第5話 1944年6月—逮捕
## 上
六月初旬。パリの空気が変わっていた。
何かが起こる。すべてが、それを感じていた。
ノルマンディーから北上する連合国軍。ドイツ軍の撤退。占領軍の焦燥感。
カトリーヌは、その変化を、身体で感じていた。
毎日、ドイツ軍の検問が増加した。兵士たちの表情が、より厳しくなった。何かが壊れようとしている。帝国が。秩序が。一つの時代が。
その混乱の中で、カトリーヌは、最後の任務を受けた。
六月上旬。マルクからの伝言。古書店経由で。短く、そして緊迫した内容。
「最後の配信。重要な文書。ドイツ軍の撤退予定についての情報。これが、我々の勝利を決める。絶対に届けろ」
カトリーヌは、その日の午後、文書を受け取った。
十五区の地下室。かつて工場だった場所。今は、秘密の活動拠点。
文書は、厚かった。何ページもあった。ドイツ語で書かれた、ドイツ軍の戦略文書。撤退予定。配置転換。将官の移動。すべてが、ドイツ軍の衰退を物語っていた。
「これは、どこへ」
カトリーヌが聞いた。引き継ぎ役は、四十代の男性。かつて軍人だったらしい。目には、戦争の経験が刻み込まれていた。
「盟軍司令部へ。直接。これは、作戦計画に影響する情報だ。きみが届けなければ、数百人の兵士が死ぬ。無駄死にする」
カトリーヌは、文書を受け取った。自転車のカゴの中に。本の下に隠した。
「気をつけろ。ドイツ軍は、最後の息の根を止めるために、あらゆる手段を使う」
その言葉の意味が、十分間後に現実となった。
セーヌを渡る時だった。
ドイツ軍の検問。いつもと同じ場所。だが、今日は、異なっていた。兵士の数が多い。士官の姿がある。そして、ゲシュタポの標章をつけた男たちがいた。
カトリーヌの心臓は、止まりそうになった。
ゲシュタポ。秘密警察。この一年、彼女を追い詰めていた存在。
「Halt!」
命令。彼女は、自転車を止めた。
「Papiere!」
身分証。いつもの身分証。カトリーヌ・ディオール。24歳。住所:モンテーヌ街。
士官は、それを見た。そして、彼女を見た。長く。
「Follow me」
ついてこい。
その瞬間、カトリーヌは、自分の人生のある部分が終わることを知った。
-----
## 中
警察署。パリ市内の複数の刑務所を巡回させられた。
尋問。何度も何度も。同じ質問。異なる尋問官。
「あなたの名前」
「カトリーヌ・ディオール」
「あなたの職業」
「ありません」
「あなたの活動」
「何の活動でしょうか」
毎回、同じ応答。そして、毎回、どんどん厳しくなっていく尋問官の態度。
殴られた。何度も。顔。腹。脚。
だが、彼女は名前を言わなかった。組織のメンバーの名前を言わなかった。指導者の名前を言わなかった。
マルクの名前を言わなかった。
「You know him」
ゲシュタポの男は、マルク・ボワイエの写真を突きつけた。
「知りません」
それが、彼女の答え。何度何度も。
拷問は、何日続いたのか。カトリーヌは、時間を失った。
昼と夜の区別がなくなった。食事はほぼなかった。水も少なかった。
階下から、悲鳴が聞こえた。他の囚人たちの。拷問される者たちの。
カトリーヌは、それを聞きながら、自分がいずれその悲鳴の所有者になるかもしれないことを認識していた。
だが、彼女は沈黙を守った。
「Your brother」
ゲシュタポの男は、今度はクリスチャンの写真を突きつけた。
その時、カトリーヌの心が、初めて揺らいだ。
兄が、逮捕されるかもしれない。自分のために。
「I know nothing」
だが、彼女はそう言った。そして、兄が何をしているのか、何もしていないのか、彼女は語らなかった。
ドイツ軍の将官たちのドレスを仕立てていることさえ。
兄を守るために。その無知を守るために。
五日間。五日間の尋問。
その五日間の中で、カトリーヌは、自分の人生の一部を失った。
痛み。恐怖。絶望。そして、ある種の超越的な静寂。もう失うものがない、という境地に達した時に訪れる、奇妙な平静。
-----
## 下
六月十五日。
パリはまだ、占領下にあった。ノルマンディーは、連合国軍が上陸していた。だが、パリはまだ、ドイツ軍の支配下だった。
クリスチャンは、妹の逮捕を知った。
