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ミス・ディオール  作者: はまゆう


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第2話 1941年秋—自転車乗り

## 上


九月初旬の午前、パリ十五区の林の中にあるサイクリング教室で、カトリーヌは自転車の乗り方を習っていた。


公式には「婦人向けスポーツ教室」という看板が掛かっていたが、実際にはマルクと彼の同志たちが、特定の若い女性たちを訓練する場所だった。教室の管理人は老年の女性で、彼女も組織の一員だ。占領下のパリでは、こうした多層的な協力体制が、あらゆる場所に隠れていた。


「もっと腰を落としてください。そして、ペダルを漕ぐ時、音をたてないこと。音はあなたを殺します」


マルクは、自転車の後ろで支えながら、低い声で指示を与えた。公式には、彼は教え手。その他大勢の中の一人に見える。だが、彼の声には、遠回しの命令の響きがあった。


カトリーヌは、自転車のサドルに跨った。これまで、自転車など乗ったことがない。裕福なブルジョワ家庭の娘は、そんな労働者の乗り物には乗らないからだ。だが、今、彼女の脚は、ペダルを踏んでいた。最初はぎこちなく。次第に、リズムが出てきた。


「いい。もっと。風を感じてください。あなたは風になるのです。見えない。聞こえない。ただ、通り過ぎるだけ」


マルクの声が、まるで瞑想の導き手のように聞こえた。カトリーヌは、目を閉じた。林の中の細い道を走る。枯れ葉の香り。秋の冷たい空気。自転車のチェーンの音。すべてが、彼女の身体に馴染み始めていた。


二時間後、彼女は額に汗をかきながら、サイクリング教室の控え室に座っていた。老年の女性が、温かいお茶をくれた。砂糖はない。ミルクもない。だが、温かさは何物にも代え難い。


「初日としては、上出来です」


マルクが現れた。彼は汗もかいていない。バレエダンサーの身体は、こうした訓練にも適応していた。


「足が痛いです」


「明日の朝もっと痛くなります。三日目が最悪。それを超えたら、身体が順応します。一週間で、あなたは別人になっている」


カトリーヌは、マルクを見た。


「私たちは、どのくらいの期間、こうして会うのですか」


「準備期間は、三週間。その後、実際の運搬を始めます。簡単な任務から」


「簡単とは」


「書類の配信です。ドイツ軍の配備に関する情報。それをある家から別の家へ運ぶ。それだけ」


「それだけで、ゲシュタポに捕まれば」


「拷問と死です。だから、捕まらないことが重要なのです」


マルクは、隣に座った。老年の女性は、奥の部屋に退出した。彼らは、ほぼ二人きりだ。


「きみは、何か、後悔していないか」


マルクの質問だった。二週間前の決断について。


「していません」


カトリーヌは、そう答えた。そして、それが本当だと思っていた。


「良かった。では、これから、きみは多くのことを学ばなければならない。自転車の乗り方。パリの路地裏を覚えること。ドイツ軍の検問の場所と時間。警察官の顔。安全な家。危険な家。信号。すべてが、生きるか死ぬかを決める」


彼は、ポケットから小さな手帳を取り出した。


「これは、暗号です。もし、誰かに尋問されても、これを読んでいるところを見つからないこと。見つかれば、処刑です。できますか」


カトリーヌは、手帳を受け取った。薄い紙に、奇妙な記号が書かれていた。


「覚えられるか、不安です」


「不安で良い。自信のある者ほど、失敗する。いつも緊張していてください。いつも死ぬ可能性を念頭に置いていてください」


マルクは、テーブルの上に地図を広げた。パリの詳細な地図だ。赤いペンで、いくつかの丸が付けられていた。


「ここが、最初の拠点です。次がここ。その次がここ。毎日違う場所に行ってください。同じ場所に二日続けて行かないこと。ドイツ軍の監視カメラがあるかもしれません。いや、カメラではなく、目利きの良い占領軍の兵士がいるかもしれません」


カトリーヌは、地図を眺めた。パリは、突然、迷宮のように見えた。


-----


## 中


十月中旬。カトリーヌは、毎日自転車に乗っていた。


朝は六時に起床。モンテーニュ街の実家を出る前に、スカートを縫い直した。裾まで届く長いスカートに、深いスリットを入れた。母親が見たら、卒倒するだろう。でも、もう何のためのドレスか、わからなくなっていた。社交のためではなく、ペダルを漕ぐため。目立たぬために。


ニット帽。母親の実家から持ってきた、古いウール製の毛皮ジャケット。長いウールの靴下。すべてが、実用的な日常着だ。女中のような格好。だが、その格好が、彼女を目立たなくさせた。


街を疾走する。セーヌを渡る。マレ地区に出る。十三区へ。右岸へ。毎日違う経路。頭の中には、常に三つのルートが浮かんでいた。通常ルート。危険な時の迂回ルート。最悪の時の逃亡ルート。


