第7話 1944年8月—クリスチャンの絶望
## 上
パリは、混乱していた。
八月中旬から下旬へ。占領軍の支配が、目に見えて弱体化していた。
連合国軍がパリへ向けて北上している。その報は、誰もが知っていた。知らない者がいないほど、明白だった。
それとともに、占領軍の態度が変わった。
将官たちは、オフィスの荷物をまとめ始めた。兵士たちは、撤退の準備をしていた。そして、パリの市民たちは、解放へ向けての期待に沸いていた。
その混乱の中で、クリスチャンは、妹を探していた。
メゾン・ディオール設立の準備は、一度中断された。それどころではない。妹がドイツへ移送されてから、三週間以上。彼女からの連絡は、ない。何の知らせもない。
ただ、占い師の言葉だけが、彼を支えていた。
「妹さんは戻ってきます」
その言葉を、繰り返し思い出していた。
赤十字。スウェーデン領事館。解放軍司令部。
クリスチャンは、これらの機関に、妹の情報を求めた。
「Your sister was transported to Germany」
ドイツへ移送された。それだけの回答。それ以上の情報はない。
「But she may have been liberated by Russian forces」
ロシア軍によって解放されたかもしれない。そういう可能性も、示唆された。
だが、それは可能性に過ぎない。確実ではない。
クリスチャンは、毎日、赤十字の事務所に通った。
「Any news about Catherine Dior?」
カトリーヌ・ディオールについての知らせはないか。
回答は、いつも同じ。
「We’re checking. But so many people…」
確認中。だが、これほど多くの人間たちが…
その言葉の末尾には、言葉にならぬ絶望があった。
何百万人。何千万人。それらすべての人間たちが、戦争によって、どこかへ散らばっている。その中から、一人の女性を見つけることは、砂漠から砂粒を探すことと同じだった。
八月二十日。
パリは、完全な混乱状態にあった。
占領軍が撤退を始めた。同時に、パリ市民たちが蜂起を始めた。武装闘争。バリケード。銃撃戦。
パリの街角は、一つの戦場へと変わった。
占領から解放へ。その転換点で、暴力が爆発した。
ルロンのアトリエは、セーヌの左岸にあった。その周辺も、銃声が聞こえるような状況になっていた。
クリスチャンは、それでもアトリエに向かった。
アトリエの奥に、何か必要なものがあるという思いだけで。あるいは、妹がパリに帰ってきた場合、真っ先にそこを探すだろうという思いで。
アトリエは、ほぼ無人だった。スタッフたちは、多くが身を隠していた。戦闘に巻き込まれることを避けるために。
バルマンは、いなかった。どこかへ避難したのか。
クリスチャンは、一人で、ドレスの仮縫いを続けた。
誰のためのドレスか。もう、その顧客は、パリから逃げた。あるいは、逮捕される危険性を感じて、身を隠した。
だが、彼は作った。
理由など、もはやない。ただ、仕事をしていることで、心を保つため。妹のことを考えないでいるため。
八月二十二日。
占領軍の首脳部が、パリから撤退した。コルテッツ将軍も、その従者たちも。
彼らが去った時、クリスチャンは何か深い喪失感を覚えた。
彼らは、彼の敵であった。占領軍。ドイツ軍。
だが、同時に、彼らは彼の顧客であり、ビジネスパートナーであり、ある種の関係性の相手だった。
その関係性が、完全に切断された。
あるいは、その関係性が、今や何の価値も持たないことが、明白になった。
彼が彼らのために作ったドレス。彼が彼らを満足させるために払った努力。すべてが、今や無意味だった。
妹を救えなかった。その無力さは、彼が占領軍との関係を通じて作り出した虚像が、完全に崩壊したことを意味していた。
-----
## 中
解放。
八月二十五日。連合国軍がパリへ入城した。
街は、歓喜に包まれた。
市民たちが、通りに出た。フラッグを掲げた。『ラ・マルセイエーズ』を歌った。占領軍を罵声で迎えた。
解放の瞬間。フランスの勝利の瞬間。
クリスチャンは、その光景を見ながら、涙を流した。
パリが解放された。フランスが自由になった。
だが、妹はどこに。
市民たちの歓喜の中で、クリスチャンは、一人、取り残されているような感覚を覚えた。
彼の周囲の人間たちが、皆、祖国への喜びに包まれている。だが、彼は、妹への不安に包まれていた。
その二つの感情の乖離が、彼を苦しめた。
彼も、パリの解放を喜ぶべきだ。フランスの自由を祝うべきだ。だが、妹がどこにいるか、生きているのか、それさえ知らない状況で、どうして喜べるのか。
赤十字の事務所は、さらに混乱していた。
解放軍の進軍とともに、ドイツの強制収容所から、次々と囚人たちが解放されていた。その情報が、集約される場所。
クリスチャンは、そこに毎日通った。
「Catherine Dior」
妹の名前を、何度も何度も、事務官に告げた。
その都度、事務官は、リストを確認した。それは、解放された者たちのリスト。
毎日、新しい情報が加わった。今日は、レーゲンスブリュックから解放された者たちについての情報。今日は、ドイツ東部の別の収容所についての情報。
だが、その多くは、死亡者のリストだった。
「She may have died in the camp」
彼女は、収容所で死んだかもしれない。
その可能性を、何度も提示された。
だが、クリスチャンは、その可能性を受け入れることができなかった。
「No」
彼は、何度も言った。
「She will come back」
彼女は、帰ってくる。
