37,☆私の欲を隠さない
ビルの崩落事故からもうすぐ2ヵ月。
清彦の様子に劇的な変化は見られない。
私は会社に頼んでシフトを午後からの遅番のみにしてもらっている。
午前中は清彦と病院で過ごして、その足で職場に向かう。
「亜子せんぱ~い!助けてぇ」
香保里ちゃん?珍しい。
「どうしたの?」
「今年の新人ちゃん、まーちゃんより酷いんです」
「へ?」
「私の言うこと、ちっとも聞いてくれないんです!」
まーちゃんの抜けた人員補充に、新卒の10代の子が配属されてきた。
私が不在がちだから、教育係は香保里ちゃんにお願いしている。
新人ちゃんは……と……見回すと、この夏に向けた新商品のディスプレイをいじっている。
「あ!それは!」
本社の指示で、新商品は目立つところに配置するように言われている。
「だってぇ。明日から6月ですよ?まだ梅雨に入っても無いのに、日焼け対策なんて売れませんよ!ここは絶対に、春の新色を置くべきです!」
この子の言うことも分かる。
毎年、6月は売上が落ちる。
本社が宣伝したい夏の商品は、実際に店頭に足を運ばれるお客様の『今欲しい』商品とは一致していないんじゃないかと、私も薄々思っていた。
「やってみようか」
「え?亜子先輩、本気ですか?」
香保里ちゃんが驚くのも仕方がない。
私は一度だって本社の指示に従わなかったことはないのだから。
「責任は私がとるよ。もし、これで売上がよければ、正式に本社に物申せるしね。やってみよ?」
先日変えたばかりのディスプレイを元に戻す。
「亜子先輩……」
不安そうな香保里ちゃんには説明しておかなくちゃならない。
「私ね、ここ辞めようと思ってるの」
「えっ!」
「ここのところずっと考えてたんだけど、清彦にあんなことがあって、彼は他の人との意思疎通が難しくなって、リハビリとか頑張ってるんだけど……『良くも悪くも安定しているから』って退院の話しが出てるの」
それは先週、おじちゃんとおばちゃんが私に話してくれたことだった。
「実家に戻るんだけど、そうなるとリハビリに通うのも時間がかかるし、自宅でも自主的に運動をするよう求められるんだけど、どうやら私以外の人には清彦の考えてることが分からないらしくてね……」
「そんなに大変なんですね」
「違うの。大変だからじゃないの。ただ、私がもっと一緒にいたいだけ。できればずっと」
首の後ろまで熱くなってきた。
後輩にこんな惚気話聞かせて……おかしいよね……
「そうですか。なら、引き留められませんね」
香保里ちゃんが泣きそうな顔で笑ってくれた。
静かなワンルームマンションに戻り、電気をつけずにベッドに仰向けになる。
おじちゃんとおばちゃんと話した、もう一つのこと……大事なこと……
『亜子ちゃん、家に来ない?』
昔から清彦の両親には気に入られていたし、私だって、同じ屋根の下に清彦と住めるならそうしたい。
特に、今の状況では、私の助けが清彦にも必要とされてるだろうし。
だけど……本人に頼まれたわけじゃないのに、そこまでしゃしゃり出るのはなんか違う気もして……返事を迷っている。
仕事はどうせ辞めようと思ってたから、ここから清彦の家に通えばいいや、くらいにしか考えてなかった。
収入が無くなるんだから、家賃はどうやって払うのかとか、現実的な問題はあまり見えてなかったという自分の甘さも痛感している。
清彦の退院も、私の退職も、まだ具体的な日程は定まっていない。
だけどこの夏、次の私たちの誕生日、8月にはいろんな事が決まって動いているんだろうな。
コンコン
ノックをして扉を開けると、清彦はいつもベッドに腰掛けて、私を出迎えてくれる。
人には『無表情』に見えるらしいのだけど、私には『ワクワクしてる』ようにしか見えない。
リハビリに行くのがそんなに楽しみなんだね。
「いったい何時からああして待ってるの?」
質問をしても返事はないのだけど、私は思ったことを何でも口にするようにしている。
出来る限り丁寧に、ゆっくりと。
「今日はトレーニングジムの機械を使うんでしょ?好きだもんね、腹筋とか、腕立てとか」
楽しみ過ぎるんだろうな。私と握っている手に力が入っている。
「そんなに強く握ったら私が痛いでしょ?」
繋いでいる手を持ち上げてペチペチと叩く。
『あ、まずい』みたいな、一瞬、目を泳がせてから力を抜いてくれた。
「これのどこが分かりにくいんだろうね?私には清彦の考えてることが手に取るように分かってしまうよ?」
いたずらをしかけてみる。
「私に会えて嬉しいんでしょ?」
手に力が入った。
「ずっと一緒にいたい?」
もっと力が入った。
「これ以上握られると手が折れちゃうよ」
力が抜けた。
「ずっと一緒にいたかったら……亜子って……呼んで?」
私は清彦にストレスをかけないように過ごしてきたから、こうしたお願いをした事はない。
やりたくても出来ないであろう清彦にプレッシャーをかけるつもりはないけど、でも、ほんの少し自分の欲求を口にしてしまった。
「待つよ。いくらでも待つから」
トレーニングルームで清彦の手を放し、私は彼のたくましい肉体にいつも通り見惚れた。




