つ。
本当に、いつの間にか。
私は茶を置きながら、そんなことを思った。
徳姫様の謝罪は、受け取った。
けれど、終わりではない。
むしろ、ここから始まる。
謝った後にどう動くのか。
謝られた側が、すぐに怖さを消せるわけではないことを、どう受け止めるのか。
それを、徳姫様はこれから覚えていくのだろう。
そして。
奇妙丸様と坊丸様は、それを見ている。
義冬も、傅役として控えている。
三人の視線を、私はなるべく気にしないようにした。
気にしたら胃が痛いからです。
すでに痛いですが。
「藤の方」
奇妙丸様が、菓子へ手を伸ばす前に、ふとこちらを見た。
「はい」
「この菓子は、子どもでも食べやすいように切ってあるのか」
私は少し驚いた。
「はい。泣いた後や緊張している時、大きいものは食べにくいことがございます。ですので、小さく切っております」
奇妙丸様は、菓子を見た。
それから、徳姫様と紫乃を見た。
「茶も薄い」
「濃い茶は、子どもには苦うございますから」
「なるほど」
奇妙丸様は、何かを覚えるように頷いた。
坊丸様も、静かに茶碗を見ている。
やめてください。
そんなに観察しないでください。
これはただ、泣いた子どもと緊張した子どもに出すものを少し加減しただけです。
特別なことではありません。
そう思った時だった。
廊下の向こうから、ばたばたばた、と足音が聞こえた。
非常に嫌な予感がした。
柴田邸の者は、今、このような足音を立てない。
於光様と八右衛門殿が、あれほど念入りに手配してくださったのだ。
では、この足音は誰か。
分かります。
分かってしまいます。
勝家様の眉間に、深い皺が刻まれた。
「猿か」
その低い声が落ちるのと、廊下の向こうで女中の声が上がるのは、ほとんど同時だった。
「木下藤吉郎様が、急ぎお目通りを――」
その声に重なるように、藤吉郎殿の大声が響いた。
「申し訳ございませぬ、権六殿! 藤の方様!」
やはり。
やはり、木下藤吉郎殿でした。
どうして、今日なのですか。
本当にどうして、今日なのですか。
障子の向こうで、どん、と勢いよく膝をつく音がした。
「信長様の御命にて、急ぎご相談がございまして!」
「まず息を整えよ」
勝家様が低く言った。
しかし、藤吉郎殿は止まらない。
「はっ、されど急ぎにございます! このたび、信長様より、山科言継卿ご一行を清洲にてお迎えする支度を整えよとの御命が下りましてございます!」
私は、思わず茶碗を取り落としそうになった。
山科。
言継卿。
その名を聞いた瞬間、頭の中で、いくつもの言葉が浮かぶ。
公家。
有職故実。
朝廷。
衣紋。
礼。
膳。
座。
無理です。
急に持ってくる話ではありません。
「しかしながら!」
藤吉郎殿の声は、なおも続いた。
「我が家はご存じの通り、農民の出! 戦場を走ること、荷を運ぶこと、頭を下げることならばまだしも、公家衆をお迎えする座の次第、膳、供回り、言葉遣いなど、不得手とするところ!」
分かります。
とても分かります。
分かりますが、なぜここへ来るのですか。
「なれば、まず頼るべきは権六殿! ひいては、藤の方様! まことに申し訳ございませぬが、お知恵を――」
勝家様が、深く息を吐いた。
「入れ」
控えていた女中が、障子を開いた。
藤吉郎殿は、勢いよく頭を上げた。
そして、固まった。
「……あれ?」
藤吉郎殿の目が、広間の中を順に見た。
奇妙丸様。
坊丸様。
徳姫様。
義冬。
勝家様。
私。
藤七丸。
紫乃。
そして、もう一度、奇妙丸様。
「き、奇妙丸様?」
藤吉郎殿の声が裏返った。
