第百六十一話:風に舞う雪、闇に踊る双月
俺は現在、看守の洞窟を目前に立ち往生している所だ。
──と、言うのも、目の前には双月兎、奴は看守の洞窟の入り口の前に居座っており、その周囲には洞窟から出てきた氷塊巨人の亡骸が転がっている。
「全くツイてないな…」
俺はヘレ氷原で過ごした約三年の間、ライアンと共にそのほぼ全域を踏破していた。
しかし、それでもこの双月兎に限っては俺自身特に苦手とする魔物だった。
時刻も夕刻、このまま夜を迎えれば黒い体毛に覆われた双月兎の姿を捉えられなくなる。
「不意打ちは無理…最初はセオリー通りに遠距離からだな…」
剣に魔力を纏わせ、離れた場所から双月兎目掛けてその切っ先を突き出すと、剣から放たれた炎の塊が放たれる。
そして炎の塊は双月兎のいた位置に当たると、爆発炎上し、その周辺の雪と氷を溶かして真っ白な水蒸気となって消え去った。
「まぁそう簡単にはいかない…なっ!」
「ギギッ!」
双月兎はその優れた聴力の所為か、はたまた野生の勘なのか、自身に降りかかる危険を察知すると直ぐに反応し、回避、接近、そして反撃を恐ろしい速度で仕掛けてくる。
主立った攻撃はその強靭な後脚から放たれる宙返りを伴った蹴りと鋭利な鉄の刃より切れる前歯による斬撃、噛み付きと、単純ではあるがその威力は非常に強烈でまともに喰らえばまず助からない一撃必殺と言える攻撃だ。
振り抜かれた前歯による斬撃を銀の剣で受け止めると、その強烈さ故に腕が痺れてしまう。
そこに双月兎はその名の由来とも言える、宙返りを伴った蹴り、所謂サマーソルトキックを重ねてきていた。
「ギッ!」
「うおぅっ!?」
紙一重で躱した双月兎の蹴りが耳の側を薙ぎ、それと同時に一度体勢を整える為に飛び込んで間合いを取る。
距離が遠すぎると判断したのか、双月兎は追撃を諦めると、また先程の様に洞窟の入り口の前で大人しい兎を演じ、可愛らしい姿で此方を見つめていた。
「全く…調子狂うな…」
双月兎はこのヘレ氷原に棲まう魔物でも特に強い魔物の一匹だ。
様々な種類の魔物が構成するヘレ氷原の中の生態系でも四肢獣種は平均から見れば最下位になるが、この双月兎だけは別格であり、魔物単位で言えば最上位の部類に位置する。
基本的に一定の周期で縄張りを移していく魔物であり、一度居つくとしばらくはそこから離れる事は無く、此方から近づいたり、襲ったりしない限りは攻撃を仕掛けて来る事は無い。だが一度近づいたり、攻撃を仕掛ければその本性を露わにして襲いかかってくる魔物だ。
受けからの返しが凶悪と言うに相応しく、俺は何度もこの魔物に仕掛けて返り討ちにあっては首を落とされ、瞬時に亡骸となった魔物を見てきた。
傍目にはただの殺人兎の亜種だが、その本性は最悪の魔物。それがわかっているから油断こそしないが、その素早さと小柄さ、そして見た目に反する膂力、魔術を使えば遠距離から面で制圧できるが、ここは魔術の使えない土地である為、せいぜい離れた場所から魔剣術でチマチマと攻撃するか思い切って白兵戦を挑む以外の選択肢は無い。
「やりにくいったらないな…っと!」
一旦距離を取って剣に風属性の魔力を纏わせた俺は、双月兎に向けてその刃を振り抜いた。
風を纏う刃から不可視のかまいたちを発生させ双月兎に向けて放つ──が、その刹那、双月兎が首を捻ると同時に太刀音が響き、かまいたちが掻き消されてしまう。
そして双月兎はその習性通り、報復を行う為に一気に俺の懐へと迫る。
「…よし、ここまでは計算通り…!」
「ギッ!」
懐に入り込んだ双月兎の蹴りが炸裂する
それを銀の剣で受けると、その防御をこじ開けられてしまう。
「ギギッ!」
双月兎は三日月を思わせる弧を描く蹴りを放った後、その身体はまだ縦の回転を続けていた。
「…まさかっ…!」
「ギィッ!」
