魚の絵
古い坑道の中に、しずくが滴る音だけがやけに大きく響いていた。
さっきまでの金貨を見つけて大はしゃぎしていた空気は、どこかへ完全に吹き飛んじゃった。
ランタンの青白い光に照らされているのは、メアリーが広げた大きな青い図面。
そこには、妙に不気味な、巨大なクジラか鉄の魚みたいな奇妙な船の絵が、信じられないくらい細かく描き込まれていた。
「……潜水艦」
メアリーがその施工用詳細設計図を見つめたまま、声を低くして呟いた。
手先が器用で機械の構造を瞬時に見抜ける彼女の目が、図面の一角、複雑に絡み合う配管やハッチの絵に釘付けになっている。
「ヨットの設計図なんかじゃないわ。これ、海の底を潜って進み、敵の軍艦を影から突き破るための、大英帝国の最新鋭の兵器よ。なんでヴィッカース社の重役宛ての給料馬車に、こんな国家最高機密が混ざっているの……?」
「そんなの決まっているわ、メアリー!」
沈黙を破ったのは、ボサボサの黒髪を激しく揺らしたエレーヌだった。
エレーヌはその情熱的な瞳を飢えた狼みたいにギラギラと輝かせている。
「ヴィッカース社はただの造船会社じゃない、国家と寝た資本主義の怪物よ! 海軍省と裏で手を握って、世界を火の海にするための殺人機械をここで密造していたのよ! 」
「ちょっとエレーヌ、声が大きいってば。落ち着きなよ」
私は思わず突っ込みを入れちゃった。
エレーヌのこういう、全権力に対する激しい憎悪と毒舌はいつものことだけど、今はちょっと熱量が狂気じみてる。
スリルは大好物な私だけど、この図面から漂う「ヤバい空気」には、さすがにアドレナリンよりも先に背筋がゾクゾクしてくる。
「静かにしなさい、エレーヌ」
アニーが冷徹に、そしていつもの高圧的な態度で遮った。
彼女は重たい金庫をさっきまで運んでいたとは思えないほど、息一つ乱さず、沈着冷静に腕を組んでいる。
「思想的な興奮は無意味よ。現実を見なさい。私たちは数千ポンドのソブリン金貨を手に入れた。目的は達したわ。こんな紙切れ、私たちの階級闘争には何の役にも立たない」
「何の役にも立たない!? アニー、あなた正気!?」
エレーヌが噛みつく。
「これは国家の命脈を握るレジスタンスの鍵よ! これを大衆に暴露すれば、大英帝国の軍事支配は崩壊するわ!」
「暴露したところで、明日の労働者のパンは増えない。むしろ、国家という巨大な権力が本気で私たちをすり潰しに来るだけよ。この紙切れは、今すぐここに捨てていくべきだわ」
アニーの意見は冷たいくらいに現実的だった。個人的な物欲がない彼女にとって、必要なのは労働者のための現金だけ。国家を挑発するリスクは合理的じゃないってわけ。
「私も、アニーの意見に賛成よ」
メアリーが静かに図面を巻き直しながら言った。
「信じられるのは、自分の腕と、この確実な現金だけ。理想論で命を落とすなんて、徹底した現実主義者の私にはお断り。エレーヌ、これを持ち出すのは危険すぎるわ。今すぐこの場に置いて、私たちは金貨だけを持ってこのバローから脱出する。それが一番賢い選択よ」
「メアリー、あなたまで……! 日和見主義の臆病者め!」
エレーヌが激昂して、坑道の壁を殴りつける。
うわあ、めちゃくちゃ揉めてるじゃん。
チームに深い亀裂が入る音がして、私は内心ちょっとだけワクワクしつつも、メアリーとアニーの真剣な表情を見て、さすがに喉の奥がカラカラに乾いていくのを感じていた。
ただの現金強盗のつもりだったのに、私たちは知らぬ間に、世界を揺るがす特大の爆弾を抱え込んでしまったみたい。
「ねえ、みんな、喧嘩してる場合じゃないって……」
私がそう言いかけた、その時だった。
パチャリ、パチャリ。
暗闇の奥から聞こえてくるその足音は、決して慌てず、凍りつくほど正確な足取りで私たちの方へと近づいてきた。
「……誰かいる」
アニーが声を低くして、スパナをいつでも振り下ろせるように構えた。