それは、確信ではなく、願いだった。だが、彼は、その願いを信じていた。
占い師の言葉。
「妹さんは戻ってきます」
その言葉だけが、彼を支えていた。
ピエール・バルマンが、現れた。
八月下旬。パリの混乱が、少しずつ収まり始めた時期。
バルマンは、クリスチャンの顔を見て、その変わりぶりに驚いた。
「My God, Christian. What happened to you?」
何があったのか。
クリスチャンは、妹のことについて、すべてを話した。
逮捕。移送。ドイツへの流刑。消えた連絡。
バルマンは、聞いていた。そして、こう言った。
「We must wait. Many are coming back. Every day, more are returning」
待ちましょう。多くの者が帰ってきている。毎日、さらに多くが。
「But many also…」
だが、多くはまた…
バルマンは、言葉を続けなかった。その先には、死というテーマがあった。
「Don’t think about that」
その可能性は、考えるな。バルマンは、そう言った。
だが、クリスチャンは考えていた。
毎晩。毎朝。妹が死んでいる可能性を。
妹が拷問で亡くなった可能性を。妹が収容所の病気で亡くなった可能性を。妹が強制労働の中で亡くなった可能性を。
その可能性たちが、彼の頭を占拠していた。
-----
## 下
九月初旬。
パリは、次第に通常状態へ戻り始めていた。
戦闘は終わった。占領軍は去った。連合国軍が、街を支配していた。
市民たちは、少しずつ、日常へ戻り始めていた。
だが、クリスチャンは、その日常へ戻ることができない状態にあった。
アパートに帰ると、妹の不在が、ずしりと心にのしかかった。
妹が何をしていたのか。その秘密は、彼は永遠に知らないままかもしれない。あるいは、妹が死んでいるなら、その秘密は、彼とともに、永遠に失われることになる。
クリスチャンは、メゾン・ディオール設立の準備を、再び開始した。
不思議なことに、戦争が終わった今だからこそ、そのビジネスプランは、より現実的になっていた。
占領軍の顧客たちは、消えた。だが、解放されたパリの女たちは、新しいドレスを求めていた。
占領の時代の質素さから、新しい時代の豊かさへ。その象徴として。その希望として。
クリスチャンは、それを理解していた。
メゾン・ディオールは、それゆえ、パリの再生の象徴になるだろう。
その時、妹が生きていれば。
妹が帰ってくれば。
妹のことを思い出すたびに、その条件付きの希望が、彼の心に現れた。
九月中旬。
赤十字から、一通の手紙が届いた。
妹についての情報。
クリスチャンは、その手紙を開くのに、数秒要した。
その中に書かれていたのは、死亡報告ではなく、別のものだった。
「Searching for Catherine Dior」
カトリーヌ・ディオールを探索中。複数の強制収容所から、その名前の記録は見つかっていない。だが、囚人の記録が不完全であるため、確認には時間がかかる。
つまり、彼女が生きているのか、死んでいるのか、未だ不確定。
その不確定性。その状態が、クリスチャンを最も苦しめた。
知っている方が、まだましかもしれない。生きているか、死んでいるか、どちらかが確定していれば。
だが、その両方の可能性が、同時に存在している状態。
その中で生きることは、彼にとって、新しい種類の苦痛だった。
夜間。アパートで。
クリスチャンは、妹のドレス帳を見つけた。
いや、妹のドレス帳ではなかった。彼女が隠していた暗号帳だ。
今、その暗号帳を見つめながら、彼は、妹が何をしていたのか、多くの部分を理解した。
レジスタンス。地下活動。危険。死。
妹は、その世界にいたのだ。
その時、彼は、自分がどれほど無知であったのか。そして、その無知がどれほど妹の安全を脅かしていたのか。
アパートを秘密の拠点として使われていたこと。妹が毎日、死と隣り合わせで活動していたこと。彼は、何も知らなかった。
あるいは、知ろうとしなかった。
その無知と無関心が、彼を今、最も深く後悔させていた。
妹を救えなかった。
ドレスでは、妹は救えなかった。金銭でも、人脈でも、ビジネスの成功も、妹を救うことはできなかった。
妹が必要とした援助は、彼が与えられなかったものだった。
クリスチャンは、暗号帳を抱きしめた。
その時点で、妹が生きているという信念は、完全に揺らいでいた。
だが、占い師の言葉だけが、彼を支えていた。
「妹さんは戻ってきます」
その言葉を、繰り返し唱えた。
祈るように。呪文のように。
妹よ、帰ってきてくれ。
どのような状態でもいい。生きていてくれたら。
その祈りが、クリスチャンの日々を、紡ぎ続けていた。
-----
## 待機の日々
秋。パリは、新しい季節へと移った。
戦争は終わった。占領は終わった。
だが、多くの人間たちにとって、戦争は終わっていなかった。
強制収容所にいた人間たちの多くは、まだ帰還していなかった。行方不明。消息不明。死亡。
その三つのいずれかの状態で、数百万人が、まだ世界のどこかに散らばっていた。
クリスチャンは、その不確定性の中で、毎日を過ごしていた。
メゾン・ディオール。その設立計画は、進行していた。
戦後のパリのために。新しい時代のために。
だが、その計画の心の中には、常に、妹への思いが、沈んでいた。
妹が帰ってくれば。
その条件が、実現されるまで、彼の人生は、完全には前へ進むことができないと、彼は感じていた。
占い師の言葉。
「妹さんは戻ってきます」
それを信じた。その言葉だけを信じて。
毎日。毎日。待機の日々が続いていった。
--