「坊丸様まで? 徳姫様も? 義冬様も? ……某、もしや、とんでもないところへ飛び込みましたか?」
勝家様が、低く言った。
「今さら気づいたか、猿」
藤吉郎殿は、見事な速さで平伏した。
「失礼つかまつりました!」
本当に、動きが早い。
感心している場合ではありません。
私は胃を押さえたいのを必死に堪えた。
「木下殿」
「はっ」
「まず、落ち着いてくださいませ」
「はい!」
返事はよい。
けれど、落ち着いているようには見えません。
勝家様が、私をちらりと見た。
お前が聞け。
そういう目だった。
なぜですか。
いえ、分かります。
私が聞かなければ、話が進まないのです。
私は、そっと息を吸った。
「木下殿。確認いたします」
「はい」
「山科言継卿を、木下家でお迎えするのではございませんね」
「それはもちろんにございます! 某の家など、とてもとても!」
藤吉郎殿はぶんぶんと首を振った。
「清洲城にて、信長様がお迎えになられます。某は、その支度の一部を仰せつかりましてございます」
「一部、とは」
「御座所の支度、控えの間、供の者の休む場所、手水、膳の手配、道順、それから……ええと、あとは……」
だんだん声が小さくなっていく。
私は静かに頷いた。
「分かりました。まず、分かっていることと、分かっていないことを分けましょう」
「分ける」
「はい」
私は、近くに控えていた女中へ目を向けた。
「紙と筆を」
「はい」
女中がすぐに動く。
八右衛門殿が、すでに帳面を手にしていた。
早い。
本当に早い。
「木下殿。山科卿が清洲へお入りになる日は」
「三日後にございます」
「御供の人数は」
「まだ詳しくは」
「それを、まず確認してください」
「はい!」
「山科卿ご本人の御座所。御供の控え所。荷を置く場所。手水の場所。履物を預かる者。膳を出すなら人数。茶だけか、膳まで出すのか。帰りの時刻。宿泊の有無」
言いながら、私は指を折った。
藤吉郎殿の顔色が、少しずつ変わる。
奇妙丸様も、坊丸様も、黙ってこちらを見ていた。
徳姫様も、菓子を手にしたまま、こちらを見ている。
やめてください。
見ないでください。
ただ、必要なことを並べているだけです。
「公家衆をお迎えするというのは、上座に座布団を置けば済む話ではございません」
私は言った。
「その方が座るまでに、誰が案内するのか。供の方々はどこで待つのか。履物は誰が揃えるのか。手を洗う水は誰が出すのか。道中で疲れた方がいれば、どこで休むのか。膳を出すなら、誰の前へどの順で出すのか」
藤吉郎殿は、真剣な顔で聞いている。
「はい」
「そして、そのすべてに人が要ります」
「人」
「はい」
私は、ここで言葉を止めた。
一番大事なのは、おそらくそこだ。
信長様が藤吉郎殿にこの役を命じた理由。
それは、単に山科卿を迎える支度をさせたいからではない。
たぶん。
藤吉郎殿に、家を作らせたいのだ。
ひとりで走る者から、人を動かす者へ。
自分の足で何もかも運ぶ者から、家中を整える者へ。
そこへ進ませようとしている。
私は、藤吉郎殿を見た。
「木下殿」
「はい」
「木下殿が、家の内を安心して任せられるお人はおられませんか」
藤吉郎殿が、目を瞬いた。
「家を……任せる?」
「はい」
私は、勝家様の後ろに控える八右衛門殿を見た。
「勝家様にとっての八右衛門殿のような方です」
藤吉郎殿の視線が、八右衛門殿へ向く。
八右衛門殿は、静かに頭を下げた。
「木下殿が外を走っている間、家の中を見て、足りぬところを数え、間違いがあれば止めてくれる方です」
藤吉郎殿は黙った。
いつものように、すぐには返事をしなかった。
珍しい。
それほど、考えているのだろう。