沈着冷静な彼女の身体が、かすかに戦闘態勢に入る。
メアリーもすぐさま広げていた図面を丸めてケースに押し込み、ランタンの遮光板を閉じて光を消した。
一瞬で、廃坑の中は息が詰まるような漆黒の闇に包まれる。
「地元の警察官? それにしては、ちょっと足音が静かすぎる気がするけど……」
私が壁に背中を預けながら小声で突っ込むと、エレーヌが闇の中で鋭く息を呑んだ。
「国家の犬どもめ、もう嗅ぎつけてきたのね! 私のリボルバーで、その傲慢な頭をぶち抜いてやるわ!」
「静かに、エレーヌ」
メアリーが声を限界まで潜めて窘める。
足音は三つ、いや四つ。入り口を完全に塞ぐようにして、こちらへ歩いてくる。
おかしい。地元の警察だったら、もっと大声で「おい、そこにいるのは分かっているぞ!」とか「大人しく降伏しろ!」とか、偉そうに怒鳴り散らしてくるはず。
バローの警察官なんてみんな、ヴィッカース社の金で動くお飾りの役人なんだから。
でも、この足音の主たちは違う。
一切の無駄な音を立てず、まるで見えない網を狭めていくように、冷酷に、機械的に距離を詰めてくる。
何より、手元を照らすランタンの光すら点けていない。暗闇に完全に慣れた、本物の「プロ」の動きだ。
「そこにいるのは分かっている。」
闇の先から、低く平坦な男の声が響いた。驚くほど抑揚のない、冷たい声。
「抵抗は無意味だ。お前たちの命に価値はない。だが、持っている『黒いケース』をこちらに渡せば、苦しまずに死なせてやる」
……苦しまずに死なせてやる、だって?
ちょっと待ってよ。警察なら、まず「逮捕する」って言うのが普通じゃん!
最初から私たちを殺す気満々じゃないの。
それに、あいつら今なんて言った?
金貨の入った郵便袋じゃなくて、「黒いケース」を渡せって言ったよね?
「メアリー、あいつら……金貨じゃなくて、その図面を狙ってる!」
私が驚いて声を上げると同時に、暗闇の中で、パッと小さな火花が弾けた。
鼓膜が破れるかと思うほどの爆音が坑道に反響し、すぐ横の岩肌が激しく砕け散った。
「きゃっ!?」
飛び散った破片が頬をかすめて、私は思わず床に転がった。
銃声だ。地元の警察が使うような散弾銃じゃない。
もっと殺傷力の高い、容赦のない軍用の拳銃。
「伏せなさい、みんな!」
メアリーが叫ぶ。
「やっぱりこの図面、ただごとじゃないわ! 警察なんかじゃない、もっと冷酷で、闇から命を狙ってくる本物の死神よ!」
「言われなくても分かっているわ!」
エレーヌが激昂し、ポケットから取り出したリボルバーを、足音がした闇の向こうへ向けてやけくそ気味にぶっ放した。
乾いた銃声が響くけれど、敵はすでに遮蔽物に身を隠したらしく、手応えはない。
激しい銃撃が、私たちの頭上を容赦なく飛び交う。
彼らが何者なのか、私たちは誰も知らなかった。
ただ一つだけ確かなのは、あいつらは「機密保持」のために、私たちを全員ここで射殺して、図面を回収するつもりだってこと。
「みんな、ここは不利よ! 奥へ走りなさい!」
メアリーがランタンの光を一瞬だけ前方へ投げ、逃げ道を照らし出す。
「……癪だけど撤退よ! この国家の走狗どもめ、覚えておきなさい!」
エレーヌが毒舌を吐きながら走り出す。アニーも金貨の袋を力任せに担ぎ直し、冷徹な目で敵の砲火を睨みつけながら、私たちの殿を務めるようにして後退を始めた。
「あははっ、ただの現金強盗が、いつの間にか国家の敵に大出世じゃん!」
私は恐怖をアドレナリンに変えて、大喜びで銃弾を避けながら坑道の奥へと駆け出した。
さっきまで図面を捨てるか持っていくかで揉めていたけれど、もうそんなのどうでもいい。
あいつらが必死になって追ってくるなら、何が何でもこの図面は渡してやらない。
大英帝国の偉い連中の鼻を明かしてやるんだから!
激しい銃撃戦の音を背に受けながら、私たちは生き残るために、霧深いバローの闇へと再び走り出したのだった。




