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ミス・ディオール  作者: はまゆう


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9/12

第9話 1944年冬—1945年春—生き延びること

## 上


冬。

レーゲンスブリュック収容所の冬は、地獄の最深部だった。


十一月。十二月。一月。

気温は、マイナスに達した。バラックの内部でさえ、息が白くなった。毛布一枚では、何の意味もない。

カトリーヌの体から、肉が落ちた。

最初の数ヶ月で、彼女は体重の三分の一を失った。もはや、かつての二十四歳の娘の姿は、消え去っていた。

皮と骨。それだけが、彼女の体を構成していた。

指の爪は、黒ずんでいた。毛は、すべて失われた。誰もが、同じような禿げた頭をしていた。


病気が蔓延していた。

チフス。その病気は、シラミによって媒介された。

バラックの中で、誰もがシラミを持っていた。かゆみ。皮膚の破裂。二次感染。

その症状から、チフスへの進行は、短かった。

チフスに罹った女性は、高熱に包まれた。一日中、うめき声を上げた。その後、医務室へ連れていかれた。


医務室の正体が、何であるのか。囚人たちは、推測していた。

ユダヤ人女性。囚人医師。彼女が医務室の様子について、何か漏らしたことがあった。

「They do experiments」

実験をしている。

その一言だけで、医務室の恐ろしさが、明白になった。

医学実験。強制不妊手術。

その医務室へ行った女性の大多数は、帰ってこなかった。


カトリーヌは、毎日、チフスに罹らぬようにと祈った。

シラミをなるべく減らすために、彼女は、自分の頭を、何度も何度も、冷たい水で洗った。

その冷たさで、何度も気を失いそうになった。だが、生き残ることが最優先。

その一念で、彼女は、耐えた。


一月。

配給の食料が、さらに減った。

パンの切れ端。スープ。それだけ。

スープの栄養価は、ほぼゼロだった。お湯に塩とキャベツの芯を煮込んだもの。カロリーで言えば、生存に必要な量の五分の一。


兵器工場での労働は、続いた。

カトリーヌは、飢えた状態で、一日十時間、立ったままで、部品を組み付けた。

その精密さは、失われていなかった。むしろ、飢えと疲労が、彼女の身体から、余分な動きをすべて奪った。

その結果が、より精密な動作を生み出していた。

看守たちは、その精密性に注目していた。


ある日、高位の士官が、工場を巡視に来た。

彼は、カトリーヌの仕事を見た。

「Ausgezeichnet」

優秀だ。

その一言が、彼女の人生を、ある意味で変えた。

それ以後、彼女は、より安全な仕事を割り当てられた。

工場内の別の部門。より暖かい場所。より良い食料配給。

それは、彼女の精密性が、ドイツ軍にとって、価値のあることを示していた。

彼女は、利用可能な資源だった。

その認識が、彼女の生存確率を、わずかに上げた。



## 中


二月。雪が降った。

レーゲンスブリュックの冬は、東欧の冬。その厳しさは、パリの比ではなかった。

マリアの健康が、悪化していた。

彼女は、二年間この収容所にいた。その間、彼女は、強い女として、他の囚人たちから尊敬されていた。

だが、その強さも、限界に達していた。

咳。高熱。明らかにチフスの兆候。

カトリーヌは、マリアを見て、何か内部深く何かが折れるのを感じた。

マリアは、初日から、彼女に親切にしてくれた者だ。わずかなパンをくれた者だ。

「You must go to the medical」

医務室に行かなければならない。

カトリーヌは、その言葉を発した。

だが、その言葉の意味は、二人とも知っていた。

医務室に行くことは、死を意味する。

「No」

マリアは、首を振った。

「I will die here. Not in that place」

ここで死ぬ。あの場所ではなく。

カトリーヌは、マリアの手を握った。

それは、囚人同士の禁止された行為だった。看守に見つかれば、懲罰される。

だが、彼女は、その禁止を犯した。

「Thank you」

マリアは、その手を握り返した。

「For everything」

その言葉の後、マリアは、彼女に、最後のプレゼントをくれた。

隠し持っていたわずかなチーズ。どうやって手に入れたのか、カトリーヌは知らない。

「Eat this」

これを食べろ。

「You must live」

あなたは生きるのよ。

三月初旬。マリアは、死んだ。

バラックの中で。看守に強制されることなく。自分で決めた時刻に。

彼女は、朝、起きなかった。

カトリーヌは、その前夜、マリアが彼女の手を握って、何か言葉を囁くのを聞いた。

フランス語ではなく、ポーランド語。その言葉の意味は、わからなかった。

だが、その決別の言葉だということは、わかった。

マリアの死体は、その日の午後、運び去られた。