攻撃を受け止めて多少気が緩んでいたが、一瞬見えた双月兎の眼から殺気を感じ、咄嗟にライアンから渡されていた鎧通しに手を掛ける。
その直後、俺の正中線を狙い、双月兎の脚から三日月の弧を描く軌跡が伸びてくると、直撃を受ける寸前で鎧通しの鍔をねじ込ませていた。
「…左手一本じゃ…!」
強烈な蹴りを受け止めた鎧通しが上空へ弾き飛ばされると同時にまた左手が痺れてしまうが、双月兎の回転も止まる。
"あり得るとすればもう一手"、そう考えて銀の剣を翳すと、双月兎の頭が僅かに動く。
前歯による鋭い斬撃が俺の胴狙いで一閃、鋭い音が辺りに木霊した。
「…くぅ、強烈っ…!」
斬撃を剣で受け止めはしたが、その威力に押されて俺自身も仰け反ってしまう。
それと同時に弾き飛ばされていた鎧通しが側に落ちると、双月兎は再び蹴りの体勢を取っていた。
「しまっ…!」
「ギギィッ!」
直前の攻撃をまともに受け止めた事で体勢を崩されてしまい、更なる攻撃を防ぐ手段は無い。
最早万事休す。──かと、思っていた瞬間、俺の顔の横をまた双月兎の蹴りが通り過ぎ、その風圧で雪が捲き上る。
「外れた…?…いや、外したのかっ!」
すぐに双月兎から離れ、剣を構えるも、やはり奴は追撃を仕掛けてくる気配は無い。ただ少なからず、俺の存在の認識だけはしている様で此方を睨みつけてはいる。
「どういう事だ…?」
双月兎は俺の動きに警戒こそしているが、仕掛けてくる様子はやはり無く、そのまま縄張りに戻っていく。
どうやらこの魔物には攻撃、反撃をしてくる何かしらの条件がある様だ。
今までに仕掛けた時の事例を基に、何が報復攻撃の対象となるのか、何が双月兎の敵愾心を煽るのか、それを理解する事が攻略の最短経路なのだろう。
そうと決めた俺は立ち上がり、雪に刺さった鎧通しを回収した後、雪を手の中に握り込んでいた。
「もし予想が合ってれば…、そらっ!」
手の中で作った雪玉が真っ直ぐに双月兎へ向かって飛んで行く。
反撃に備えて身構えているが、双月兎は飛んできた雪玉を蹴り飛ばすと、そのまま着地して少し辺りを見回した後に再び縄張りの中から此方を睨み始めた。
「…やっぱりか。じゃあこれはどうだっ!」
今度は雪玉を双月兎を狙わず、洞窟の岩壁に投げつける。
明後日の方向に投げつけた雪玉は双月兎の近くを通り過ぎると、そのまま壁に当たって粉々に弾け飛んだ。
双月兎はと言うと、通り過ぎた雪玉に全く反応を示す事も無く、雪玉が壁に当たって弾ける瞬間になって漸く長い耳を立てただけだ。
そして身体を起こして周囲を警戒し、何も脅威が迫って来ないと判断すると、身体を丸めてしまう。
「じゃあ…こうしたら…」
両手にそれぞれ剣を持ち、右手の銀の剣に魔力を纏わせて炎の玉を双月兎へと放つ。予想が正しければ最低でも一度は反撃を仕掛けてくる筈だ。
炎の玉が雪を溶かしながら双月兎へと向かうと、双月兎の眼の色が変わる。
双月兎は炎の玉を躱しながら、一気に距離を詰めてくると三度、反撃として蹴りを仕掛けてくるが、今度は予め回避する体勢を取っていた為、蹴りが飛んでくる寸前、後方へ宙返りをして難無く回避する。
そして着地の寸前、双月兎の足元へ鎧通しを投げると、雪の上に刺さった鎧通しのある方向に向けて二度目の蹴りが放たれ空を切る。
その一部始終を見て俺の予想は漸く確信に辿り着いた。
双月兎はその長い耳で音と魔素の流れを読み、そうやって世界を見ているのだ。
二つの眼も恐らく見えてはいるのだろうが、決して静止視力がいい訳では無く、かなり大雑把にしか見えてはいないと考えられる。
故に近づいてくるものが人か、雪玉か、石かすらも判断は出来ていない、だが逆に動体視力はかなりの物で、迫ってきた脅威に対して悉く反応できているのはその為だろう。
取り分け魔素の動き、それと音には目敏く反応するという事がわかったならば対策も取り様がある。
「行くぞっ!」
