第一話 嘘
※暴力と死亡の描写があります。ご注意ください。
※全四話の倒叙ミステリーです。第一話は、母親の一人称でお届けします。
流しの水音の向こうで、玄関の扉が乱暴に開いた。
私は洗いかけの皿を握ったまま、手を止めた。
「おい」
酒の匂いが、声より先にキッチンへ流れ込んできた。夫は大きな体で入口をふさぐように立っていた。
リングの上の夫は、正統派のヒーローだった。甘いマスクで子供たちに手を振り、ファンの列には一人ずつ握手をして、関係者には丁寧に頭を下げる。商店街のポスターで笑う彼を、近所の人は「素敵なご主人ね」と羨んだ。酒が入るまでは、家でも紳士だった。
その体が今は、家の逃げ場をなくす壁になっていた。
夫の視線が、ダイニングテーブルに向いた。食べられないまま冷めた夕食が、ラップの下で白く脂を浮かせている。
「飯は」
「今、温め直すわ」
濡れた手も拭かずに、テーブルへ駆け寄った。皿に手を伸ばす。それより早く、夫の太い手が皿を掴んだ。
その目を見た瞬間、私は反射的に顔の前で腕を交差させた。何度も繰り返した動作だった。体は、考えるより先に小さくなる。
「遅ぇんだよ」
冷めた料理が、庇った腕と胸にぶち撒けられた。ソースが袖を伝い、頬にも跳ねる。残りが床に落ちて広がった。
夫の右手が振り上がった。
「やめて!」
背後で二つの足音がした。十五歳の息子と娘だ。部屋にいなさいと言ったのに。
息子が夫の腰に、娘が腕にぶつかっていった。小さな体当たりだった。けれど、酔った夫の足は、床に散った料理を踏んで滑った。
鈍い音がした。
夫はダイニングテーブルの角に頭をぶつけ、崩れるように床へ落ちた。手足が一度だけ跳ね、動かなくなった。
静寂がキッチンを満たした。
「お父さん……死んじゃった……?」
娘の声が震えている。
「俺たち、ただ……」
息子は自分の両手を見つめていた。
料理の上に、赤い線が広がり始めていた。
「二人とも、リビングの入口まで下がっていなさい」
自分の声が驚くほど落ち着いていることに、私は気づいた。子供たちを下がらせ、一人で夫のそばにしゃがむ。
夫は横向きに倒れ、顔が床に半分埋まっていた。息ができているのか。仰向けにしなければ。肩に手をかけて体を返し、頭を支えようと、後頭部へ手を回した。
指先が、ぬるりと濡れた。
掌が赤く染まっていた。額が割れ、こめかみが、みるみる腫れていく。熱い。まだ温かい。
なぜ手が動いたのか、自分でもわからなかった。この人は私を殴った。子供たちを怯えさせた。それでも、手が動いた。
血に濡れた掌の中で、夫の喉が小さく鳴った。
「……う」
呻き声だった。夫の指が、床の上でわずかに曲がった。
全身が凍りついた。
目を覚ます。起き上がる。そして、あの手が、今度は子供たちにも。
頭を支えていた手から、力が抜けた。
「お母さん、早く!」
息子が駆け寄り、私の腕を掴んだ。娘が玄関の壁から上着を三着引っ掴み、一着を私の肩に押しつけた。
「逃げよう、お願い!」
引かれるまま立ち上がった。扉の外は冷たい夜だった。振り返る勇気はなかった。
夫はまだ生きていた。それを知っているのは、私だけだった。
*
夜明けまで、私たちは二十四時間営業のファミレスの奥のボックス席にいた。
上着の前をきつく合わせ、誰も口をきかなかった。息子と娘は、ドリンクバーのカップを両手で包んでいた。私のカップは、手つかずのまま冷めていった。
掌の乾いた血は、上着のポケットの中に隠した。服の下で乾いたソースが、ときどき小さく鳴った。店員が水を替えに来るたび、娘が肩をすくめた。
空が白み始めたころ、娘が小さく言った。
「……帰らなきゃ、いけないの?」
「帰らないほうが、おかしくなる」
私の声は落ち着いていた。落ち着いている自分が、少し怖かった。
家の扉は開いたままだった。キッチンの灯りが、朝の光の中で白く浮いている。
夫は昨夜と同じ場所に、同じ向きで倒れていた。そっとしゃがみ、唇のそばに手をかざした。何も感じなかった。こめかみは黒ずんで腫れ上がり、額の傷は乾いている。
もう、呻かなかった。
そうか、と私は思った。それだけだった。胸の奥で何かが静かに沈んでいった。
「留守中に強盗に入られたことにしましょう」
振り返らずに言った。背後で、子供たちが息を呑む気配がした。
「あなたたちを守るためよ。まず、着ているものを全部着替えて。汚れたものは洗濯機に入れなさい」
私も寝室で着替え、血と料理のついた服を洗濯機へ押し込んだ。洗面台で手を洗う。掌と手首の内側の、乾いた赤黒い染みを、爪で擦り落とした。落ちた、と思った。
「次は部屋よ。引き出しを開けて、中身を出して。友達の家に一泊して、帰ってきたら、こうなっていた。それだけ言えばいい」
リビングで、寝室で、引き出しを引く音がした。洗濯機が回り始めた。私は受話器を取った。
「警察ですか。主人が、主人が……昨夜は友人の家に泊まっていて、今、帰ったら、家が荒らされていて、倒れていて……」
声は、自分でも驚くほど震えていた。
受話器の向こうで、落ち着いた声が答えた。すぐに向かいます、そのままお待ちください、と。
通話が切れたあとも、洗濯機の回る音だけが、いつまでも家に響いていた。




