それぞれがここを持つ
五月の半ば、SOLITAIREは静かな午後を迎えていた。
エミリが来て、コーヒーを淹れた。アレンが来て、原稿の続きを書いた。
カエルはまだ旅に出ていた。ゼファーは今日は来なかった。
静かな日だった。
アレンが帰り際に言った。
「なあ、カイン」
「はい」
「俺は、ここが好きだ」
カインは少し間を置いた。
「ありがとうございます」
「それだけか」
「それだけです」
「もう少し言えよ」
「こちらも、アレン様がいてくださることは良いことだと思っています」
「……まあ、それくらいでいいか」
アレンは扉を出た。
エミリがカップを洗いながら言った。
「カインさん、この店、何年続けるつもりですか」
「できる限り、続けます」
「百年とか?」
「さすがに無理ですが」
「じゃあ、私が引き継ぎますね。来年商会に入ってからも、週に何日かは来ます。いつかカインさんが休みたくなったら、任せてください」
カインはエミリを見た。
「それは、ありがたいです」
「ありがたい、って言ってくれた」
「本当のことなので」
エミリはカップを拭きながら、窓の外を見た。
「カインさん、ここって、何人の人が居場所にしてるんでしょうね」
「数えたことはありませんが、今日だけでも、何人かがここを持っています」
「持っている、か。いい言い方ですね」
「カエル様が言っていた言葉から来ています。帰る場所の地図、というものです」
「地図か。じゃあ、みんながここの地図を持ってる」
「そうかもしれません」
エミリはランプの光を見た。
夕方になって、光が少し変わっていた。
「カインさんも、ここの地図を持ってますよね」
「はい。一番最初から持っています」
「それが一番大事かも」
「なぜですか」
「地図を作った人が、その地図を信じていないと、誰も信じられないから」
カインはその言葉を受け取った。
「……良いことを言いますね」
「カインさんのノートに書いてある言葉を、いつも読み返しているので。少し移ってきたかもしれない」
エミリは笑った。
「来年になっても、ここに来ます。ずっと」
「お待ちしています」
「ずっと、です」
「ずっと、お待ちしています」
エミリは荷物を持って、扉を開けた。
五月の夕暮れが、路地を柔らかく照らしていた。
扉が閉まった。
カインは一人で、静かな店内にいた。
窓の外には王都の夕暮れ。
棚にはゼファーの本。
窓際にはシルヴィアの花と、セラがくれた花。
どれもここにある。
ここにあるべきものが、ここにある。
カインはランプを一つだけ残して、閉店の準備を始めた。
椅子を上げながら、今日来た人たちのことを思った。
アレン、エミリ。
今日来なかった人たちのことも思った。
ゼファー、ミレイア、シルヴィア、クレイン、エルナ、ドグマ、リュート、タリア、セラ、エドワード、
ドルトン老司祭、カエル。
全員が、ここの地図を持っている。
そして、カインも持っている。
最後のランプを消した。
路地に出ると、夜の王都が広がっていた。
SOLITAIREは今夜も、路地の角に静かにあった。
丸窓は暗い。
でも明日、また灯りが入る。
それが続く限り、ここはある。
そしてここがある限り、それぞれの地図の上に、この場所は書き込まれ続ける。
カインは路地を歩き始めた。
今年も、まだ続いていく。