「木下殿ひとりがいくら走っても、目は二つ、手は二つでございます」
私は続けた。
「客を迎えるには、木下殿が見ていない場所も動きます。台所。座敷。門。供の方々の控え所。荷の置き場。水。薪。炭。布。履物。使いに走る者」
奇妙丸様が、少しだけ身を乗り出した気配がした。
「そこを任せられる人がいなければ、木下殿はいつか倒れます」
藤吉郎殿が、はっとした顔をした。
「某が、倒れる」
「はい」
「いや、某は丈夫にございます!」
「丈夫でも、倒れる時は倒れます」
私は、にこりと笑った。
「寧々様と猿丸様を泣かせたいのですか」
「それは困ります!」
即答だった。
勝家様が、低く息を吐いた。
「猿」
「はっ」
「家を持つなら、家を見る者を置け」
藤吉郎殿は、勝家様を見た。
「権六殿」
「お前が外で走るほど、内を預かる者が要る」
八右衛門殿も、静かに続けた。
「主が外へ出るなら、家の目は中に残さねばなりませぬ」
藤吉郎殿は、八右衛門殿を見た。
それから、私を見た。
何かが、胸の奥に落ちたような顔だった。
「……弟が、おります」
その声は、いつもより少しだけ低かった。
「弟君」
「はい」
藤吉郎殿は、膝の上で手を握った。
「小一郎と申します」
小一郎。
その名を、私は心の中で繰り返した。
猿の弟。
「今は、まだ大きな役を持つ身ではございませぬ。某のように走り回るわけでも、派手に口が回るわけでもございませぬ」
藤吉郎殿は、少しだけ苦笑した。
「けれど、昔から、某が調子に乗ると嫌な顔をします」
「止められるのですか」
私が聞くと、藤吉郎殿は一瞬黙った。
それから、はっきり頷いた。
「止めます。遠慮なく」
「ならば、その方です」
私が即答すると、藤吉郎殿は目を丸くした。
「早いですな!?」
「早くはございません」
私は首を横に振った。
「木下殿を止められる方は、とても貴重です」
広間の空気が、一瞬だけ緩んだ。
坊丸様が、少しだけ笑う。
義冬も、口元を押さえている。
勝家様は、何も言わない。
けれど、否定もしない。
藤吉郎殿は、頭をかいた。
「某、そんなに止めにくうございますか」
「はい」
「藤の方様、即答が過ぎますぞ」
「申し訳ございません」
「いえ、謝られると余計に刺さります」
藤吉郎殿は、困ったように笑った。
けれど、その目は真剣だった。
「小一郎を……呼ぶ」
「はい」
「今からでございますか」
勝家様が、低く言った。
「今でなくて、いつ呼ぶ」
藤吉郎殿は、口を閉じた。
その顔が、少しだけ引き締まる。
「確かに」
藤吉郎殿は、深く頭を下げた。
「信長様の御命は、山科卿を迎える支度。されど、それは某ひとりで走れという意味ではなく、家中を整えよという意味にございますな」
私は、少し驚いた。
藤吉郎殿は、本当に飲み込みが早い。
走るのも早いが、考えるのも早い。
だからこそ、危うい。
思いついた瞬間に動いてしまう。
その速さを止められる者がいるなら、それは大事にすべきだ。
「木下殿」
「はい」
「小一郎殿を呼ばれたら、まず帳面を見せてください」
「帳面」
「はい。米がどれだけあるか。味噌がどれだけあるか。布、炭、薪、水、器。人の数。使える者。慣れていない者。誰に何を任せるか」
私は、広間を見回した。
「家を預かるというのは、ただ留守番をすることではございません」
藤吉郎殿が、じっと聞いている。
奇妙丸様も。
坊丸様も。
徳姫様も。
「主が見ていない時に、家が乱れぬようにすることです。足りぬものを足りぬと知り、余るものを余ると知り、使うべき時に使えるように整えることです」
徳姫様の手が、膝の上で小さく動いた。