他の死体たちと一緒に。

その後、彼女が存在していたという痕跡は、何も残されなかった。

カトリーヌは、マリアが握ってくれた、最後の手を、心の中で握り続けた。


-----


## 下


春が来た。


四月。

ポーランドの春。レーゲンスブリュック周辺の春。

気温が上がった。雪が解けた。

だが、その春は、解放をもたらさなかった。

むしろ、春は、新しい危機をもたらした。


ロシア軍。

連合国軍の東部地域での急速な進軍。ドイツ軍の衰退。

ドイツ軍は、その領土を次々と失っていた。

そしてレーゲンスブリュックは、その撤退ルートの直線上にあった。


収容所内の雰囲気が、変わった。

看守たちの行動が、より暴力的になった。あるいは、より混乱していた。

囚人たちの動向について、新しい指示が出た。

「Evacuation」

移送。

それは、死を意味していた。

ロシア軍が近づくにつれ、ドイツ軍は、証拠隠滅のために、囚人たちを他の場所へ移送することを計画していた。

或いは、単純に処理することを。


カトリーヌは、その危機を察知していた。

彼女は、今、工場での仕事で価値を認められていた。その価値が、彼女を生き残らせていた。

だが、移送が始まれば、その価値さえ、意味をなさなくなる。


四月中旬。

カトリーヌは、初めて、収容所の外へ連れていかれた。

埋葬の手伝い。

死んだ囚人たちの遺体を、大きな穴に埋める仕事。

その穴は、かなり大きかった。何百体もの遺体が、その中に詰め込まれていた。

カトリーヌは、その光景を見て、自分がどの程度、死に近いのかを、完全に理解した。

この穴。この集団的な埋葬。

それは、彼女自身の死のリハーサルだった。


四月二十日。

その夜、収容所内に、混乱が生じた。

看守たちが、秩序なく、移動を始めた。武器を持った兵士たちが、到着した。

ロシア軍が、近づいている。その報告だった。


ドイツ軍は、決定を下した。

残りの囚人たちを、別の場所へ移送する。北へ。スウェーデンへ。あるいは、単に死に向かう行進へ。

その明確な指示は、与えられなかった。

ただ、移送。それだけだった。

カトリーヌは、その列に加えられた。

彼女は、今、工場での価値を持つ者として、選別されていた。

移送される者と、留め置かれる者。

その選別の意味は、誰もが知っていた。

留め置かれた者は、ドイツ軍によって処理されるだろう。

移送される者は、生き残る可能性を持つだろう。

カトリーヌは、移送の列に加えられたことで、ある種の幸運を得ていた。


-----


## エピローグ—生存の最終段階


四月。

レーゲンスブリュック収容所の最終段階。

約十八ヶ月。カトリーヌは、そこで生き残った。

2,457人の移送囚人の中で、彼女は生き残った者の一人だった。

だが、その生き残りは、決して安全ではなかった。

移送。行進。飢え。疾病。

その続きがあった。

スウェーデン領事の赤十字による救済活動が、後に始まるはずだったが、その時点では、彼女はそれを知らなかった。


ただ、彼女が知っていたのは、一つのことだけ。

自分は生きている。

マリアは死んだ。何千人もの女たちが死んだ。

だが、自分は生きている。

その事実だけが、彼女の心を支えていた。

春の風。ポーランドの草原。その向こうに、何があるのか。

カトリーヌは、知ることはできなかった。


ただ、生き続けることだけが、彼女の務めだった。

パリはどうなったのか。クリスチャンはどうしているのか。

その思いは、時々、彼女の頭をよぎった。

だが、その思いは、現在という時間を奪った。

現在。この瞬間。

生きること。それだけが、すべてだった。


四月末。

ドイツ軍の秩序が、完全に失われ始めていた。

ロシア軍の脅威。占領軍の撤退。

その混乱の中で、多くの囚人たちが、逃げた。

カトリーヌも、その逃亡者たちの中の一人になる選択ができたかもしれない。

だが、彼女は、移送の列に留まることを選んだ。

理由は、シンプルだった。

見知らぬ土地での逃亡よりも、ドイツ軍の管理下での移送の方が、生き残る確率が高いと、彼女は計算していた。

その計算が、正しかったのか、誤っていたのか。

それは、その後の人生が証明することになるはずだった。


五月初旬。

ドイツ軍は、降伏した。

パリの遠い東で、その降伏の報は、しばしの遅延をもって、伝わった。

戦争が終わった。


だが、カトリーヌにとって、その終わりは、生存の終わりを意味するのではなく、生存の継続を意味するものだった。

彼女の苦難は、まだ終わっていなかった。

だが、その時点で、彼女は、何かを確実に知っていた。


自分は生き残る。

その確信が、彼女を、最後の行進へ向かわせた。

スウェーデンへ。赤十字の保護下へ。そして、パリへ。


その道のり、彼女は、生き続けた。


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