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ミス・ディオール  作者: はまゆう


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第6話 1944年8月15日—パンタン駅

## 上


八月十五日。聖母昇天祭。


フランスの祝日。宗教的な重要性を持つ日。通常なら、パリは祝賀に包まれていただろう。だが、この年の八月十五日は、違っていた。


午後。じりじりと照りつける夏の太陽が、パリの上空から少しずつ傾き始めていた。その時、パンタン駅では、何か異常なことが起ころうとしていた。


駅舎の奥。民間の目には見えない領域。そこへ、貨物列車が着いていた。


灰色。さび付いた鉄。窓のない車両。それが、何十両も連結されている。


兵士たちが、周囲を警戒していた。ドイツ軍。占領軍の兵士たち。その表情には、何か急いでいるという気配があった。


時間がない。それが、彼らの行動から伝わってきた。


午後三時。


刑務所から、バスが到着した。複数のバス。その中には、人間が詰め込まれていた。


男たちと女たち。若い者と老いた者。職業不詳。身分不詳。ただ、一つ共通していることは、彼らすべてがレジスタンス容疑で逮捕されたということ。そして、今、その容疑のまま、ドイツへ移送されようとしているということ。


カトリーヌは、そのバスの中の一人だった。


彼女は、足を引きずっていた。獄中での拷問のせい。だが、それでも、自分で歩いた。兵士に支えられることなく。自分の脚で立ち、階段を上り、貨物車へと乗り込んだ。


貨物車の中は、地獄だった。


見た瞬間に、それが理解できた。


身動きできないほどの人間たち。男も女も。老人も若者も。すべてが、詰め込まれている。一つの体として。一つの集団として。個人ではなく。


カトリーヌは、人間の塊の中に、押し込まれた。


その時の触覚を、彼女は永遠に忘れることはなかった。


他の人間の肉体。他の人間の汗。他の人間の絶望。すべてが、彼女の肌に触れた。


覚き窓が一つあるきりだ。そこから、わずかな光と空気が入ってくる。だが、その光さえも、すべての囚人に届くには不十分だった。


カトリーヌは、列車の側面近くの位置にいた。だから、わずかに、光を感じることができた。だが、その光は、彼女の絶望をより強調するだけだった。


外の世界がある。光がある。空気がある。だが、自分たちは、ここにいる。


その時点で、すべてが終わったのだと、彼女は理解した。


列車が動き出すまで、あと数分。


その数分の間に、何かが起こるはずだと、囚人たちの一部は祈っていた。


レジスタンスが列車を止める。爆弾を仕掛ける。何か、奇跡が。


だが、奇跡は起こらなかった。


列車は、確実に、動き始めた。


最初はゆっくり。その次に、速度が上がった。


パンタン駅を、後にしていった。


-----


## 中


パリの駅周辺。市民たちが、その光景を見ていた。


何かが起こっている。駅の方向から、異常な喧騒が聞こえた。


兵士の声。命令。銃声。そして、人間の声。


多くの人間の声。それが、一つの音になって、パリの夏空へと響いていた。


「何が起こっているんだ」


市民たちは、互いに聞いた。だが、誰も答えられなかった。


警察が、駅への接近を禁止していた。民間人は近づけない。だから、直接は見えない。だが、音は聞こえた。


人間の音。それが何を意味するのか、パリ市民たちは、直感で理解していた。


何か悪いことが起こっている。


占領軍が、何かをしている。


その時点で、パリは、解放への期待に満ちていた。ノルマンディーからの連合国軍の北上。ドイツ軍の撤退計画。パリ解放まで、あと数日。その期待が、街全体を包んでいた。


だが、その同時に、占領軍は、その最後の権力を、力ずくで示そうとしていた。


大量の逮捕。大量の移送。ドイツへの強制送出。


それは、支配の最終段階における、占領軍からのメッセージだった。


「お前たちは、俺たちの支配の下にある。解放されるまで、その支配は続く。そして、解放される者は限られている」


そういうメッセージ。


駅から、汽笛の音が聞こえた。列車が動いている。


その音を聞いた市民たちの中には、その列車の中に、愛する者が乗っているかもしれないと思った者たちがいた。


夫。子ども。兄弟。恋人。友人。


その誰かが、今、その列車の中にいるかもしれない。


だが、彼らは何もできなかった。警察が立ちはだかっている。兵士たちが銃を構えている。


