38,☆溢れだす感情を抑えきれない
清彦の身体機能は元に戻りつつあるようだった。
精力的にトレーニングを繰り返すし、体つきも事故前と遜色が無いように思う。
「あとは脳の問題だよな……」
今日は仕事が休みだから、終日病院で過ごせる。
私はサンドイッチと唐揚げを作って、お弁当に持参した。
「おはよう、体調はどう?」
黙ってベッドに腰掛け、無表情にこちらに顔を向ける。
最初はショックを受けていたが、今はもう普通のこととして受け止めることが出来ている。
清彦はもともとお茶目な性格だ。
真面目で優しいのに、ちょっとした声掛けで緊張を解いてくれる素敵な男性なのだ。
今日は、その清彦を取り戻すため、私は壮大なミッションを掲げてきた。
『視覚、嗅覚、聴覚、味覚、触覚』
清彦の五感を揺さぶって、脳に刺激を与えてやる……
私は着てきたカーディガンを脱いで鞄にしまい、スツールに置いた。
着てきたワンピースは、昨年、清彦に『似合わない』と言われ、それ以来袖を通していなかった。
珍しく奮発して買った、ブランド物のワンピースは、胸が大きく開いていて露出が大きい。
清彦の視線を意識しながら近付く。
「お弁当を持って来たんだよ」
サイドテーブルにお弁当袋を置くと、ショウガとニンニクの匂いが漂ってきた。
「今日のお昼ご飯、交換してあげようか?」
食事制限は無いけど、毎食病院から出されるものしか食べていないから、飽きているはずだ。
じっとこっちを見つめている。
その瞳を観察すれば、清彦の考えてることなんて手に取るように分かる。
でも、今日は心を鬼にして、気付かないふりをする。
「いつもと同じ方が安心かな?私が持って来たのを食べるね。一緒に食べていい?」
清彦の目が揺れている。
なにか言いたいに違いない。
主張して……!
無理な負荷を掛けるつもりはないけど、このくらいのコミュニケーションを促すのを悪いこととは思わない。
「さ、リハビリの時間だね、移動しよっか」
そう言って、手を差し伸べる。
もう一人で歩けるのだから、これは特にする必要のないスキンシップだけど、私の方がやめたくないの。
なのに清彦は私の手を取らず、立ち上がった。
……拗ねた?
清彦はおもむろに私の鞄から、さっきしまったカーディガンを出すと私に差し出した。
「着ろってこと?」
受け取らないで聞く。
清彦は私の肩にカーディガンを掛けると、私と手を繋いで歩き出した。
彼に感情はある。
私には分かる。
ただ、表現が出来ないだけ。
言葉も残っている。
言いたいことがあるはずだ。
それを引き出してあげるきっかけを……
汗を流しながらトレーニング機器を使う様子は、病院のリハビリ風景に似つかわしくない。
退院はきっと清彦の回復のいいきっかけになるはずだ。
日常生活の刺激から導き出せる感情がたくさんあるはず。
次あった時、おじちゃんとおばちゃんに、そう言ってみよう。
そして『私も一緒に住まわせてください』ってお願いしよう。
ずっと近くにいたい。
一時も離れたくない。
そんな気持ちが膨らんできて、自分でもどうしようもないんだ。
トレーニングを終えた、清彦にタオルを渡して、散歩に誘った。
「ねえ、お昼までまだ時間あるから、外歩かない?」
病院の前には大きな公園があって、大きな木がたくさん茂っている。
日陰を縫うように、清彦と手を繋いで歩いた。
併設されているテニスコートやサッカー場から、選手の掛け声や声援が聞こえてきた。
「ねえ、喉乾かない?」
自動販売機の前で立ち止まる。
「どれにする?」
小銭を入れた状態で、清彦の反応を待った。
時間はかかったけど、清彦はレモン入りの炭酸水を選んでボタンを押した。
……分かってたけど。
予想が当たったのが可笑しくて、笑いそうになってしまった。
私も同じのを買って、テニスコートが見えるベンチに腰掛けた。
「私ね、仕事辞めることにしたの」
そろそろ言っておいた方がよさそうかな、と思ったのと、清彦の反応が知りたかった。
ペットボトルから口を離して、清彦がゆっくりとこっちを見た。
あ……動揺してる。
「言っておくけど、清彦の入院とは関係ないから……あ、いや、無関係じゃないか」
きっと情報処理が大変だから、話すときは要点をまとめて丁寧にって心がけてたのに、ついペラペラと早口になってしまった。
一旦黙って仕切り直す。
「私、清彦とずっと一緒にいたいの。いい?」
「……」
「いいかな?」
清彦の頬に手を当てた。
僅かに首が縦に振れた。
「ありがとう」
清彦に体を寄せ、両手で彼の右耳を覆う。
手元に口を近付け、囁いた。
「キスしていい?」
固まったように動かない。
両手で顔を挟んでこっちに向けた。
そのまま顔を近付けて、そっと唇を当てる。
「怒ってる?」
目が斜め上に行ったきり戻ってこない。
「ごめんね」
「……」
清彦が立ち上がり、私の手を引いて歩き出した。
「そっか、そろそろお昼の時間だから戻らないとだよね」
やり過ぎたかな。
きっと困ってるよね。
でも……反省も後悔も、帰ってからにしよう。
今日は清彦の感情を揺らしに来たんだ。
その点に置いて、これまでのところは順調だ。
「良い匂いだね」
病棟中に、うっすらとお出しの香りが漂っている。
ベッドに座り、清彦と向き合って、テーブルをシェアする。
私がサンドイッチに手をつけると、清彦がじっと見ていた。
「ん?」
首を傾げる。
分かってる。
こっちがいいんでしょ?
清彦はゆっくりと箸を持つと、私の唐揚げを勝手に食べた。
「こら!交換するならちゃんと言って」
くすくすと笑いが込み上げてくる。
目を合わさず、もぐもぐと食べている姿が可愛くて。
サンドイッチを手渡す。
「交換する?」
途端に目が合って、小さく頷いてくれた。
良かった。もう充分。
私は欲張りだから、つい『もっと』と思ってしまう。
やり過ぎは禁物だ。
食べたら帰ろうと思っていた。
「……あ」
久しぶりに聞く声に心が震えた。
何か言おうとした?
聞き間違いかも知れないと、自分を落ち着かせる。
清彦は真っ直ぐ私を見ていた。
「あ……こ……」
私は泣き崩れた。




