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ミス・ディオール  作者: はまゆう


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第1話 1941年6月—秘密の誘い

## 上


セーヌ左岸の小さなカフェ。六月の午後、陽光が窓を斜めに切り、白いテーブルクロスの上に明るい矩形を作っていた。


カトリーヌ・ディオールは、コーヒーカップを両手で温めていた。中身はもう冷めている。砂糖も、ミルクも、この頃のパリではほぼ手に入らない。黒い、苦い、命がけで手に入れたコーヒー。それでも彼女は一口も飲まずに、湯気が立つ体温を掌で感じていたかった。


二十四歳。モンテーニュ街のブルジョワ家庭の末妹。戦争が始まってから五年。占領下のパリで、彼女は何一つ苦労をしたことがない。


窓の外は緑だった。セーヌの向こうに、ノートル=ダムが薄紫色に霞んでいる。平和な午後だ。そう見える。しかし看板には「ドイツ軍占領地」と書かれ、至る所に灰色の制服の兵士たちが歩いている。この矛盾が、カトリーヌの頭をいつも曇らせた。平和で、同時に戦地だ。豊かで、同時に飢えている。自由で、同時に監視されている。


「待たせてごめんなさい」


声がした。カトリーヌが顔を上げると、マルク・ボワイエが椅子を引いて座った。三十代前半、髪を後ろに流した、綺麗な顔立ちの男だ。バレエダンサーにしては筋肉質だが、舞踏芸術を身に纏った独特の優雅さがあった。


「新作の稽古で遅くなってしまって。それにしても、会いたかった。」


マルクは笑った。その笑顔に、カトリーヌは数ヶ月前に感じた、あの懐かしい高揚感を思い出した。セーヌ沿いの夜。月明かり。彼の手が自分の手を握った時の、心臓の高鳴り。


「どう。これはいい場所でしょう。ドイツ人の兵士も来ないし」


そう言ってマルクは、カウンター奥を一瞥した。主人は新聞を読んでいるふり。常客たちは午後の昼寝の中にいた。


「マルク、あなたが急に呼び出すなんて、珍しい」


カトリーヌが言った。六ヶ月。彼と付き合うようになってから、こうしたひそやかな約束が増えた。以前は劇場での公演に招待してくれたり、公然とレストランで会ったりしていたのに。


「きみに、話さなくてはならないことがあるんだ」


マルクは、テーブルの上で両手を組んだ。緊張した顔だ。その表情を見て、カトリーヌの胸に、小さな不安が生じた。


「何ですか」


「きみは僕を愛しているかどうか、答えてくれないか」


唐突な質問だった。カトリーヌは戸惑った。


「聞かなくても、わかってるでしょう」


「そうだね。きみも僕も、このことばかりは、はっきりしている」


マルクは一息つくと、カウンター奥の主人に目配せした。主人はゆっくり新聞を折り、奥の戸をくぐって消えた。カトリーヌは不思議に思った。


「マルク。何をしてるの」


「きみに、本当のことを言う。きみが僕を信じてくれるなら、の話だがね」


その時点で、カトリーヌの心臓は再び高鳴り始めていた。ただし、それは愛する者を前にした高揚ではなく、未知の何かが迫り来るという危機感だった。占領下のパリ。ひそやかなカフェ。主人を追い出すような男の真摯な目。すべてが、何か大事な、そして危険な告白の前兆に見えた。


「わたしはね、カトリーヌ、バレエダンサーではないんだ」


「え」


「正確には、そうでもあり、そうでもない。僕の本当の仕事は……」


マルクはテーブルの上に両手を置き、カトリーヌの目をまっすぐ見た。その眼差しには、これまで見たことのない、強い信念が宿っていた。


「フランスのために働くことだ」


カトリーヌの息が止まった。


「フランスのために、って」


「占領下のパリで、そして占領軍に対してね。きみも気づいているだろう。ドイツ軍はフランスを支配している。食料は配給制。新聞は検閲される。BBCのラジオを聞くことも禁止されている。でも、多くの人間は黙って耐え忍んでいる。退屈な日常を生きている」


カトリーヌの頭が、急速に冷えていくのを感じた。これは恋愛の続きではなく、違う次元の話だ。危険な話だ。


「きみのご兄弟は何もしていない。ご両親も、お姉さんも。世間話をして、配給の食料でぎりぎりの食事をして、夜間外出禁止令に従って、ドイツ軍の目を気にしながら生きている。それが普通だ。そこに疑問を持たない。いや、疑問を持つことを、怖いから避けている」


「だからって、あなたはどうするつもりなの」


カトリーヌの声は小さかった。


「僕らはね、フランスを取り戻す準備をしている。ゆっくりと。静かに。だが確実に。情報を集め、配信し、時が来たら──」


「やめてください」


カトリーヌは立ち上がりそうになった。マルクが手を伸ばし、彼女の腕を取った。痛くない、優しい力だが、逃げられない拘束だ。


「聞いてくれ。僕は、きみを誘いに来たわけじゃない。まだ」


「では、何ですか」


「きみが、僕のことを愛しているなら。その愛が、本当なら。僕が何をしているのか、知る権利がある。そして、それでも僕を愛してくれるのか。または、ここから立ち去るのか。きみ自身で選んでほしい」


