第三話 ありがとう
警察が帰ったあと、家は嘘のように静かになった。助かった。そう思うべきなのに、足元が薄くなるような心地がして、うまく思えなかった。
息子がソファで、がくりと船を漕いだ。娘はもう、膝を抱えたまま目を閉じている。一晩の緊張が、一度に抜けたのだ。
「お疲れでしょう。ベッドで休みましょうか」
ジャックがいつもの柔らかな声で言い、二人の肩に手を添えた。子供たちは、促されるまま素直に立ち上がった。
「お母さんは、少し待っていてください」
寝室のドアが閉まった。
私はリビングのソファで、膝の上の手を握った。ドアの向こうから、低い声が聞こえる。何を言っているのかは聞き取れない。息子のしゃくり上げる声が一度だけ漏れて、それから静かになった。
長い時間が過ぎた。
ドアが開き、ジャックが出てきた。音を立てないように閉め、静かに息を吐いた。
「お二人とも、眠りました。泣き疲れたのでしょう」
「あの子たちは……」
「『お父さんを倒したのは自分だ』と、ずっと仰っていました。お母さんを守っただけですよと、何度かお伝えしておきました」
私は頭を下げた。
「さっきの、警察の人たち。あなたが、何かしたんですか」
「さあ。私は、見たことを申し上げただけです」
穏やかな声だった。それ以上は聞けなかった。聞いてはいけない気がした。
壁の時計が、静かに鳴った。
「奥さん」
ジャックは、ドアの前に立ったまま言った。声の調子は変わらない。けれど、目だけが、さっきまでとは違っていた。
「手首を、洗いすぎていらっしゃいますね」
肩が小さく震えた。
「内側だけ赤くなっています。爪の際にも、洗い残しが少し。転んでついた染みではありません。血に触れた手です」
返事はできなかった。
「私は、それを警察には申し上げませんでした。お子さんたちにも。聞かせていただけますか。ご主人が倒れたあと、あなたは何をなさいましたか」
長い沈黙のあと、私は膝の上で手を握りしめた。
「……仰向けにしようとして。頭を支えたら、手が、血で濡れて」
「ええ」
「そしたら、あの人が呻いたんです。喉のあたりで、小さく。指が動いて」
声が掠れた。
「生きてたんです、あのとき」
「そうですか」
「でも私、目を覚ましたら、今度はあの子たちが、って。手が勝手に離れて。救急車を呼べばよかったのに。呼べたのに」
ジャックは何も言わず、天井を見上げた。
「あの呻き声を聞いたとき、何を思われましたか」
「……怖かった。ただ、怖かった。あの人の手が、また、あの子たちに」
「そうですね」
「助かったんでしょうか。あのとき、すぐ呼んでいれば」
初めて、ジャックは私をまっすぐに見た。
「わかりません」
「え」
「私にも、わかりません。頭の中のことは、見えないのです。助かったかもしれませんし、駄目だったかもしれません。『助からなかった』と申し上げれば、あなたは楽になるでしょう。でも、それは嘘です。あなたには、嘘はつきません」
私は目を見開いた。
「ただ、ひとつだけ申し上げます。あなたが怖かったのは、ご主人が何年もかけて、あなたの体に積み重ねたものです。あなたの臆病ではありません」
「……」
「そんな体で、血まみれのご主人に手を伸ばされた。頭を支えようとなさった。それは、薄情な人のすることではありません」
涙が落ちた。
長いこと泣いた。ジャックは何も言わず、そこに立っていた。
「……子供たちには」
「私からは申し上げません。お話しになるかどうかは、あなたがお決めください。一生黙っていても、いつかお話しになっても、構わないのです」
私は頷き、涙を拭って息を吐いた。
「ずっと、誰かに言ってほしかったのかもしれません。『助かったかもしれない』でも、『助からなかった』でもなくて、ただ『わからない』って。みんな、慰めるか、責めるかのどっちかだと思っていたから」
立ち上がり、ジャックに深く頭を下げた。
「ありがとうございました。嘘をつかないでいてくれて、ありがとう」
私の「ありがとう」が、空気に落ちた。
ジャックの襟で、かぼちゃのピンが橙色に灯った。私の胸の奥から光の粒がひとつ抜け、吸い込まれるようにピンへ流れていく。
「……っ」
足元から焰が噴き上がった。ジャックは目を見開き、それから、堪えきれないように笑い声を上げた。
「ハッ、ハハハハハ!」
焰が彼の姿を包み、高笑いが部屋に尾を引いて消えた。リビングには、焦げ跡ひとつ残らなかった。
静寂だけが残った。
胸に手を当てた。何かが、抜けていった。寝室から、子供たちの寝息が聞こえる。袖で涙の跡を拭った。
胸は軽い。けれど、あの夜が消えたわけではなかった。夫の指が曲がった感触は、まだ掌に残っていた。
窓の外では、朝の光が、少しずつ家の中に入り込んでいた。