ただ、聞くことだけができた。


その音。その喧騒。その絶望。


-----


## 下


貨物列車の内部。


カトリーヌの周囲では、何が起こっていたのか。


最初は、パニック。人間たちが、出口を探そうとした。だが、出口はなかった。覚き窓一つ。施錠された戸。それだけ。


次に、絶望。誰かが泣いた。その泣き声が、他の者たちの泣き声を誘発した。


その次に、何か別のもの。決意のようなもの。


男の一人が、歌い始めた。


「Allons enfants de la Patrie,

Le jour de gloire est arrivé!」


『ラ・マルセイエーズ』。フランス国歌。


その声が、列車の中に響き渡った。


最初は、その男の声だけだった。だが、次々と、他の声が加わった。


女たち。老人たち。若者たち。


すべてが、同じ歌を、唱和するようになった。


カトリーヌも、唱った。


彼女の声は、小さかった。拷問で痛めつけられた喉から、かすれた音が出ていた。だが、それでも、彼女は唱った。


『ラ・マルセイエーズ』。


祖国への讃歌。解放への希望。現在への抵抗。


その歌が、列車の中を満たしていった。


「Contre nous de la tyrannie,

L’étendard sanglant est levé!」


暴君に対して。血に染まった旗に対して。


外からは、その歌が聞こえていた。


駅周辺の市民たちは、その声を聞いた。


列車の中から聞こえてくる『ラ・マルセイエーズ』。


その声を聞いて、多くの人間が、涙を流した。


あの列車は、何なのか。あの人間たちは、何をしているのか。


歌っている。祖国のために。解放のために。


この時代に、この状況に、彼らは歌っている。


その事実が、パリ市民たちに、何かを伝えていた。


占領はまだ終わっていない。だが、その時代は終わろうとしている。


そして、その終わりに際して、人間たちは、歌う。


希望を失わずに。


列車の速度が、上がった。


歌い続ける囚人たち。列車は、北へ向かっていた。ドイツへ。


パリから遠ざかっていった。


その列車の中には、2,457人の人間がいた。


その中の一人が、カトリーヌ・ディオール。24歳。


彼女は、歌いながら、何を考えていたのか。


それは、誰にもわからない。


ただ、彼女が生きていたこと。歌っていたこと。それだけが、歴史の記録に残った。


列車は、夏の夕方、パリを後にした。


聖母昇天祭の祝日。


その祝日に、2,457人の囚人たちは、祖国を後にした。


その数日後に、パリは解放されるはずだった。


だが、彼らは、その解放を知ることなく、列車の中にいた。


その列車は、西方の夕焼けに向かっていた。


ドイツへ。未知へ。


そして、多くの者にとっては、死へ向かっていた。


-----


## エピローグ—目撃者


その列車を見た者がいた。


パリ郊外の路線沿いで。農夫。女性。子ども。


列車が通過する時、その窓から、人間の顔が見えた。


多くの顔。すべてが、苦しそうな表情。


その列車が、何を運んでいるのか、彼らは直感で理解していた。


戦争の最終段階。占領軍の最後の仕業。


その列車を目撃した者たちの多くは、その後、その記憶を生涯持ち続けることになった。


八月十五日。聖母昇天祭。


夏の夕焼け。


貨物列車。


そして、祖国を離れる2,457人の人間たち。


その情景が、彼らの心に、永遠に刻み込まれた。


-----


## クリスチャンのその後


パリでは、その日、何も知られていなかった。


あるいは、知られていても、それは、限られた情報だった。


クリスチャンは、その日、メゾン・ディオール設立の契約書にサインした。


戦争が終わる準備。新しい時代が来る準備。


妹がドイツへ移送されたということは、彼はすでに知っていた。だが、その日付が、この日であることは、知らなかった。


あるいは、知りたくなかった。


妹がドイツへ行った。それ以上は、考えない。


妹は生き延びるだろう。占い師の言葉を信じて。


その信頼が、彼を支えた。


クリスチャンは、ペンを持ち、契約書にサインした。


その瞬間、妹は、列車の中で、『ラ・マルセイエーズ』を唱っていた。


知ることなく。接することなく。


兄妹の時間は、完全に分岐していた。



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