カトリーヌは、マルクの手の中で身動きができなくなっていた。逃げたい。でも、その同時に、逃げたくない自分を感じていた。


「どのくらい、危険ですか」


「きみが聞くべき質問ではない。知れば、きみも危険になるから」


「つまり、非常に危険ということですね」


マルクは、カトリーヌの腕を放した。彼女は座り直した。


「ゲシュタポが捕まえたら、拷問される。それが占領下のフランスの現実だ。死ぬこともある。しょっちゅうある」


事実のように、淡々と言った。それが余計に、恐ろしかった。


「なぜ、あなたはそんなことを」


「フランスを愛しているから。そして、きみを愛しているから、きみに嘘をつきたくない」


テーブルの上のコーヒーカップは、もはや装飾品だ。カトリーヌはそれを見つめた。黒い液体。苦い、命がけの品。


「もし、わたしが受け入れたら」


「まだ、そこまで話す段階ではない。まず、きみが、僕の秘密を守れるかどうか。そして、僕を信じられるのか。その二つを知りたい」


「信じられます」


カトリーヌは、そう言った。自分の声が誰のものなのか、わからなかった。


-----


## 中


その夜、カトリーヌは家に帰らず、姉のレティが住むマレ地区のアパートメントに行った。


二十九歳のレティは、それでも年下の妹より、どこか老けて見えた。仕事で疲れているのか、それとも戦争がそういう顔をさせるのか。レティはパリ医科大学で秘書をしていた。給料は薄く、業務は煩雑だ。占領軍との調整もある。


「どうしたの、こんな時間に」


レティはエプロンをとりながら、妹を見た。


「何でもないわ。レティに会いたかっただけなの」


「珍しいわね。相談事なら普通は兄さんとこに行くでしょう?」


クリスチャンのことだ。カトリーヌは心の中で、兄を思い出した。六歳年上の兄は、今日も仕事場に籠りきりなのだろう。いつもそうだ。ルシアン・ルロンのアトリエに朝から晩までいる。兄が何をしているのか、家族の誰も詳しく知らなかった。ドレスを作っているらしい。占領軍の夫人たちのためのドレス。それ以上の話は、兄からは聞かされたことがない。


「兄さんは、いつも忙しいでしょう」


カトリーヌは、レティの用意してくれたスープを飲んだ。かぼちゃと、何かわからない豆。栄養は薄いが、温かい。


「そうね。クリスチャンは、その仕事が好きなんだと思う。戦争が始まってから、兄さんは生き生きしているような気がする。それまでは、ずっと……」


レティは言葉を濁した。両親が失ったお金のこと。兄が無職だった時代のこと。家族の貧困。そういうことを、兄妹の間で言葉にすることは、ほとんどなかった。


「レティは、今の生活に満足している?」


「満足?」


レティは、妹の言葉に驚いたようだ。


「そういう問い方を、戦争中にするの?生きていることが満足よ。それ以上を求めるのは、贅沢というものよね」


「では、あなたは何かのために働いているわけではなく、ただ、生きるために働いているだけ?」


レティはスープを飲んでいた。顔を上げて、妹を見た。


「カトリーヌ、何か変よ」


「別に、何も」


カトリーヌは目をそらした。


「バレエダンサーと、何か話をしたの?」


「何、それ」


「だって、最近あなたは、マレ地区をうろついているでしょう。そして、ジャン=ポール・チュレット劇場の男性ダンサーと何度も会ってるって、お母さんの友人が言ってたの」


レティの目は、鋭かった。医科大学の秘書として、多くの情報が耳に入るのだろう。当然、占領軍から提供された情報も。


「あ、いえ……」


「誰なの、その男は」


「マルク・ボワイエです。バレエダンサーです」


レティはスープから目を落とした。


「マルク・ボワイエ。ポーランド系ね」


「はい。父親がポーランド人で、母親がフランス人です」


レティは席から立ち、窓を見た。マレ地区の夜景。ドイツ軍の車が、時々通りを走る。懐中電灯の光が、建物に当たっている。


「あなたは、その男とつき合ってるの?」


「はい」


「馬鹿なことをしちゃだめよ」


レティの声は、いつもより強かった。


「どうして?」


「彼奴が何をしているか、わかってるの?いえ、知らないでしょう。知らないから、そんなことが言える」


カトリーヌの心臓が、また高鳴った。レティが何かを知っているのだ。


「姉さんは、何を」


「何も。ただ、その男には、近づかない方がいいわ。彼は、占領軍の目付き役になっている。いえ、違う。彼は……」


レティは、言葉を切った。そしてカトリーヌを見た。その目は、妹を傷つけるかもしれない真実を見つめていた。


「彼は、抵抗勢力と関わっている。レジスタンスよ」


カトリーヌの世界が、少し傾いた。


「では、レティも知ってるのね」


「知らないわ」


レティは、そう言って、キッチンに行ってしまった。しかし、その背中は、すべてを物語っていた。レティは知っている。知っているが、言わない。言えない。


-----


## 下


バレエ。


翌週の日曜日、カトリーヌはジャン=ポール・チュレット劇場で、マルクが主演する新作を見た。


『アポロン』。ギリシャ神話を題材にした、幾何学的で、それでいて優雅なバレエだ。マルクはアポロンを演じた。彼の身体は、舞台の上で光そのものになった。音楽に導かれるというより、音楽を導いているように見えた。背筋の伸び。腕の描く線。足の運び。すべてが完璧な美しさだ。


