39,★悪夢と記憶
俺の愛する女性は、今日はいつもより……
少し色っぽくて、
少し意地悪で、
少し積極的、
だった。
耳元で『キスしていい?』と囁かれ、息が耳にかかってくすぐったかった。
キス……
知っているはずだけど、どうだったかな。
考えていたら、唇と唇が触れた。
そうだ。
これだ……
思い出して、体が熱くなった。
この女性はスゴイ。
俺のことを何でも知っている。
そして、俺を幸せな気持ちにしてくれる。
もっと一緒にいたい。
もっと近くに感じたい。
もっと、もっと……この人と……
そんなことを思っていたら、ふと、ある二文字が浮かんだ。
『あ』
『こ』
大好きな響きだった。
この女性にぴったりの……そうか、この人の名か……
ようやく思い出せた愛する女性の名を呼びたかった。
だが口から音を発しようとすると、頭の中の霧が濃くなり、とても不快だ。
いつもなら諦めるが、今日は俺も少しは頑張れる気がした。
それにしても、とても疲れる。
筋トレの三倍は大変な作業だ。
必死に「あこ」と言ったのに、泣かれてしまった。
なぜだ?
好物を横取りしたからか?
泣かないで欲しい。
悲しむ顔は見たくないんだ。
手を伸ばして、亜子の頭を撫でた。
亜子が腕を伸ばして俺にしがみ付いてきた。
『よしよし』背中を撫でる。
まだ涙が止まっていない。
顔が近くて、キスのことを思い出した。
またしてもいいだろうか。
怒るだろうか。
泣くだろうか。
いや、あんなに幸せな気持ちになるんだ。
きっと大丈夫だ。
俺は唇を亜子の唇に重ねた。
さっきよりも長く、そして強く。
体中に脈を打つ血管を実感している。
愛してる。
愛してる、亜子。
せっかくの俺たちの時間を、中年の男女に邪魔された。
午後になると必ず来るこの二人のこともよく知っている。
しかし、詳しく思い出そうとすると、あのモヤモヤと広がる霧に阻まれてうまくいかない。
「清彦がさっき私の名前を呼んでくれたんです!」
「えっ!やったわね」
そう言って女性は泣き出した。
俺はこの女性のことを可哀想だとは思ったけど、頭を撫でてやる気も、キスをするつもりもない。
「おじちゃん、退院の話を進めてもいいと思うんです。日常生活がいい刺激になるみたいなので、あの……できたら私も……」
「亜子ちゃん、この前の話した同居の件、受けてくれるのかい?」
「はい。是非」
俺を含まない三人の会話の内容はよく分からない。
俺はもう、とにかく疲れてるから、眠くて……眠くて……
ウトウトしかけていたら、亜子が布団を首まで掛けてくれた。
まだ帰らないでくれよ。
俺が起きた時も、ここにいてくれよ。
バシバシバシバシ……
まただ。
何度聞いても、この不気味な音には寒気がする。
『なにかおかしいぞ!放水やめ!』
『放水やめ!退避!退避だ!』
叫ぶ署員の声が、前方にいる田浦と水島に届いていない。
俺は林に指示を出し、前方に走った。
『退避だ!』
両手を口元に当て、あらん限りの声をふり絞った。
水島が振り返って走ってくるが、田浦はまだ気付いてなかった。
『走れ!こっちに来い!』
そして俺は巨大なビルに踏みつぶされた。
これが夢なのは分かっている。
繰り返し、何度も見てきた悪夢だ。
どうにもできないことだと分かっているが、あの日、どこを修正すれば俺は潰されないですんだ?田浦や水島を危険にさらさないで済んだ?そんな無数の『たられば』で俺は自己嫌悪に陥る。
ひんやりとしたおでこの感触で目を覚ます。
「清彦……うなされてたよ?」
目を瞑るたびに見る悪夢は、目覚めとともに影も形も無くなる。
はて……あの巻き込まれた男たちの名は……今まで身近に感じていた知った顔は、もう捉えようもない煙のように散ってしまった……
しんどくなり、俺は思考を止める。
ああ、亜子だ。
よかった帰らないでいてくれたんだな。
「あのね。おじちゃんとおばちゃんが退院の手続きを進めているよ」
ごめん、なにを進めてるって?
「退院、分かる?ここから出て、お家に帰るの」
良さそうな話だ。
ここは俺に悪夢しか見せないから、出て行けるのは有難い。
「それでね、私も清彦の家に住もうと思うんだけどいい?」
大賛成だ。
どうした?
不安か?
「あ……こ……」
声を絞りだして、亜子を抱き寄せる。
俺より強く亜子が俺を抱きしめ返している。
安心したか?
「明日か、明後日か、まだ決まってないけど、早く帰りたいね」
もちろんだ。
亜子とずっと一緒にいられる。
そんなに嬉しいことはない。
「じゃ、私、今日はこれで」
亜子が俺のおでこに唇を押し当てた。
「また明日ね」
亜子が帰ってしまうと、なにもすることが無い。
寝ても気分が悪くなる夢を見るだけだから、まだ眠りたくもない。
亜子のことを思い出しながら腕立て伏せを始めた。
あの記憶のような夢は……現実か?本当にあったことなのか?
俺は一体……
コンコン
ドアがノックされ、ゆっくりと引き戸が開いた。
中年の男性に連れられて、若い男が四名入ってきた。
見覚えがあるが……
頭がぼうっとし出して、途端に考えるのが面倒になる。
「皆さんが見舞いに来てくれたぞ」
美味しそうな果物をいただいた。
一番奥にいた男は左腕が石膏で固められている。
「真壁さん、ずっと来られなくてすみませんでした」
メガネを掛けた長身の男が頭を下げた。
「いやいや。水島くんには入院当初、そうとう良くしていただいた。こちらこそお礼を言うのが遅くなってすまないね」
ここに居る男性達は中年の男性と知り合いなのだろう。
「真壁さん!退院するらしいじゃないですか!元気になったら、早く署にも顔出してくださいね」
「おい、林、無茶言うなよ。あんな大事故の後だぞ……」
ギブスの男がそう言って、みんな黙ってしまった。
「せっかく来ていただいたんだが、この通りでね。亜子ちゃんが言うには、本人は意思をもってこちらの話を理解してるらしいんだが、いかんせん反応が薄くて、どうだかね」
なぜ、皆そんなに悲しそうな顔をしている?
心配するなと伝えたい。
俺は大丈夫だ。
「あ……こ……」
今、言えるのはこれだけだった。




