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3/10

魚の絵

 古い坑道の中に、しずくが滴る音だけがやけに大きく響いていた。

 さっきまでの金貨を見つけて大はしゃぎしていた空気は、どこかへ完全に吹き飛んじゃった。


 ランタンの青白い光に照らされているのは、メアリーが広げた大きな青い図面。

 そこには、妙に不気味な、巨大なクジラか鉄の魚みたいな奇妙な船の絵が、信じられないくらい細かく描き込まれていた。

 

「……潜水艦」

 

 メアリーがその施工用詳細設計図を見つめたまま、声を低くして呟いた。

 手先が器用で機械の構造を瞬時に見抜ける彼女の目が、図面の一角、複雑に絡み合う配管やハッチの絵に釘付けになっている。

 

「ヨットの設計図なんかじゃないわ。これ、海の底を潜って進み、敵の軍艦を影から突き破るための、大英帝国の最新鋭の兵器よ。なんでヴィッカース社の重役宛ての給料馬車に、こんな国家最高機密が混ざっているの……?」

 

「そんなの決まっているわ、メアリー!」

 

 沈黙を破ったのは、ボサボサの黒髪を激しく揺らしたエレーヌだった。

 エレーヌはその情熱的な瞳を飢えた狼みたいにギラギラと輝かせている。

 

「ヴィッカース社はただの造船会社じゃない、国家と寝た資本主義の怪物よ! 海軍省と裏で手を握って、世界を火の海にするための殺人機械をここで密造していたのよ! 」

 

「ちょっとエレーヌ、声が大きいってば。落ち着きなよ」

 

 私は思わず突っ込みを入れちゃった。

 エレーヌのこういう、全権力に対する激しい憎悪と毒舌はいつものことだけど、今はちょっと熱量が狂気じみてる。


 スリルは大好物な私だけど、この図面から漂う「ヤバい空気」には、さすがにアドレナリンよりも先に背筋がゾクゾクしてくる。

 

「静かにしなさい、エレーヌ」

 

 アニーが冷徹に、そしていつもの高圧的な態度で遮った。

 彼女は重たい金庫をさっきまで運んでいたとは思えないほど、息一つ乱さず、沈着冷静に腕を組んでいる。

 

「思想的な興奮は無意味よ。現実を見なさい。私たちは数千ポンドのソブリン金貨を手に入れた。目的は達したわ。こんな紙切れ、私たちの階級闘争には何の役にも立たない」

 

「何の役にも立たない!? アニー、あなた正気!?」

 

 エレーヌが噛みつく。

 

「これは国家の命脈を握るレジスタンスの鍵よ! これを大衆に暴露すれば、大英帝国の軍事支配は崩壊するわ!」

 

「暴露したところで、明日の労働者のパンは増えない。むしろ、国家という巨大な権力が本気で私たちをすり潰しに来るだけよ。この紙切れは、今すぐここに捨てていくべきだわ」

 

 アニーの意見は冷たいくらいに現実的だった。個人的な物欲がない彼女にとって、必要なのは労働者のための現金だけ。国家を挑発するリスクは合理的じゃないってわけ。

 

「私も、アニーの意見に賛成よ」

 

 メアリーが静かに図面を巻き直しながら言った。

 

「信じられるのは、自分の腕と、この確実な現金だけ。理想論で命を落とすなんて、徹底した現実主義者の私にはお断り。エレーヌ、これを持ち出すのは危険すぎるわ。今すぐこの場に置いて、私たちは金貨だけを持ってこのバローから脱出する。それが一番賢い選択よ」

 

「メアリー、あなたまで……! 日和見主義の臆病者め!」

 

 エレーヌが激昂して、坑道の壁を殴りつける。

 うわあ、めちゃくちゃ揉めてるじゃん。


 チームに深い亀裂が入る音がして、私は内心ちょっとだけワクワクしつつも、メアリーとアニーの真剣な表情を見て、さすがに喉の奥がカラカラに乾いていくのを感じていた。

 ただの現金強盗のつもりだったのに、私たちは知らぬ間に、世界を揺るがす特大の爆弾を抱え込んでしまったみたい。

 

「ねえ、みんな、喧嘩してる場合じゃないって……」

 

 私がそう言いかけた、その時だった。

 パチャリ、パチャリ。

 

 暗闇の奥から聞こえてくるその足音は、決して慌てず、凍りつくほど正確な足取りで私たちの方へと近づいてきた。

 

「……誰かいる」

 