カトリーヌは、涙が出そうになるのを感じた。


これが、彼の本当の顔なのだ。バレエダンサーとしての顔。公的で、誰もが見ることができ、検閲官も認めている顔。だが、その同じ男が、ゲシュタポから死ぬ寸前まで追われているかもしれない。そういう二重の人生を、彼は生きている。


公演の後、彼女はロビーで彼を待った。マルクは着替えて現れた。舞台上の輝きから、日常の暗さに戻っていた。それでも、彼の目には、何か変わらぬ光があった。


「見てくれたのか」


「ええ。素晴らしかったわ」


「ありがとう。きみの視線を感じていた。舞台の上から」


二人は劇場を出た。パリの夜。夜間外出禁止令の時間が近づいている。街灯の多くは消されていた。


「姉が、あなたのことを知ってます」


カトリーヌは、歩きながら言った。


「そうか。彼女は医科大学の秘書だからな。自然と知ることになる」


「で、あなたがレジスタンスだっていうことも」


マルクは足を止めた。


「そこまで、彼女は知ってるのか」


「わかりません。でも、あなたが……何をしているのかは、知ってます」


マルクは、彼女の肩を取った。彼らは路地裏に入った。暗い。街灯がない。


「きみの姉は、賢い女だ。そしておそらく、きみのことを守ろうとしている。だから、余計なことは言わない。知らないふりをする」


「では、あなたは本当に……」


「そうだ。僕は、フランスのために働いている。きみをそこに引き込むつもりはない。ただし」


マルクはカトリーヌの手を握った。握りつぶすのではなく、指を絡ませるように。


「きみが望むなら、選択肢をあげる。一つは、僕とこれまで通り付き合う。だが、僕が何をしているのかは知らない。知らない方が、きみのためだ。もう一つは」


「もう一つは」


「僕の世界に入る。危険を知る。そして、フランスのために、きみの力を使う」


カトリーヌの頭は、混乱していた。彼女は二十四歳で、裕福な家庭で何一つ苦労をしたことがない女性だ。戦争など、テーブルの上の話だった。だが、今、その戦争が、彼女の足もとで息をしていた。


「時間をください」


「もちろんだ。けれど、時間は少ないかもしれない。フランスは、毎日変わっている。連合国軍がドイツ軍に対して、少しずつ勢いを取り戻している。それが占領軍の焦りを生み、捜査を激化させている。きみが決断するなら、今がいい」


夜間外出禁止令の時間が迫っていた。ドイツ軍のパトロール車が、時々通り過ぎた。二人は、さらに暗い路地に身を隠した。


「あなたは、何のために」


カトリーヌが聞いた。


「何のためって」


「危険を冒してまで。死ぬかもしれないのに。なぜ」


マルクは、夜空を見上げた。雲一つない晴天の下、星が瞬いていた。占領下のパリの空でさえ、星は光っている。


「フランスを愛しているから。そして」


彼はカトリーヌを見た。


「きみを愛しているから」


その夜、カトリーヌ・ディオールは、人生の最大の決断をした。


翌日、彼女はマルクに返事をした。


「わたしも、フランスを愛してます。そして、あなたを愛してます。ですから」


「ですから」


「わたしを、その世界に連れていってください」


マルクの顔に、複雑な表情が浮かんだ。喜びと、心配と、責任感。すべてが一度に。


「後悔するなよ」


「後悔はしません」


それが本当だったのか、嘘だったのか。カトリーヌは、その時点では、まだ知らなかった。


六月の終わりに、彼女は自転車に乗ることを学び始めた。パリの街路を、素早く、目立たないように。スカートのスリット。ニット帽。毛皮のジャケット。すべてが、活動的な女性のための服装に変わった。


そして八月の初旬。彼女が初めての任務を受けた時、彼女はもはや、かつての裕福なブルジョワ娘ではなくなっていた。


フランスの地下で働く、一人の抵抗戦士に。


その選択が、どれほどの代償を彼女に強いるのか。その時の彼女は、想像さえしていなかった。愛する者のために、人生を左右する選択をすることの重さを、まだ知らなかった。


ただ、その時、彼女の心には、シンプルな確信があった。


フランスが沈んでいくのを、黙ってみていることはできない。


バレエダンサーの恋人が、毎晩その危険の中にいるなら。自分も、そこにいるべきだ。


そうして、カトリーヌ・ディオールの戦争は、始まったのである。


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