第3話 1942年春—兄との交差
## 上
ルシアン・ルロンのアトリエは、パリの中で最も美しい場所の一つだった。と、クリスチャン・ディオールは思っていた。
三十八歳。背は高くなく、顔立ちは整っていなかった。だが、ここにいると、彼は自分が世界の中心にいるような、そんな感覚を覚えた。
アトリエの天井は高く、北向きの大きな窓から、絶え間なく光が降り注いでいた。その光の中で、布地が呼吸していた。シルク、ウール、リネン、綿。色は無限だ。赤、青、緑、紫、金、銀。それらが、光と影を作る。
ここは、戦争のない場所だ。
そう、クリスチャンは信じていた。
「モンスール・ディオール」
誰かが彼を呼んだ。右手に広がるアトリエの方からだ。ピエール・バルマン。同じデザイナー。競争相手であり、同志でもある。
「ご覧ください。この色合い。実に見事だ」
バルマンが指差したのは、濃い紫色の生地だ。占領軍の将官夫人のためのドレス。素材はイタリア産。品質は最高級。戦争によって、ヨーロッパ全土が、すべてルロンの支配下にあるかのような錯覚を与えるほど。
「実に良い」
クリスチャンは、その布地に手を置いた。触感は、至福だ。何も考えなくていい。ただ、この布地から何が生まれるか。そのことだけを考える。
「今日も六名のご来店予定です。全員、ドイツ軍関係者のご家族。試着は午後三時から」
アトリエの秘書が、スケジュール表を持って来た。クリスチャンは頷いた。
午前中いっぱい。彼の前には、デザイン画が広がっていた。昨日未完成だった仮縫いのドレス。それを、完璧に仕上げなければならない。布地を手に、針を持ち、すべての細部が、精密に、優雅に、統一された線で語られることを。
戦争が始まってから、ルロンのメゾンは、パリでほぼ唯一、営業を続けていた。有名なクチュリエたちは、多くが閉店した。占領軍が来るのなら、協力できない。そう考えて、店を閉じたのだ。だが、その選択肢をルロンは選ばなかった。営業を続けた。そして、クリスチャンも、その決断と共に、ここにいた。
「これをドイツ軍に仕えることだと言う者たちがいます」
そう言ったのは、バルマンだった。昨晩、二人でワインを飲んでいた時のこと。
「そうですか」
クリスチャンは、生地を裁断していた。その手は、止まらない。
「あなたは、気にしないのですか」
「気にする余裕がない」
それが、本当だった。クリスチャンは、ここにいることが、あまりにも充実していた。戦争前の人生。流れ漂う毎日。実家の破産。友人の家を転々とすること。すべてが、無為だった。
だが、ここは違った。
「モンスール・ディオール。あなたは、本気でそう思っているのですか」
バルマンは、見つめていた。
「フランスの文化とは、何でしょうか」
クリスチャンは、手を止めて答えた。
「優雅さです。美しさです。精密さです。それらを、人間の身体に纏わせることで、その者を高める。それが、ドレスを作るということです」
「ナチスも、美しいものを求めています」
バルマンは、続けた。
「そうです。だからこそ、ここへ来るのです。彼女たち——将官の妻や娘たちは、ベルリンの既製服には満足しない。パリモードを求める。それは、ドイツの美に対する、フランスの美の優位性を意味するのではありませんか」
それが、クリスチャンの自己正当化だった。
占領軍の顧客にドレスを仕立てることは、占領軍に協力することではない。むしろ、ドイツがベルリンをヨーロッパのファッションの中心にしようともくろんでいた計画に、抵抗することだ。パリモードの優位性を守ることだ。
そう考えることで、彼は眠ることができた。毎晩。
午後三時。六名の客が到着した。
ドイツ軍将官の妻。中佐の娘。士官の秘書。そして、ドイツ軍の取り巻きになったフランス人貴族の妻たち。
彼女たちは、ドレスを試着した。クリスチャンの手による完璧なドレスを。
「素晴らしい」
「これはパリだ。ベルリンには絶対にない」
「モンスール・ディオール。あなたはもっと有名になるべきです」
彼女たちの言葉が、クリスチャンの心を満たした。充実感。必要とされているという実感。価値のある仕事をしているという確信。
アトリエを出たのは、夜間外出禁止令の一時間前。彼がアパートに帰ったのは、その日が初めてだった。朝、服を着替えてから十時間以上経っていた。
アパートは、静かだった。
暗く、冷たい。仕事場ではない。単なる寝床。朝起きて、服を着て、出かけて、帰ってきて、また眠る。それだけの場所。妹がたまに来ることを知らなかった。その部屋で何をしているのか、見ることもなかった。
ベッドに横たわった時、クリスチャンは思った。
フランスは、占領下にある。だが、パリは、まだ美しい。その美しさを守ること。それが、今の彼にできることだ。
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## 中
午後二時。セーヌの左岸。
