36,★心が通じる喜び
背中がベッドにへばり付いたようだ。
重たくて微動だにできない。
かろうじて瞼を開ける。
人気を感じて目だけ動かし、そちらを見た。
見慣れた美しい女性が、泣きながらガラスを叩いていた。
「あ・い・し・て・る」
嗚呼。先に言われてしまった。
俺もだよ……
マスクをした人達が何人もやって来て騒がしくなった。
俺はまた眠気に負け、深い闇に落ちて行った。
女性の泣き声で目が覚めた。
「清彦……よかった……本当に……」
「母さん、もう泣き止むんだ。これからは順調に回復していくよ」
男性が俺の足を擦るのが分かった。
見覚えはある。
知っている二人だが……
「目が覚めたわ!お医者様を呼ばなくちゃ!」
女性が立ち上がり、パタパタと去って行った。
「大丈夫か?清彦、ここがどこか分かるか?」
男性が目に涙を溜め、俺を見つめている。
ここは……
何かを口にしようとすると、頭に靄がかかり、不快な気分になる。
考えるのを止めると、霧は晴れるが……
果たして俺は今、何をしようとしたんだろうか。
もう眠くはないが、体は相変わらず重く、身動きが取れない。
「清彦!」
この声を聞くといつも少し体温が上がる。
「亜子ちゃん、よく来てくれたね」
「おじちゃん!清彦は?大丈夫なんでしょ?」
顔を覗き込まれ、その愛くるしい顔を触りたいと思ってしまう。
力をふり絞って左手を布団から出す。
すぐさま手を握り返してくれた。
えっと……名は……
呼びかけようとすると、頭の中が混乱し、言葉にならない。
「無理しないでね。一緒にリハビリしていこうね」
何回か寝て起きたが、ここはいつも同じだから時がどれくらい流れたのか分からない。
まあ、考えても分かりそうもない。
俺は考えるのが苦手になった。
「軽度の高次脳機能障害でしょう。記憶障害の一種です」
白衣を着たメガネの男が話している。
「治るんでしょうか?清彦は……」
この中年の女性はいつも泣いている。
「回復の見込みはあります。ご家族の協力なしでは成しえません。根気強く頑張っていきましょう」
俺は言葉を出せなくなり、同時に感情も表に出なくなっている。
この女性は常に、俺に『分かる?』『聞こえてる?』と尋ねてくるが、ちゃんと聞こえてるし分かっている。
「おばちゃん、清彦は全部分かってますよ」
そう言って、朗らかな笑みを浮かべる女性の方が俺を理解してくれている。
「ね?おばちゃんのことも私のことも分かるよね?」
俺は真っ直ぐ目を見て『そうだ』と伝えた。
「ほらね?おばちゃん、清彦は『うん』って言ってるよ」
首を傾げている中年の男女には伝わらないのはもどかしいが、俺はこの美しい女性と心が通じているのが何よりも嬉しかった。
「さ、リハビリの時間だ連れて行こう」
力強い手つきで俺を立たせ、車椅子に座らされた。
「あんなに体を動かすのが好きだったのになぁ。すっかりものぐさになっちゃったなぁ」
「え?おじさん、そんなことないですよ。清彦はリハビリに行くとき嬉しそうですよ?」
「どこがだ?」と、立ち止まって俺の顔を見た男性は、
「面倒臭そうな顔にしか見えないが?」と言って笑った。
そんなはずないだろ。俺はこれから行くところを心待ちにしてるんだから。
幸い体への外傷は少なく、歩行や運動に痛みは伴わない。
が、どうにもゆっくりにしか動作が出来ず歯がゆい。
「真壁さん、いい調子ですよ、頑張りましょう、あと一歩」
大勢の大人に見守られながら、ただ歩くだけというのは恥ずかしいというか……情けないというか……
「よく頑張りましたね。今日はこの辺にしておきましょう」
え?もう?まだ5往復しかしていない。
『まだやれる』と言いたいが、口にしようとすると言葉が離散してしまう。
まるで、手の平に握りしめた砂を水中で揺らすみたいに、サラサラとこぼれ落ちてどこかにいってしまうようだった。
「もう少し追加してもらえませんか?」
愛する女性が俺を代弁してくれる。
「あまり無理はなさらない方が……」
「無理じゃないです。『物足りない』って顔をしてるんで、もっとやらせてあげて欲しいんです」
そうだ。もっと言え。
「そうですか?」
「そうです!じゃ、止めたかったらこのまま車椅子に座ろう?続けたかったら、その場で踏ん張って立ってるんだよ?分かった?」
そう言って、女性は車椅子を俺の背後に持って来た。
バーを握る手に力を込める。
座ってたまるか。
「ありゃ……本当だ。やる気があるのは良いことですね。では、本人が『もういい』と言うまで続けましょう」
やった!
「なんだかんだで2時間も歩きっぱなしだよ?さすがに疲れたんじゃない?」
まさに。さすがに疲れた。
「おじちゃんも、おばちゃんも帰っちゃったから二人で甘いものでも食べに行かない?」
それはいい提案だ。病院食には飽き飽きしている。
いい匂いが漂う、人の多いところへ連れて来られた。
「クリームあんみつか、チョコレートサンデー……どっちがいいかな?」
メニューを指さしながら俺を覗き込む目に『チョコレートサンデー』と念ずる。
「おっけ。買って来るから待っててね」
数分後、俺の前にはチョコレートサンデーが置かれ、女性はコーラフロートを持って来た。
チョコレートアイスを食っていると、女性にストローを差し出された。
「おばちゃん達には内緒だよ?」
そう言って笑っている。
俺はストローに口を付け、甘くスパイシーな炭酸を思いっきり吸い込んだ。
「ちょっと!全部飲まないでよ!」
やめられなくて飲み続ける。
「もう!アイスだけになっちゃったじゃん!」
楽しそうに笑っている。
もちろん俺だって楽しい。
早くこの気持ちを分かち合いたい。




