エミリと春の予感
二月の終わり、春の気配が路地に漂い始めた頃、エミリがいつもと少し違う顔で来た。
明るい顔だったが、何かを考えている顔でもあった。
「どうしましたか」とカインが聞いた。
「父から話があって」
「商人のお父様が」
「はい。来年から、父の商会の一部を手伝ってほしいと言われました」
カインは黙って聞いた。
「私、ここで働きながら、商会の仕事もできるかどうかはわかりません。どちらかを選ばないといけないかもしれない」
「すぐに決めなければならないことですか」
「父は来年から、と言ってるので、今年いっぱいは考える時間があります」
「それは十分な時間ですね」
エミリはカウンターでコーヒーを淹れながら、続けた。
「カインさん、正直に聞いていいですか」
「どうぞ」
「私がいなくなっても、この店はやっていけますか」
カインは少し間を置いた。
「やっていけます。この店は、私一人で始めました」
「そうですよね。でも……そう聞いたのは、自分のために聞いたのかもしれないです」
「どういうことですか」
エミリはコーヒーを一杯淹れて、カインに差し出した。
「私がいなくても困らない、って言われると、少し寂しい。でも、私がいないと困る、って言われると、プレッシャーになる。どちらも嫌で」
カインはコーヒーを受け取った。
「では、どちらでもない答えを言います」
「どちらでもない?」
「エミリさんがいることで、この店は良くなっています。でも、いなければいないで、私はここを続けます。どちらも本当のことです」
エミリはしばらく考えた。
「……それが一番、正直ですね」
「はい」
「ありがとうございます」
エミリはカウンターを拭きながら言った。
「来年のことは、ゆっくり考えます。でも今は、まだここにいたい」
「いてください」
「うん。今日の春の匂いが、なんか、良い気がして。今年は良い一年になりそうだと思った」
カインは窓の外を見た。
石畳に、薄い春の光が差していた。
冬の終わりの光だった。
「そうですね。良い一年になると思います」
エミリは笑った。
「カインさん、たまに、そういうこと言いますよね。断言することがある」
「根拠はありませんが、そう思うときは言います」
「そういうところ、好きです」
カインは何も言わなかった。
でも、コーヒーのおかわりを、いつもより少しだけ早く持ってきた。