カトリーヌは、古書店の主人から小さな包みを受け取った。いつものように。何が入っているか、聞かない。知らないことが、安全だ。
自転車のカゴに入れた。その上に、本を積んだ。『ボヴァリー夫人』。『戦争と平和』。表紙は見えている。普通の若い女性。読書好きな娘。何も悪いことをしていない。
走った。セーヌ沿いのコース。いつもと同じ経路ではなく、今日は迂回ルート。昨日、ドイツ軍の検問が十三区に増加したという報告を受けたから。
自転車の上で、カトリーヌは思考していた。それは、危険だ。マルクは何度も言った。走りながら考えるな。身体で走れ。思考が出ると、顔に出る。顔に出ると、見張りが気づく。
だが、彼女は考えずにいられなかった。
兄のことを。
最近、兄をほぼ見ない。朝、帰ってくることはない。夜間外出禁止令の直前に帰ってくるだけ。そして、朝六時には出かけている。
つまり、兄のアパートは、実質的に無人だ。その事実が、彼女にどんなに有利な状況を作っているか。秘密の拠点として。情報の保管庫として。負傷した仲間の隠れ家として。
でも、兄は何も知らない。
それが、何より不安だった。
知らないことが、本当に、兄を守るのか。
いや。知れば、兄も危険になる。知らぬままが、兄のためだ。
その論理は、正しい。だが、心は納得していなかった。
セーヌを渡った。十五区に出た。細い路地。昼間でも薄暗い場所。そこが、次の拠点だ。パン屋の裏口。
カトリーヌは、自転車を止めた。周囲を見回った。ドイツ軍の兵士はいない。警察もいない。
裏口に近づいた時、誰かが出てきた。老年の女性。パン屋の店主。彼女も組織の一員だ。
「今日のパンは、良い出来ですね」
合図だ。
「ええ。小麦粉が良かったからでしょう」
カトリーヌは、包みを渡した。老年の女性は、自然な動きで、それを受け取った。そして、代わりに別の包みを渡した。
すべてが、二秒で完了した。
カトリーヌは、自転車に乗って、また走った。
次の拠点へ。そしてその次へ。一日に五つの拠点。五つの受け渡し。五回の死の可能性。
毎日、繰り返される。
午後六時。カトリーヌは、兄のアパートに立ち寄った。表向きは、家族の日常的な訪問。だが、実際には、隠れ場から一人の仲間を引き取るためだ。
アパートに入ると、その仲間はいなくなっていた。いつもそうだ。昼間に、別の場所へ移動する。痕跡は、何も残されない。
リビングに座った。兄はいない。仕事場にいるのだろう。毎日。毎日。
彼女は、兄のドレス帳を見つけた。机の引き出しに。デザイン画がびっしり描かれている。綿密な線。正確なプロポーション。細かなディテール。
それは、芸術だ。純粋な美の追求。
カトリーヌは、複雑な感情に襲われた。
兄は、ドレスを作っている。占領軍のために。
自分は、情報を運んでいる。レジスタンスのために。
二人は、同じパリで、同じ時間に、正反対のことをしている。
しかも、兄は自分を正当化できる。「文化を守っている」という名目で。
自分も正当化できる。「フランスを解放している」という名目で。
でも、その二つは、本当に正反対なのだろうか。
兄のドレスが、占領軍の心を掴むことで、ドイツ軍が、より長くパリに居座る。より強く支配する。
そう考えると、兄は、占領軍に協力しているのではないか。
でも、兄は知らない。そのことに気づくべきではない。知ることで、兄は苦しむ。精神的に。
カトリーヌは、ドレス帳を閉じた。
何も言わない。兄に何も知らせない。それが、愛情だ。そう自分に言い聞かせた。
夜。マルクと会った。いつもの場所。パリの隅の、目立たない居酒屋。
「疲れているな」
マルクが言った。
「少し、考えすぎています」
「何を」
「兄のことです。彼は、知らずに、我々の手伝いをしている。でも、知ったら、彼は苦しむ」
マルクは、ワインを飲んだ。
「戦争とは、そういうものだ。知識が苦痛を生む。無知が安全をもたらす。きみの兄は、幸運だ。何も知らずに済む」
「でも、それは、本当に幸運ですか」
「わからない。だが、知ることの方が、確実に不幸だ」
マルクは、カトリーヌの手を握った。
「きみは、良い仲間だ。毎日、死の危機に晒されながら、兄の不幸を心配する。そういう女性は、滅多にいない」
「でも、それは、正しいことですか」
マルクは、答えなかった。彼もまた、迷っているのだ。戦争の正しさについて。その中での個人の正しさについて。
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## 下
春。三月の終わり。
パリは、季節の転換期にあった。冬の終わり。春の始まり。占領の深刻化。抵抗の組織化。
その両方が、同時進行していた。
クリスチャンは、新しい仕事を始めていた。メゾン・ディオールの設立準備だ。
リュシアン・ルロンから独立する決意。それは、彼の人生で最大の決断だった。
「あなたは、本気ですか」