 アニーが声を低くして、スパナをいつでも振り下ろせるように構えた。

 沈着冷静な彼女の身体が、かすかに戦闘態勢に入る。


 メアリーもすぐさま広げていた図面を丸めてケースに押し込み、ランタンの遮光板を閉じて光を消した。

 一瞬で、廃坑の中は息が詰まるような漆黒の闇に包まれる。

 

「地元の警察官? それにしては、ちょっと足音が静かすぎる気がするけど……」

 

 私が壁に背中を預けながら小声で突っ込むと、エレーヌが闇の中で鋭く息を呑んだ。

 

「国家の犬どもめ、もう嗅ぎつけてきたのね! 私のリボルバーで、その傲慢な頭をぶち抜いてやるわ!」

 

「静かに、エレーヌ」

 

 メアリーが声を限界まで潜めて窘める。

 足音は三つ、いや四つ。入り口を完全に塞ぐようにして、こちらへ歩いてくる。

 

 おかしい。地元の警察だったら、もっと大声で「おい、そこにいるのは分かっているぞ!」とか「大人しく降伏しろ!」とか、偉そうに怒鳴り散らしてくるはず。

 バローの警察官なんてみんな、ヴィッカース社の金で動くお飾りの役人なんだから。

 

 でも、この足音の主たちは違う。

 一切の無駄な音を立てず、まるで見えない網を狭めていくように、冷酷に、機械的に距離を詰めてくる。


 何より、手元を照らすランタンの光すら点けていない。暗闇に完全に慣れた、本物の「プロ」の動きだ。

 

「そこにいるのは分かっている。」

 

 闇の先から、低く平坦な男の声が響いた。驚くほど抑揚のない、冷たい声。

 

「抵抗は無意味だ。お前たちの命に価値はない。だが、持っている『黒いケース』をこちらに渡せば、苦しまずに死なせてやる」

 

 ……苦しまずに死なせてやる、だって?

 ちょっと待ってよ。警察なら、まず「逮捕する」って言うのが普通じゃん!

 最初から私たちを殺す気満々じゃないの。

 

 それに、あいつら今なんて言った?

 金貨の入った郵便袋じゃなくて、「黒いケース」を渡せって言ったよね?

 

「メアリー、あいつら……金貨じゃなくて、その図面を狙ってる!」

 

 私が驚いて声を上げると同時に、暗闇の中で、パッと小さな火花が弾けた。

 鼓膜が破れるかと思うほどの爆音が坑道に反響し、すぐ横の岩肌が激しく砕け散った。

 

「きゃっ!?」

 

 飛び散った破片が頬をかすめて、私は思わず床に転がった。

 銃声だ。地元の警察が使うような散弾銃じゃない。

 もっと殺傷力の高い、容赦のない軍用の拳銃。

 

「伏せなさい、みんな!」

 

 メアリーが叫ぶ。

 

「やっぱりこの図面、ただごとじゃないわ! 警察なんかじゃない、もっと冷酷で、闇から命を狙ってくる本物の死神よ!」

 

「言われなくても分かっているわ!」

 

 エレーヌが激昂し、ポケットから取り出したリボルバーを、足音がした闇の向こうへ向けてやけくそ気味にぶっ放した。

 乾いた銃声が響くけれど、敵はすでに遮蔽物に身を隠したらしく、手応えはない。

 

 激しい銃撃が、私たちの頭上を容赦なく飛び交う。

 彼らが何者なのか、私たちは誰も知らなかった。

 

 ただ一つだけ確かなのは、あいつらは「機密保持」のために、私たちを全員ここで射殺して、図面を回収するつもりだってこと。

 

「みんな、ここは不利よ! 奥へ走りなさい!」

 

 メアリーがランタンの光を一瞬だけ前方へ投げ、逃げ道を照らし出す。

 

「……癪だけど撤退よ! この国家の走狗どもめ、覚えておきなさい!」

 

 エレーヌが毒舌を吐きながら走り出す。アニーも金貨の袋を力任せに担ぎ直し、冷徹な目で敵の砲火を睨みつけながら、私たちの殿しんがりを務めるようにして後退を始めた。

 

「あははっ、ただの現金強盗が、いつの間にか国家の敵に大出世じゃん!」

 

 私は恐怖をアドレナリンに変えて、大喜びで銃弾を避けながら坑道の奥へと駆け出した。

 さっきまで図面を捨てるか持っていくかで揉めていたけれど、もうそんなのどうでもいい。


 あいつらが必死になって追ってくるなら、何が何でもこの図面は渡してやらない。

 大英帝国の偉い連中の鼻を明かしてやるんだから!

 

 激しい銃撃戦の音を背に受けながら、私たちは生き残るために、霧深いバローの闇へと再び走り出したのだった。

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