第二話 探偵
家の前に、パトカーが二台停まっていた。
中折れ帽をかぶり、トレンチコートの襟にオレンジ色のかぼちゃのピンをつけた男が、規制線の手前で足を止めた。
玄関の扉は開いたままだった。警官も鑑識も、青い靴カバーをつけていた。男は靴底の汚れを入念にマットで拭うと、招かれた客のような顔で、規制線をくぐった。
「ジャックさん」
リビングの入口で、年配の警部が顔をしかめた。
「また来たんですか」
「そうつれないことを言わないでくださいよ、警部さん。事件の匂いがしたもので、来ちゃいました」
ジャックは帽子を取り、人のよさそうな笑顔で会釈した。警部は何か言いかけて、やめた。追い返しても無駄だと、知っている顔だった。
ジャックは玄関の錠前に、ちらりと目をやった。
壊された形跡はない。靴箱の前には、家族の靴が並んでいる。脱ぎ捨てられた男物の革靴が、片方だけ横倒しになっていた。旅行鞄の類は、見当たらない。
リビングは荒れていた。引き出しは残らず抜かれ、中身が床にぶちまけられている。ジャックはその中身を踏まないように、爪先で床を選びながら、奥へ進んだ。窓の鍵は、どれも内側から閉まっていた。
ダイニングの床には、鑑識が敷いた踏み板が並び、料理の上の足跡は避けられていた。テーブルの脇には、男の遺体があった。傍らで、若い鑑識が首をかしげている。
「警部、この傷、妙ですよ。鈍器の形じゃない。角張ったものに、一度ぶつけた感じだ」
「強盗が、何かを振り回したんじゃないのか」
「それにしては、傷が平らで……」
床には、重そうなガラスの灰皿が転がっていた。ジャックはそれを拾わず、血も髪もついていないことだけを確かめた。それから、遺体の傍らに膝をついた。
遺体の靴下の裏には、ソースがべったりと付いていた。床には、ダイニングテーブルの脇から角へ向かって、料理を引きずった長い跡が伸びている。テーブルの角には、血と、短い髪が数本、こびりついていた。
ジャックは遺体の額の傷と、テーブルの角を、ゆっくりと見比べた。傷の幅は、角の幅と、ちょうど重なっていた。
立ち上がると、ダイニングの床に目を落とした。
冷めた料理が散らばり、その上に足跡がいくつも残っている。素足と靴下の跡だ。大きなものが一つ、小さなものが三つ。外から来た人間の靴の跡は、ひとつもない。洗面所の奥から、洗濯機の終わる音が聞こえた。
リビングの隅に、母親と子供が二人、寄り添って立っていた。母親は長袖の袖口を、指先でぎゅっと握っている。顔色は紙のように白い。息子と娘は、母親の腕の中で、ほとんど息をしていないように見えた。
ジャックは三人に向き直り、深く頭を下げた。
「このたびは、お悔やみ申し上げます。大変な朝でしたね」
母親は、小さく頷いた。
そして視線は、母親の手首で止まった。袖口から覗く肌が、赤く擦れている。その少し上には、黄色く褪せかけた、古い痣があった。母親は気づいたように、慌てて袖を引き下げた。
「ほう」
ジャックは、小さく呟いた。
「強盗は、何か盗っていきましたか」と、警部に尋ねる。
「それが、財布も現金も貴金属も、全部残っていまして」
「それはそれは」
ジャックは微笑み、母親を見た。
「奥さん、少しお話を伺ってもよろしいですか。お子さんたちも、ご一緒に」
*
リビングのソファで、三人は並んで座った。ジャックは立ったまま、手帳を開きもしなかった。
「強盗は、リビングと寝室の引き出しを全部、ひっくり返していますね。見事な荒らし方だ」
「……はい」
「ところが、ダイニングの床には、料理が散らばっています。それを踏んだ足跡が、はっきり残っている。全部、素足か靴下の跡です。外から来た人間の靴跡が、ひとつもない」
母親の指先が、袖口を握り直した。
「それに、昨夜はご友人宅にお泊まりだったとか。それにしては、お三方とも手ぶらですね。お荷物がない。お泊まりになったご友人のお名前を、伺ってもよろしいですか」
「それは……」
母親は口を開き、そのまま閉じた。答えは、出てこなかった。
「洗濯機も、事件の朝に回っていました」
ジャックの声はあくまで穏やかだった。責める響きは、どこにもない。
「ごめんなさい」
娘が、泣き出した。
「全部、嘘なんです。お父さんがお母さんを殴ってて、私たち、止めようとして……」
息子が顔を上げた。
「僕が、タックルして。お父さんが倒れて、動かなくなって、怖くて、逃げて……」
「やめなさい」
母親が言った。声に、力はなかった。
「この子たちは悪くありません。お願いです。責めないでください」
ジャックは頷いた。
「ひとつだけ、確認させてください」
ジャックは息子に向き直った。
「ご主人は、床の料理を踏んで滑った。そして、あのテーブルの角に、頭をぶつけた。お二人が飛びついた、直後に。間違いありませんか」
息子は唇を震わせて、頷いた。
「ええ。それなら、わかります」
ジャックは静かに言った。
「靴下の裏のソースも、床の滑った跡も、テーブルの角の傷も、すべて、そのとおりです。誰も、悪くありません」
彼はそれ以上、何も言わなかった。ただ、静かな目で母親を見た。そして、母親の赤くなった手首に、もう一度だけ視線を落とし、ゆっくりと外した。
*
「警部さん」
ジャックはリビングを振り返った。
「ふーむ、これ、犯人はいませんね」
「何だって?」
「ご主人の傷は、あのテーブルの角と、ぴたりと重なります。角には血と髪。靴下の裏にはソース、床にはそれを引きずった跡。ご主人は、床の料理を踏んで足を滑らせ、あの角に頭をぶつけた。それだけの話です」
「しかし、この荒れようは」
警部はリビングを指さした。
「強盗に入られたのでは。奥様の第一報も強盗だと――」
「荒れた家と、ご主人が亡くなった理由は、別の話です」
「別の話といっても……」
警部の眉間に、深い皺が寄った。若い鑑識も、納得のいかない顔で、遺体とリビングを見比べている。
そのとき、ジャックの瞳の奥で、橙色の火が、ちらりと揺れた。
警部の眉間から、皺が消えた。ゆっくりと瞬きをして、頷く。
「……なるほど。確かに、そうですな」
あまりにも、あっさりしていた。若い鑑識まで、何かを思い出そうとするように首を振って、頷いた。
「では、事故ということで処理します」
警官たちは手際よく道具をまとめ、遺体を運び出し、家を出ていった。母親は、その背中を見送ったまま、しばらく動かなかった。
息子が立ち上がって、頭を下げた。
「あの……ありがとうございました」
「ありがとう、ございます」
と娘も続けた。
ジャックは二人に目を向けたあと、襟元のかぼちゃのピンを見下ろした。
ピンは暗いままだった。ジャックは、わずかに眉を下げた。
「君は、お母さんを守りました」
息子の肩に手を置いた。
「それは、忘れないでください」
息子が、唇を噛んでうなずいた。
ジャックは、ゆっくりと母親に目を向けた。
母親は、袖口を握ったまま、立ち尽くしていた。