マルクの指導は、厳しかった。


「走り方が雑だ。見張りの目が、あなたに留まっている」


「気をつけています」


「気をつけるではなく、消えるのです。あなたは存在しない。風のようだ。光のようだ。何かが通り過ぎた、それだけ。誰が乗っていたのか、思い出させないようにするのです」


毎日、マルクはカフェで彼女を待っていた。違うカフェ。毎回違う。危険が分散される。そこで彼は、簡潔に指示を与えた。時には、茶をすする。時には、新聞を読む。会話は、恋人同士のように見える。だが、その会話の端々に、秘密の指令が隠されていた。


「ねえ、あなた。あのお店、覚えてますか。青い看板の」


それは、暗号だ。青い看板の店に行け。そこの奥の部屋に行け。テーブルの下に包みが置いてある。それを取って、赤い看板の店に持って行け。


毎日。毎日。飽きることなく。


十月の終わり、カトリーヌは初めて、実際の書類を運んだ。


それは、セーヌの左岸にある古書店の奥で、老人から受け取った。包みは小さく、薄かった。何が入っているのか、聞かなかった。聞いてはいけない。知らない方が、安全だ。


自転車のカゴに入れた。そして、走った。


ドイツ軍の検問に遭った。二人の将兵が、いきなり道を塞いだ。


カトリーヌの心臓は、止まりそうになった。だが、足は止まらなかった。マルクの訓練が、彼女の身体に刻み込まれていた。


「Halt!」


止まれ、という命令。カトリーヌは、自転車を止めた。ゆっくり。焦らずに。


「Papiere」


書類を見せろ、という命令。カトリーヌは、身分証を差し出した。若い娘。働き手。何も悪いことをしていない者のように。


一人の将兵が、カゴの中を見た。その視線がカトリーヌの首筋を突き刺した。


「Was ist das」


それは何か、という質問。


「Blätter」


葉です。紅葉です。あなたの兵舎の部屋に飾ってあげようと思って、集めていました。


その時、彼女の優雅なフランス訛りの口調が、役に立った。ドイツ兵は、笑った。若い女性が、秋の葉を集めているのだ。何も悪いことではない。


「Guten Tag」


良い一日を。そう言って、彼らは道を開けた。


カトリーヌは、ゆっくり自転車をこいで、検問所を通り過ぎた。背中は、汗まみれだった。しかし、顔は平静だった。


その晩、マルクに報告した。


「良かった。次は、もっと大量の書類です」


「死ぬかもしれませんね」


「そう。毎日、その可能性と一緒に生きる。これが、我々の日常です」


マルクは、カトリーヌを抱いた。街中ではできない。だから、隠れた場所で。彼の腕の中で、彼女は初めて、自分が何をしているのか、現実として感じた。


-----


## 下


十一月初旬。秋は深まっていた。


パリの街角では、レジスタンスのビラが増えていた。電柱に貼られた、ドイツ軍への警告。占領軍は、何度も剥がすが、毎晩のように新しいものが貼られる。その戦いは、目に見えぬ戦場だ。


カトリーヌも、その一部になっていた。


彼女が運ぶ書類には、ドイツ軍の兵力配置、武器の移動、将官の動向が記されていた。その情報は、どこへ行くのか。彼女は知らない。知らなくて良い。知らないことが、安全だ。


だが、彼女は感じていた。自分が運んでいるのは、単なる紙片ではなく、戦争そのものなのだと。


クリスチャンのアパートが、秘密の拠点の一つになっていることに、カトリーヌが気づいたのは、十一月の中旬だった。


彼女は、ある日の午後、兄のアパートに行った。用件は特にない。ただ、兄の様子を見たかった。最近、兄を見かけることがほぼないのだ。


アパートの戸を開けると、誰もいなかった。リビングは薄暗い。仕事場には、兄がいない。おそらく、ルロンのアトリエにいるのだろう。


だが、寝室のドアが、微かに開いていた。カトリーヌは、そっと中を覗いた。


誰かが寝ていた。若い男だ。顔は見えない。毛布に隠れている。けれど、その男が、マルク配下の組織の一員であることは、明白だった。


カトリーヌは、静かに戸を閉じた。


その晩、マルクに問いただした。


「兄さんのアパートを、あなたたちが使ってるんですね」


「そうだ。彼は、良い協力者だ」


「兄は何もしてないじゃありませんか」


「いや。彼は知らずに、大きなことをしている。彼のアパートは、セーヌの左岸にある。視認性が高い。つまり、ドイツ軍も頻繁に周辺をパトロールしている。だが、だからこそ、安全だ。誰も、そんなに目立つ場所に秘密の拠点があるはずがないと思う」


「でも、兄が戻ってきたら」


「彼は、めったに戻ってこない。きみが知っているように、彼は仕事に夢中だ。朝出かけて、晩遅く帰ってくる。我々は、その間を活用している。彼は、何も知らない。知らない方が、彼のためだ」


