電話
「おし、みんなおはよう。欠席は……鳴沢は病欠と親御さんから連絡があった。あとはみんないるようだな。続いて連絡事項だが、最近変質者が――」
担任の体育教師はそう言って今日の連絡事項を話し始めた。文子は病欠ということになっているが、おそらく嘘だろう。学校が生徒たちに変な不安を与えないようにしていることがよく分かる。しかしそれはそれでいかがなものかと対応を疑ってしまう。
先程の女子たちの話によると、文子は昨日の学校の帰り道で何者かにナイフで切りつけられたらしい。容態はよく分かっていないが欠席するほどの傷なのだろう。
俺はそんな女子たちの話を驚愕しながら聞いていたことは確かなのだが、あまりに現実離れしすぎていて、まるで遠くの国で起きた事件のことについて聞くように、右耳から左耳へと話は抜けていった。
「ナイフ……か」
ぼんやりと考える。今頃文子はどうしているのだろう。傷の痛みにうなされてないだろうか。そもそもまた元気に学校に来ることが出来るのだろうか。
視線を窓の向こうで行われている他学年の体育の授業から教室内に戻す。席が後ろの隅なので教室の様子がよく見える。淡々と漢文を黒板に連ねていく国語教師。それを熱心に写す生徒。前の文章を消されて思わずうなだれる生徒。
そんないつものありふれた風景に、文子の姿は無かった。
授業どころではなかった。ついさっき終わった四限まで、何一つ授業の内容は俺の耳に入ってこなかった。
俺、陽介、ミアの三人で昼飯を食べている今でも、なんだか一つ机がないだけですごく空虚を感じる。まあ文子が学校にいないなんてこともたまにはあったが今回ばかりは事情が異なる。普通ではない、異常だ。
先ほどまで半ば放心状態だった俺はようやく事の重大さに気づいてきた。
陽介も心配している様子で、弁当のミートボールを箸で転がしている。心ここにあらずといった感じだ。
俺と陽介の空気を察したのか、間に座るミアの口数は少なく、しきりに俺たちの様子を伺っていた。
「……とりあえず、やはり文子に電話してみるのが一番早いんじゃないか?」
そう提案したのは陽介だった。
「だよなぁ」
それが文子の容態を知る一番手っ取り早い方法。というかそれしか考えられなかった。しかしイマイチ踏ん切りがつかない。
「どうした。なにかマズいことでもあるのか?」
「いや……どんな顔して電話していいのか分からなくてさ」
「顔は見えないから関係ないし……まあ言いたいことは分かるけど」
「だろ?」
「でも、そんなのいつも通りでいいに決まってんだろ」
ツッコんだあとに吹き出す陽介。
「――あいつは馬鹿なんだから」
それを聞いて俺は目を丸くする。
「……ふっ、言われてみればそうだな!」
「お前が言えた口じゃないけどな」
「うるせえ」
陽介のおかげで幾分か気持ちが楽になった気がする。俺だけが勝手に心配しても仕方がない。今はとりあえず文子に電話。それからだ。
◇
――お昼過ぎ。ベッドの上で食べる食事は家だというのに塩の入っていないお粥のような病院食を食べている気分だった。生まれてこの方病院食とは無縁の人生を送っているが。
昼食を終えたところで携帯が鳴った。こんな平日の真昼間に電話をかけてくるなんて暇人か間違い電話だろう。
「はいはい出ますよどちら様ですかー」
鳴沢文子は携帯を手に取る。すると液晶にはひらがなで『ひろや』の文字。
「――暇人の方だったか」
そう独りごちると誰が見ているわけでもないのに鏡を見てみたり寝癖を直してみたりと、なんとなく不要な動作が増えた。
そして一つ深呼吸。
「……も、もしもしー」
声が裏返ったりしてなかっただろうか。
『お、やっと出た。元気してるかー?』
最初の言葉がこれである。なんとも大哉らしいというか。
文子は小さく吹き出した。
「普通に元気だよ」
「寝てたのか? 出るのに時間かかってたみたいだけど」
「え? いや起きてた起きてた。ベッドの下に携帯落ちちゃってさ」
及第点にも及ばないな、と自分の嘘を採点しながらこちらから話を振ることにする。
「もうそっちでは私の話題で持ちきりなんじゃない?」
『ん、まあな。本当にナイフでやられたのかよ?』
「うん、そりゃもうスパッて。背中のあとに脇腹をね。背中切られた時に咄嗟の反応でよけたから脇腹をかすっただけで済んだけど、もう少し遅れてたらズブリといってたね」
『スパッだとかズブリだとかもう無茶苦茶だな』
「困っちゃうよねー、私も何がなんだかって感じで――」
他愛もないというか、物騒というか。おおよそ日常会話で飛び出してくることのないような、そんな話を皮切りに二人の会話は始まり、『今日の授業のノートは陽介に見せてもらえ』「言われなくてもそうするよ」など軽快に進んでいった。
文子自身も大哉との会話を純粋に楽しんでいた。昨日の惨劇のことをほんのわずかに忘れられる程に。
――十分くらいした頃だろうか。向こうの電話代を考慮してそろそろこれくらいにしとこうかと文子が言おうとした時、
『で、学校にはいつから来れそうなんだ?』
そんなことを聞かれて文子は戸惑った。
「……」
『どうした?』
「……え? 傷が治ったらすぐいけると思うよ! すぐ……」
『――本当か?』
どくんと心臓が跳ねる。
「本当かって……」
『嘘だろ。それ』
ばれてる。
「な、なんで嘘なんてつかなきゃいけないのよ?」
『いや、お前は俺と同じで馬鹿だからさ。嘘をついてるなんて顔を見なくても分かるっていうか……さ』
「――――っ」