人が動く。
物が動く。
言葉で人を動かすなら、その人にも時間がある。
先ほど徳姫様に話したことと、同じだ。
ただ、今度は家の話である。
「勝家様には八右衛門殿がいらっしゃいます」
私は言った。
「於光様もおられます。だから勝家様は外で働けます。私も奥を預かることができます。ひとりで家は回りません」
勝家様が、こちらを見た。
「お藤」
「はい」
「お前も、よく働きすぎる」
「今は木下殿の話です」
「お前にも言っておる」
「はい」
勝家様は、静かにこちらを見ている。
私は少しだけ視線を逸らした。
分かっています。
分かっていますとも。
ですが、今は本当に木下殿の話なのです。
藤吉郎殿は、そんな私たちを見て、ふっと笑った。
「権六殿にも、藤の方様を止める役目が必要ですな」
「猿」
勝家様の声が低くなった。
藤吉郎殿は即座に頭を下げる。
「失礼つかまつりました!」
広間に、少しだけ笑いが広がった。
徳姫様も、涙の跡を残したまま、ほんの少しだけ口元を緩めている。
よかった。
少しだけ、空気が柔らかくなった。
「それで」
奇妙丸様が口を開いた。
「木下殿は、その弟君を呼び寄せるのだな」
藤吉郎殿は、奇妙丸様へ向き直った。
「はい。奇妙丸様。某、小一郎を呼びます」
「その者は、木下殿を止められるのか」
「おそらく、止めます」
「おそらく?」
「いえ、かなり止めます」
奇妙丸様は、少しだけ目を細めた。
「ならば、よいのではないか」
藤吉郎殿は、深く頭を下げた。
「ありがたきお言葉にございます」
奇妙丸様は、藤吉郎殿を見ていた。
その目は、ただ面白がっている目ではなかった。
何かを測っている。
木下藤吉郎という男が、ひとりで走るだけの者ではなくなる瞬間を、見ているのかもしれない。
坊丸様も、ぽつりと言った。
「家にも、傅役のような人が要るのですね」
義冬が、少しだけ目を細めた。
「近いかもしれません」
「家の傅役?」
「主を支え、時に止め、見えていないところを見せる者、という意味では」
坊丸様は、なるほど、と頷いた。
徳姫様が、八重殿を見た。
八重殿は、静かに控えている。
徳姫様は、何かを考えるように、その姿を見ていた。
きっと、自分のそばにいる者にも役目があるのだと、また一つ見ているのだろう。
藤吉郎殿は、深く頭を下げた。
「藤の方様」
「はい」
「某、まず小一郎を呼びます。その上で、山科卿をお迎えする支度について、改めて教えを乞うてもよろしいでしょうか」
「もちろんです」
私は頷いた。
「ただし、木下殿」
「はい」
「私がすべて整えるわけではございません」
藤吉郎殿が、きょとんとした。
「木下殿が整えるのです。小一郎殿と、木下家の方々で」
「はい」
「私は、考える順をお伝えするだけです」
藤吉郎殿は、少しだけ目を見開いた。
それから、にやりと笑った。
「ああ、なるほど」
「何がでしょう」
「藤の方様は、やはり義冬様の叔母上にございますな」
「はい?」
なぜ、そこで義冬が出てくるのですか。
義冬は涼しい顔で微笑んでいる。
「考える順だけを渡す。答えは自分で出せ。義冬様も、よくそのように仰います」
奇妙丸様が、うんざりしたように頷いた。
「よく言う」
坊丸様も小さく笑った。
義冬は、何も言わずに笑っている。
その顔。
やはり、少し私に似ている気がします。
いけません。
甥に悪いものを継がせてしまったかもしれません。
「木下殿」
勝家様が言った。
「小一郎とやらを呼べ。早く動け」
「はっ!」
藤吉郎殿は、勢いよく頭を下げた。
「ただし」
勝家様の声が、さらに低くなる。
「次からは、駆け込む前に先触れを出せ」