その日の朝。警察からの通知。妹がレジスタンス活動に加わっていたこと。逮捕されたこと。尋問を受けていること。
その衝撃で、クリスチャンは、一週間、アトリエに行くことができなかった。
第一に試みたのは、ドイツ軍の顧客へのアクセスだった。
将官の妻。秘書。影響力のある人物たち。彼がこれまで何年も、完璧なドレスで満足させてきた人物たち。
「My sister has been arrested」
妹が逮捕されている。
「I need your help」
あなたの力で、彼女を救ってほしい。
将官の妻は、同情的だった。だが、無力だった。
「I’m sorry. But I cannot interfere with Gestapo」
ゲシュタポの問題には、干渉できない。
秘書は、笑顔で断った。
「This is a security matter」
安全保障の問題だ。
影響力のある人物たちは、すべて同じ答えだった。
彼がこれまで何年も、完璧に仕えてきた人物たちは、その瞬間、彼の味方ではなかった。
ピエール・バルマンに相談した。
「We can try」
試してみようとバルマンは言った。だが、その声には、希望がなかった。
「But the Gestapo doesn’t listen to anyone」
ゲシュタポは、誰の言葉も聞かない。
それが、占領下パリの現実だった。
クリスチャンは、その時、自分がどれほど無力であるかを理解した。
ドレスで満足させることができる顧客たちも。金銭的な影響力も。ビジネスパートナーとしての地位も。
すべてが、ゲシュタポの前には無意味だった。
六月二十日。
パリ市内の複数の刑務所から、囚人たちが移送されるという噂が流れた。
ドイツへ。強制収容所へ。
クリスチャンは、刑務所を回った。妹の所在を確認するために。
それは、獄舎巡り。絶望的な作業。
獄中の顔を、窓越しに見た。女たちの顔。みんな、似た表情をしていた。恐怖。諦観。それでいて、何かへの希望。
カトリーヌの顔は、見つからなかった。
別の場所にいるのか。それとも、すでに何かが起こっているのか。
六月二十二日。
刑務所から駅へ向かうバスを、レジスタンスが故障させようとした。試みは失敗した。
列車の走行を妨害しようとした者たちもいた。彼らも失敗した。
すべてが遅かった。
スウェーデン領事のノルドリングが、パリ占領軍の指揮官コルテッツ将軍と交渉した。
フランス国内で捕われているユダヤ人、政治犯全員を解放し、赤十字の保護下に置いてほしい。
コルテッツ将軍は、それに同意した。
だが、その取り決めがなされた時、列車はすでに国境を越えていた。
ドイツへ。フランスの国土を離れ、ドイツへ。
クリスチャンは、その事実を知った時、初めて、彼の人生が終わったことを自覚した。
いや、終わったのではなく、別の形で続くことになったのだ。
妹を失うという形で。
妹を知らぬままに失うという形で。
六月二十三日。
駅での出発。
クリスチャンは、そこにいなかった。だが、他の人物たちが目撃した。
2,457人の囚人。その中に、カトリーヌ・ディオール。24歳。
貨物列車。身動きできないほど詰め込まれた人間たち。
セーヌの上で、暑い。汗まみれ。渇き。絶望。
列車から聞こえてきた『ラ・マルセイエーズ』。
囚人たちが唱う、フランス国歌。
パリ解放まで、あと数日。
だが、列車は、その日がいつなのか知らぬままに、北へ向かっていた。
-----
## エピローグ
クリスチャンのアパートでは、その夜、何も起こらなかった。
いつもの夜のように、電灯が消え、冷たいベッドが、一人の男を迎えた。
兄は、妹がどこにいるのか、知ることはできなかった。
知らぬままが、幸運か、不運か。
その判断を下すのは、時間に委ねるしかなかった。
占領下パリの最終段階。
解放へ向かうフランスの夜。
そして、ドイツへ向かう列車の夜。
二つの運命が、同時進行していた。
知ることなく。出会うことなく。
兄は、アパートで待つしかなかった。
妹は、列車で、ただ生きることを祈った。
その祈りが、奇跡になるのか。
あるいは、絶望のままなのか。
六月の終わり。パリの夏。
その先にあるのは、誰にも予測できなかった。