俺が掛け声を上げると同時に双月兎は耳を立てて身構える。
身構える双月兎の側面に回り込む様に弧を描きながら雪玉を投げつけると奴は前歯を振り回してそれに対抗し、次々に迎撃してゆく。
小細工が通用するとは思ってはいないが、せいぜい目眩しにでもなれば充分だ。
次に俺は銀の剣に魔力を纏わせて爆風を起こし、雪を巻き上げると、左手の鎧通しに魔力を纏わせた。
「さあどう出てくる!」
魔素の動きに過剰に反応する双月兎がどう動くか、それ次第でここで仕留めに掛かるか、もう一度仕切り直すかが決まる。
「ギキッ…!」
巻き上がった雪の中から黒い姿が現れる。
双月兎はどうやら此方の誘いに乗ってきたらしい。
「ここだっ!」
魔力を纏わせた鎧通しを姿を現した双月兎の足元へ投げると雪の下にある地面から土の柱を生やして双月兎を下から突き上げる。
飛び道具には反応できても、遠隔から地面を操り、突き上げるといった芸当には流石の双月兎も対応仕切れない様で、小さく黒い身体は無防備に夕闇の雪原の空へと浮き上がっていた。
「今度こそ仕留めてやるっ!」
「ギイィッ…!」
銀の剣を構えて、宙を舞う双月兎に向けて跳躍すると、双月兎もまたそれに屈するつもりは無い様で、二つの赤い瞳で俺を睨む。
剣を振りかぶり斬りつける刹那、双月兎の二本の白い後脚もまた、雪の舞う夕闇に二つの三日月を描く。
「ぐうっ…!」
「ギイッ…!」
鈍い打撲音が二つ鳴り、青い血が夕闇に舞う。
俺と双月兎は空中で痛み分けと言う形になり、そのまま雪の積もる地面へと墜ちていた。
双月兎の強烈な蹴りを左肩に二発受け、鈍く激しい痛みに耐えながら起き上がると、少し遅れて兎の脚が雪の上に落ち、青い血を滲ませる。──脚の毛は黒い、斬り落としたのは後脚ではなく、前脚だ。
視線を上げるとそこには左の前脚を失った双月兎が此方を真っ赤な瞳で睨んでいる。
その気配は先程よりも凶悪な怒気を孕んでおり、どうやら相当にお冠の様子だ。
「痛っ…!…お互い受けた傷は浅くは無い、か…」
肩に力が入らず、左腕が上がらない。
相討ちとなった時に受けた二発の蹴りによって肩の骨が折れてしまったのだろう。
だが対する双月兎も左前脚を失っており、左腕が使えないと言う意味では状況は五分だ。
それに此方に関しては骨こそ折られはしたが出血は無く、それに引き換え、双月兎は前脚を断たれた部分からそれなりの出血がある。体躯に対する出血量はかなりの量であり、超回復能力でも無い限りは自然に失血死も考えられる程だ。
「フーッ!フーッ…!ギギィッ!」
「どうもそう簡単にはそうさせてはくれそうにないみたいだな…」
大きな傷を負った事で双月兎は怒っているのか、よく見れば口は大きく裂け、剥き出しにした歯の中に幾つかの肉食の四肢獣種に見られる鋭い牙を覗かせており、本来の凶暴性を露わにした、と言った所だ。
鋭い牙もそれぞれが意思を持った様に動いており、それまでの可愛らしい兎の姿など完全に無く、ただただ禍々しい魔物の姿がそこにあるだけ。
「キュルルォォーーンッ!」
「鳴き声まで変わった…!?」
怒りから本性を現し、変貌した双月兎が狼を思わせる遠吠えを上げると、突如として切断された前脚の出血も止まる。
姿も鳴き声も変わり、無理矢理出血を止めた双月兎は周囲の積雪を目にも留まらぬ速さで抉り回り、抉り上げられて散った雪が渦となって巻き上げられていた。
陽は既に落ち、昇ってきた月に照らし出された脚が渦の中に無数の三日月を描く。
「巻き込まれたらひとたまりもないな…!」
俺の眼の前で渦の中へ引き込まれた枝葉が一瞬で微塵切りになり、雪と共に巻き上げられる。
この渦の中では双月兎がその牙を操り暴れ回っており、さながら双月兎がそのまま竜巻となったかの様にすら思える程だ。
「仕留め損ねた結果がこれかっ!冗談じゃないっ!」
自ら竜巻となって迫る双月兎から距離を取る為に後方へ退がる。