カトリーヌは、兄のことを考えた。クリスチャン。六歳上の兄。これまで、彼の人生について、詳しく考えたことがない。ドレス作りをしている人。それだけ。


「兄さんに危険が及びますか」


「我々が用心していれば、問題ない。だが、用心が万全ではない時代だ。何が起こるか、誰にもわからない」


マルクは、カトリーヌの手を握った。


「きみも危険だ。毎日。だが、やることはやるしかない」


十一月末。初霜が降りた朝。


カトリーヌは、いつものように自転車で街を疾走していた。ニット帽。毛皮ジャケット。長いスリット入りのスカート。パリ市民の誰もが、彼女を見かけるかもしれない。だが、誰も彼女のことを覚えていない。そういう存在になることが、彼女の訓練の最終目標だった。


セーヌを渡る。十五区に入る。十三区に出る。毎日の経路。だが、この日は違った。


ドイツ軍の車が、彼女の前で急ブレーキをかけた。


カトリーヌの血液が、凍った。


銀色のメルセデス。ドイツ軍の将官の乗る車だ。通常は、兵卒の検問ではなく、士官が出てくる。それは、より危険だ。士官は、より訓練されている。より疑い深い。


車から降りたのは、大佐だった。四十代。厳しい顔。


「Guten Morgen」


マルクの訓練を思い出した。動揺を見せない。いつもの日常のように。


「あなたのハンドバッグを見せてください」


ハンドバッグ。自転車のカゴの中に、書類はない。今日は、ハンドバッグに入っている。ドイツ軍の兵力配置に関する情報。四ページ。暗号化されているが、だからといって安全ではない。


カトリーヌは、ハンドバッグを開いた。その中には、ハンカチ。小銭。そして、ドイツ軍の兵力配置情報。


大佐は、中を見た。その表情が、微かに変わった。


「これは何ですか」


カトリーヌは、微笑んだ。マルクの訓練。いつもの自分。若い娘。何も悪いことをしていない。


「これは、私が配達している衣料品店の配送リストです。書き間違えました。ドイツ軍の兵力配置」


そう言いながら、彼女は紙を指差した。そこには、確かに見覚えのない数字が並んでいた。だが、それは本来の情報ではなく、彼女が数秒で即座に創造した嘘だった。


「見てください。この数字は、ドレスのサイズです。ドイツ軍の将官夫人たちのために、我々は衣料品を作っている。この配送リストを、うっかり持ち運んでしまいました」


大佐は、紙をじっと見ていた。その間、彼女の心臓は、狂乱していた。


「あなたはどこに行っているのか」


「仕立屋です。シャンゼリゼ通りの。我々は、ドイツ軍の夫人たちのドレスを作っています。今、十六区の将官の邸宅に配達物を持っていく途中です」


完全な嘘だ。だが、真実のようだ。占領下パリでは、ドイツ軍のために衣料品を作る仕立屋は多い。この娘も、そうかもしれない。


大佐は、紙を返した。


「では、今後は気をつけるように。こうした書類は、検閲が必要です」


「わかりました。ありがとうございます」


カトリーヌは、ハンドバッグを閉じて、自転車を再び走らせた。その時の脚の震えは、マルクの訓練でさえ、完全には制御できなかった。


だが、彼女は走った。


その晩、マルクと会った時、彼は彼女に言った。


「きみは、今日、ドイツ大佐の前で、完璧に演じた。あの状況で、あの嘘をつくことができたのは、我々の中でも数少ない者たちだ」


「怖かったです」


「恐怖は、良いことだ。自信のある者ほど、足元をすくわれる。きみは、常に恐怖と一緒に生きる。それが、生き残る秘訣だ」


マルクは、彼女を抱いた。その腕の中で、カトリーヌは、自分がもはや、かつてのブルジョワ娘ではなくなっていることを、初めて自覚した。


自分は変わった。


ニット帽をかぶり、毛皮ジャケットを着て、スリット入りのスカートで自転車を漕ぐ、見えない女性に。


パリの街を走る風に。


その時点で、カトリーヌ・ディオールの人生は、完全に異なる軌道に入っていた。


帰宅した時、彼女は兄のアパートに寄った。兄はいなかった。仕事場に籠りきりだ。


リビングには、仕事で疲れた兄の面影がない。ただ、静寂だけがある。


ベッドルームを覗くと、昼間にいた若い男はいなくなっていた。痕跡は、何も残されていない。それが、彼らのやり方だ。


カトリーヌは、兄のベッドに座った。薄い、質の良いシーツ。兄が何もかも失った時代から、ようやく手に入れた、小さな安定。


その安定の上に、彼女は今、秘密の戦争を戦っている。


兄は何も知らない。


そして、その知らぬままが、兄を守るのだ。


窓の外は、初冬のパリだ。暗くなり始めた街。その隅々には、目に見えぬ戦いが繰り広げられている。


その年の冬は、異常に冷たかった。


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