「はっ! 申し訳ございませぬ!」
「今日は客人がおられる」
藤吉郎殿は、改めて奇妙丸様、坊丸様、徳姫様へ深く頭を下げた。
「まことに、まことに失礼つかまつりました」
徳姫様は、少し迷った顔をした。
それから、ちらりと八重殿を見る。
八重殿が、ごく小さく頷いた。
徳姫様は、ぎこちなくも言った。
「木下殿も、急ぎであったのだな」
藤吉郎殿は、顔を上げた。
「はい。されど、急ぎであっても礼を欠いてはなりませぬな」
徳姫様は、小さく頷いた。
「妾も、覚えました」
その言葉に、広間が静かになった。
私は、徳姫様を見た。
徳姫様は、まだ涙の跡が残る顔で、けれどまっすぐ藤吉郎殿を見ていた。
「急ぎでも、まず尋ねる。人にも、時間がある」
藤吉郎殿は、一瞬目を丸くした。
それから、深く頭を下げた。
「徳姫様の仰せ、胸に刻みまする」
徳姫様は、少しだけ驚いた顔をした。
自分の言葉が、大人に受け取られた。
そう感じたのかもしれない。
私は、胸の奥が少し温かくなった。
今日、徳姫様は謝りに来た。
けれど、それだけではない。
自分が覚えたことを、誰かに返した。
それは、とても大事なことだ。
藤吉郎殿は立ち上がった。
「では、某、小一郎へ使いを出してまいります!」
「木下殿」
私は呼び止めた。
「はい!」
「走りすぎないでくださいませ」
「はっ!」
返事はよい。
ですが、たぶん走ります。
勝家様が、低く言った。
「猿」
「はっ」
「走るな」
藤吉郎殿は、ぴたりと止まった。
「……早歩きにいたします」
「そうしろ」
藤吉郎殿は、もう一度深く頭を下げると、今度は先ほどより静かに廊下へ下がっていった。
静かに。
少なくとも、最初の数歩は。
その後、廊下の角を曲がったあたりで、足音が少し速くなった気がした。
勝家様が、ため息を吐いた。
「猿め」
私は、少しだけ笑ってしまった。
「小一郎殿は、あの方を止められるのでしょうか」
「止められねば困る」
まったくです。
私は、藤吉郎殿が出ていった廊下を見た。
山科言継卿を迎える支度。
それは、清洲城の座を整える話である。
けれど、それだけではない。
木下藤吉郎という人が、自分ひとりで走るのではなく、家を作るための一歩でもある。
小一郎。
猿の弟。
その名が、これからどのように尾張に関わっていくのか、今の私はまだ知らない。
けれど。
信長様は、きっと見ている。
勝家様に八右衛門殿がいるように。
柴田家に於光様がいるように。
義銀に太田又助殿や小藤太殿がいるように。
人が大きく動く時、そのそばには支える者が必要なのだと。
「藤の方」
奇妙丸様が、静かに言った。
「家とは、人を置くことでもあるのだな」
私は、奇妙丸様を見た。
「はい」
私は頷いた。
「米も、布も、薬も、家も、人が見て初めて回ります」
奇妙丸様は、しばらく黙っていた。
それから、小さく頷いた。
「覚えておく」
その言葉を聞いて、私は深く頭を下げた。
徳姫様が、八重殿を見ている。
坊丸様が、義冬を見ている。
藤七丸が、勝家様と八右衛門殿を見ている。
紫乃は、菓子をもう一つ食べてよいか、私の顔を見ている。
私は、思わず少し笑った。
忙しない。
本当に、忙しない。
謝罪を受けるだけの日だったはずが、いつの間にか山科卿を迎える支度と、猿の弟を呼ぶ話になっている。
けれど、これもまた、米櫃の底へつながる話なのだろう。
人を迎えるにも。
家を作るにも。
誰かを叱り、誰かを支え、誰かを任せるにも。
まず、誰が動くのかを見なければならない。
私は、茶をひと口飲んだ。
少し冷めていた。
けれど、不思議と悪くなかった。