ルロンが聞いた。アトリエの奥。二人きりの部屋で。
「本気です」
クリスチャンは、答えた。
「独立しても、顧客はいません。占領軍の人脈がなければ」
「わかっています」
「フランスの上流階級は、大半が南仏に避難している。金持ちはいない」
「承知しています」
クリスチャンは、自分の決意の強さに驚いていた。
「では、何が支えているのか」
「夢です。戦争が終わった後の。その時、フランスは必要とするでしょう。失われた優雅さを。失われた美を。その時、新しいファッションが必要だ。新しい時代のドレスが」
ルロンは、長く沈黙していた。
「わかりました。あなたは、独立しなさい。そして、あなたの夢を追いなさい。戦争が終わった時に。その時が来たら、メゾン・ディオールは、パリの顔になるでしょう」
クリスチャンは、この時、知らなかった。
その数ヶ月後に、妹がドイツへ移送されることを。
その数年後に、フランスが解放されることを。
その十年後に、『ニュー・ルック』が世界を変えることを。
すべてが、この瞬間から、既に始まっていたのに。
春の午後。クリスチャンは、アパートでドレスの仮縫いをしていた。
ドイツ軍大佐の妻のためのドレス。綿密な仮縫い。何度も手直し。完璧さへの執着。
その時、カトリーヌが現れた。
兄妹は、その瞬間まで、二週間以上、言葉を交わしていなかった。
「カトリーヌ」
クリスチャンが、顔を上げた。
「おはようございます」
カトリーヌは、妹にしては不自然に優雅な挨拶をした。
「君は、最近、いつもそんな格好をしているのか」
ニット帽。毛皮ジャケット。スリット入りのスカート。クリスチャンは、妹の服装を初めて、本格的に見た。
「スポーツをしているもので」
嘘だ。だが、完璧な嘘だ。
「何のスポーツだ」
「サイクリングです」
「そうか」
クリスチャンは、視線を戻した。仮縫いへ。ドレスへ。完璧さへ。
「兄さん」
カトリーヌが言った。
「何だ」
「あなたは、今、何をしているのですか」
それは、単なる質問ではなく、より深い問いだった。何をしているのか。なぜ。それは正しいのか。
クリスチャンは、答えるのに数秒要した。
「ドレスを作っている」
「わかってます。でも、なぜ。占領軍のために」
クリスチャンは、針を止めた。そして、妹を見た。
「フランスの文化を守るためだ。占領軍がどんなに長くここにいても、パリの美しさは失われない。そのために、ドレスを作っている」
カトリーヌは、兄の言葉を聞いていた。その言葉が、バルマンから聞いた説明と同じだと気づいた。同じような理屈で、同じように正当化している。
「兄さんは、本当にそう信じていますか」
その質問の裏に隠された意図を、クリスチャンは感じ取ったが、言葉にすることはできなかった。
「信じている。これが、今の僕にできることだ」
カトリーヌは、兄を見つめた。その目には、何か悲しみのようなものが浮かんでいた。
「兄さん。もし、わたしたちが別の道を歩んでいるとしたら。兄さんはどうしますか」
「別の道とは」
「フランスを守る道。占領軍に対する道」
クリスチャンは、答えなかった。答えるべき言葉がなかった。
「わたしは、兄さんの邪魔をするつもりはありません」
カトリーヌは、続けた。
「兄さんが、兄さんの方法でフランスを守ろうとしているなら。わたしは、わたしの方法で守ります」
「君の方法とは」
「それは、お話しできません。兄さんが知らない方が、兄さんのためです」
クリスチャンは、理解した。妹は何かをしている。秘密のことを。危険なことを。
だが、聞いてはいけない。妹が言わないのなら。
「僕は、君を信じる」
クリスチャンが言った。
「どうして」
「君は、僕の妹だから。僕たちが別の道を歩んでいても。別の方法を選んでいても。その根底にあるのは、同じ愛だと思うから」
カトリーヌは、兄を見つめた。その目に、涙が浮かんでいた。
「ありがとうございます」
それ以上、二人は何も言わなかった。
ただ、二人の間には、言葉では伝えられぬ理解が成立していた。
兄は、ドレスで戦う。
妹は、秘密で戦う。
二つの戦いは、表面上は相反しているが、その奥底では、同じ愛の表現なのだと。
カトリーヌが帰った後、クリスチャンは、妹の言葉を反芻していた。
「わたしは、わたしの方法で守ります」
その言葉の中に隠された危険を、彼は感じていた。
妹は何かをしている。秘密の何かを。
だが、彼は聞かない。知らない。それが、兄としてできる唯一の愛情表現だ。
夜間外出禁止令の時間。クリスチャンは、アパートで眠った。
ベッドの下に、妹が置いていった暗号の手帳を、彼は見つけることはなかった。見つけることは、絶対にしてはいけない。
それが、戦争下での、家族の愛情の形だった。
知らぬままに。祈りながら。
相手の無事を信じながら。
春風が、パリの街を吹き抜けていた。
その風に乗って、兄妹の秘密は、より深く隠れていった。