双月兎は竜巻になったまま此方を追いかけてきており、途中にあった岩や樹木は削り取られる様に姿を消していた。
これでは白兵戦など挑めたものでは無く、まずは距離を取らない事にはどうしようも無いが、逃げても逃げても双月兎との差は変わらない。
巻き込まれたものを悉く塵芥に変え、旋風と共に消し去る最悪の状態だ。
日中であればあるいは竜巻の中で暴れ回る双月兎の姿を捉えられたのかも知れないが、時刻は既に夜を迎え、見えているのは双月兎の後脚が描く軌跡と巻き上げられる雪だけである。
「押し返せたら儲け物ってとこか…!喰らえっ!」
逃げながら竜巻に向け、銀の剣から爆風を放つと、その爆風に乗って僅かに竜巻との距離を離す。
爆風を受けた竜巻もまた、僅かにその動きを止めていた。
そんな折、足元に先程投げた鎧通しが空から落ちてくる。どうやら双月兎の巻き起こした竜巻に巻き上げられていた様だが、岩すらも抉る程の攻撃に晒されながらも全く欠ける事すら無く、完全な状態で戻ってきていた。
「ライアンの息子さん、ユークリウスさんだったっけか、確かにいい剣だ…!」
左肩は折れているが指は動くし魔素も流れる。少しばかりの激痛を耐えながら左手で落ちている鎧通しを拾い上げた。
燻んだ銅の様な褐色の刀身に魔素を送り込み最大限の魔力を纏わせると、その刀身から火花が迸る。
右手にある銀の剣にも魔素を流し込みながら、再び迫ろうとする竜巻に向け、火花を散らす鎧通しを垂れ下がる左肩を使って放り投げる。
「っ…!…器用さと応用力には少しばかり自信があってね…!」
竜巻に投げつけた鎧通しが電撃を辺りに撒き散らすと、竜巻の発生源である双月兎に命中したのか、引き込む風が僅かに弱まっていた。
続けて俺は銀の剣に魔素を送り切って魔力に形成すると、纏わせた魔力を炎に変えて剣を薙ぎ払い、弱まった竜巻へと解き放つ。
薙ぎ払った剣から解き放たれた炎は波打ちながら竜巻へと引き込まれると竜巻の中で煌々と燃え盛り、双月兎を灼きつつ、闇に溶け込んだその姿を照らし出していた。
「姿さえ見えればっ!」
双月兎は炎に巻かれ動きを止めると、同時に自身が引き起こしていた竜巻も巻き込んでいた炎と一緒に火の粉を飛ばして霧散する。
双月兎は着地すると同時に身を包む炎を消す為に雪の上を転げ回り暴れていたが、魔力から生み出された炎は簡単には消えず、双月兎の小さな体躯を灼き続けていた。
「…キュルルゥゥ…!」
ただでさえ大量の出血で弱っていた双月兎だ、漸く身を包んでいた炎を消したが、全身に火傷を負った事でついに力尽き、消え入りそうな鳴き声を上げて此方を見つめている。
「痛た…、悪いけどこっちはここを通りたいだけだ。そっちだって殺そうとしてきた以上、殺されたって文句は無い筈だ」
言葉が通じる訳でも無いのはわかっている。
だが双月兎の瞳に見つめられ、何故かそう言い訳をしなければならない様な気に駆られていた。
「ギッ…」
拾い直した鎧通しを横たえた双月兎の首に突き立てると、俺はすぐに荷物を降ろし、鞄の中から薬草と梟熊の心臓を併せて作った丸薬を取り出し口にする。
「流石にこの薬でも数日はかかりそうだ…脱出開始からこれじゃ先が思いやられる…なっ、痛たたた…」
薬を飲んですぐに鞄から古い布切れを取り出して骨折した左肩を固定する。
一日でも早く脱出したい所ではあるが、洞窟の中に潜むのはあの帝烏賊を超えるSS級の魔物だ、片腕が使えない状態でそんな魔物とは対峙など出来はしない。
遭遇しないに越した事は無いが、万が一遭遇してしまった場合に備えて万全の状態で臨むべきだ。
「仕方ない、…多分数日で治るとは思うけど完治するまではここでキャンプだな…」
洞窟側の岩壁を背に野営の準備を独り始める。
夜空を見上げると雪を降らし続ける寒雲の切れ間に美しい三日月が踊っていた。