携帯を持つ手に力が入らなくなる。あいつは全部お見通しだ。
もう観念しよう。
「へへ……大哉には敵わないな」
『腐れ縁が成した業ってやつだ』
「だね」
電話越しに二人して笑ってしまった。
ひとしきり笑ったところで文子は話し始めた。
「正直なところ、学校にはいつ行けるか分かんない。というか行きたくないの」
『え……』
驚きを隠せない大哉に文子は続ける。
「さっき脇腹をかすっただけで済んだって言ったじゃん? あれ、かすってないんだ」
『……お前それって』
「うん。ほんとにズブリといっちゃったんだよね」
さっき笑って安心したせいか、今までの感情が緊張とともに一気に流れだしてきた。
「それでね、急所を……刺されずに済んだっていうのと……倒れた私を近所の人がすぐ発見してくれたっていうのがあって……命に別状は無かったの」
自然と嗚咽が漏れてしまう。
それを淡々と聞いている大哉。
「……ただ、傷口が……開いちゃうから……今は絶対安静なんだ」
文子はそのあとの言葉が続かなくなってしまった。
文子の小さな嗚咽と鼻をすする音だけが携帯を通して流れていた。
自分自身なぜ涙が出そうになるのかよく分からない。同情して欲しいから? 違う。そんなあざといこと、しかも幼少からの幼馴染に同情されるなんてことは文子にとってまさに死ぬほど嫌なことだった。
ではなぜ自分は今こんなに、どこを引き抜いても崩れ落ちそうなジェンガのように脆くなっているのか。文子は考えたが答えはそう簡単に見つからない。
沈黙は続いた。
『…………痛かったか?』
しばらくして聞こえてきた大哉の声は、すごく久しぶり聞いた気がした。
「あ――」
と同時に、その言葉を待ってましたと言わんばかりに文子の目から大粒の涙が溢れ出す。
「うん……痛かったよ。すごく痛かった。だからね、もう外には出たくないの。犯人が捕まるまで」
結局のところ、自分は同情して欲しかったのか。文子は自分の浅ましさに自嘲の笑みが漏れた。
『……そうか』
またも沈黙が訪れる。
『……ええとさ』
「うん?」
『本当に無神経で悪いんだけど、犯人の顔とか覚えてないか?』
「……ほんとに無神経だね」
『悪い……』
「あはは、冗談だよ。そんなこと聞いてどうするの?」
たじろぐ大哉に文子は幾分か笑顔を取り戻した。
『いや、なんとなくだけど』
文子はやれやれと言う。
「馬鹿だね大哉は。大哉は私と同じで馬鹿だから、嘘をついてるなんて顔を見なくても分かるんだよ」
そっくりそのまま返してやった。
『う……』
「探すんでしょ。犯人」
『……悪いか』
「悪いに決まってるでしょ! 私を殺そうとしたかもしんないんだよ!? ……そんな危険なこと、大哉にさせたくないよ」
大きな声を出して力んでしまったせいか、文子は脇腹に痛みを感じて起こしていた体をベッドに預けた。
その際、文子から発せられた短い呻き声を大哉は聞き逃さなかった。
『おい、大丈夫か!?』
「……大丈夫。傷に関してはすぐ治るって言われてるから心配しないで」
心の傷はどうだかね、と文子はまたも自嘲気味に考える。
『……ならいいけど』
ただでさえ心配をかけているのだからこれ以上大哉や陽介に心配はかけられない。文子は気丈に振舞う努力をした。
『その……水曜日の人――犯人が捕まんなきゃ家から出たくないんだよな』
「うん」
これは心の底からの本心から出た返答だった。
『それは、いつになるんだろうな』
「知らないよ、そんなこと」
そんなことを知っていたらそれこそ水曜日の人が捕まるとされるその日まで近隣住民の方々には極力外出を控えてほしいものである。こんな目に遭うのだったら私だって引きこもってアニメでも見ていたのに、と文子は今更どうでもいいことに苛立ちを覚えた。
『……俺は早いところお前の作った飯を食いたいんだけど』
怒りの矛先が見当たらぬまま悶々としているとそんな言葉が聞こえた。
「……え……?」
とんでもない不意打ちだった。
一瞬自分が何を言われているのか分からなくなり、ワンテンポ遅れて文子は体中が発火したように熱くなる。と同時に自分の頬をまたも涙が流れていることに気づいた。
……違う。
同情して欲しいから。そんな理由ではない。
ただ単に甘えたかったのだ。大哉にだけ、大哉だからこそ文子はこんな行動を取ったのだ。そんな自分に気づいた文子は更に顔を紅潮させた。
『……いや、なんでもない』
大哉にばれないようにパジャマの裾で流れる涙を乱暴に拭く。
「と……とにかく! いくら同じ学校の同級生だからって探しちゃダメだからね! 大哉が殺されてからじゃ私、死んでも死にきれな――」
そんな自分を誤魔化すように言って途中でストップした。そして反芻する。今自分は何と言った? もしかしたら今自分は、とんでもないミスを犯したんじゃないかと。
『……同じ学校の……同級生……?』
「――――!」
文子は自分の馬鹿さ加減に目を覆った。
「い、いやあのね……! なんていうか、その……ね!」
『この学校に犯人がいるってことなんだな!? そうなんだな!?』
「な、なんていうか、いるっていうか……えっと……」
先程までのどこか甘ったるいムードは華麗に吹っ飛ばされた。
こうなってしまったらもう大哉を止めることは無理そうだ。文子はそう思った。
大哉の身を案じて頑なに隠していたつもりがよもや自分の頭の悪さで、しかもこんな短時間でばれてしまったことに文子は頭を抱えた。ここまで来ると救いようがない。
文子は大哉と自分両方に向けて大きな溜息を漏らしたのだった。




