第八章断章B:皇帝の帰還、忙殺の宰相
『宰相殿、皇帝陛下が間も無く御帰還されるそうです』
『やれやれ…殿下も殿下なら陛下も陛下であるからして…。年寄りに連日に渡る早駆けなど無茶をさせないで欲しいものですな…あたた、腰が…』
一足先に帰還していたドニは兵士より皇帝ティグリオンの帰還の報せを聴くと謁見の間から杖をつきながら非常にゆっくりとした速度で迎えにあがる。
彼は数日間に渡って縞駿馬に乗り続けていた事で完全に腰を痛めており、持ち前の忍耐力と精神力で身体を支えながらやっと歩ける程だった。
『はぁ…はぁ…老骨には堪えますな…全く、この後もまだまだやらねばならぬ執務が目白押しであるからして、…あだだだ』
普段、ティグリオンの前では文句一つ溢さずに粛々と仕事をこなしている宰相ドニも今日ばかりは兵士の前であるにも関わらず愚痴を溢している。
『陛下御帰還!』
皇帝着きの近衛兵が宮殿のエントランスで声を張り上げると同時に整列した兵士達が跪く。
兵士達の前を歩きながらティグリオンが真紅の外套を翻すとドニは通路の途中で跪いて出迎えにきていた。
『お帰りなさいませ、陛下』
『うむ、変わりないか?』
『何一つ。私の不在の間も変わった事は何もないと皇后陛下も申しておりましたので』
『そうか、ならばよい。ご苦労だったなドニ。今日は存分に休め』
ティグリオンが通り過ぎると同時にドニは立ち上がり、ティグリオンの問いに対して報告する。
報告を受けたティグリオンはドニに労いの言葉をかけると休む様に言うが、ドニは首を振る。
『陛下がお休みになられぬと言うのに、何故私だけが休めましょうか。グリオネール殿下が旅に出られた為、後任の兵士長も決めねばなりませぬからしてまだまだ休む訳には…』
『ならばグリオネールに付いていた近衛がいよう?』
『ノアール・キャトリニア、ですか…、彼女は…』
ティグリオンが兵士長の後任に推したのはノアールだ。だが彼女はドニがセオドア達を追っている間に宮殿へと戻ると兵士達に傷を負わせた事を理由に自ら牢へと入っていた。
ドニが宮殿に戻ってきた時にその事を耳にした彼はその日の内に彼女を説得しに牢まで赴いたものの"お咎めなしに出る事はできない"と、頑として聞かず、未だ牢から出るつもりは無いらしい。
『…いや、わかりました。ではその様にしますからして…、陛下は如何致しましょう?』
『流石に今回は余も疲れた、其方も疲れていよう、余に遠慮せず休むがよい』
『かしこまりました。では外套だけお預かり致しましょう』
『うむ』
ティグリオンはドニに外套を預けるとそのまま階段を上がり、自室へと向かう。
『…とは言われたものの、このまま休む訳には参りますまいて…』
ドニは兵士を呼び付けてティグリオンから預かった真紅の外套を渡すと、彼は腰を軽く叩きながら執務室へと向かう。
『さてさて…近衛兵長をこれ以上放置、と言う訳にも参りませんからな、と…』
ドニは羊皮紙を一枚取り、筆を走らせる。
彼は一枚の書状を認めると自らの署名と手形を押す。
その書状をすぐにリボンで留めると兵士長の階級章の刻まれた鎧を引き連れた兵士に持たせてノアールが入っている地下の牢獄へと向かう。
牢獄の再奥には近衛兵の鎧を脱いだノアールが壁にもたれかかったまま腕を組んでいた。
『やれやれ…自ら牢に入るとは奇特な…』
『自ら部下を傷つけた以上は落とし前はつけなければ、部下に対して示しがつきませんから』
ノアールは目を閉じたままドニに答える。
『そろそろ出てもらわねば困りますな。七日間も居れば十分でありましょう』
『そういうものでは無いかと。このまま出ればお咎め無しも同然ですので』
ノアールは頑としてこのまま牢を出るのは良しとせず、自らの戒めとしてこの牢に入る事を選んだ。
『やれやれ…そういうかと思いましたが…陛下からの命故、出ていただきますぞ』
そう言ってドニは先程認めたばかりの書状の封を解き、ノアールの前に広げてみせた。
『降格…、兵士長ですか』
『名目上は降格にはなるものの、これは降格ではなく殿下の後任として前向きに捉えて頂きたい。殿下の志を引き継いで頂けるのはノアール兵士長、貴女しかおりませぬ故』
ドニがそう言いながら牢屋の錠を外すと、兵士達は重い鉄格子の扉に手を掛けて一気に押し開いた。
『謹んでお受け致しましょう。殿下が旅から戻って来た時に、殿下が思い描くガルマリアで迎えられるように』
ノアールはもたれ掛かっていた壁から離れると牢獄を出て兵士から鎧を受け取り身に付ける。
『では手始めに市街へと参ります。それでは』
ドニに敬礼をしながらそう言うと、彼女は胸を張ったまま一人、上階へと去っていった。
『さて、次は皇女殿下の方…ですかな』
ノアールを見送ったドニは腰の痛みに耐えながら今度は地下から三階にある皇女レオナの私室へと向かった。
『…はぁーだだだ…やれやれ…』
長い階段を登りきったドニは通路の手摺に手をついて腰を伸ばす。
御歳百三十歳を超え、長寿で知られる亀人種でも特に高齢であるドニにとって三階層分の移動は普段でも辛い。
ただでさえガルマリア〜プラットン間の往復で十数日に亘る早駆けを続け、既に腰が悲鳴を上げている状態の彼にとっては拷問を受けている様にすら思える程だ。
『ぬぐぐ…なんのこれしき…!』
腰を伸ばし、息を整え、彼は歯をくいしばって身体を引きずる様に足を踏み出す。
廊下の壁や扉に手をついて少しずつ廊下をゆっくりとした足取りで進み、時間をかけて漸く皇女レオナの私室の前まで辿り着くと彼はその扉を弱々しく叩いた。
『…どなた?』
『宰相のドニで御座いますからして…』
『どうぞ』
入室の許可が下りると共に内側からレオナが扉を開くと、ドニは小さく頭を下げて部屋の奥へと進む。
先程までの足取りとは異なり、彼は少し腰を曲げてはいるが、しっかりとした足取りだ。流石に皇女の前である為、彼は腰の痛みに耐えて普段通りの姿を見せている。
『どうぞおかけになって。ドニも疲れているでしょう?』
『御心遣い感謝致します。では失礼して…』
レオナはドニに椅子に腰掛ける様に促すと、そのまま磁器製のティーセットの準備を始めた。
『紅茶でいいかしら?』
『どうぞお構い無く、用件を話したら直ぐに出ます故…』
『そうもいかないわ、私の方も聞きたい事があるの。付き合ってもらうわよ』
断るドニの言い訳を厳しい口調で遮ったレオナは紅茶を淹れ始める。
気圧されてしまったドニは椅子に腰掛けると両肘をついて手を組み顔を伏せると"やれやれ"と、彼女に聞こえない程に小さな声で漏らしていた。
少し待っていると紅茶を淹れ終えたレオナは二人分のティーカップの乗ったソーサーを手に、テーブルへと戻って来た。
『どうぞ』
『…どうも』
『…まずは其方の用件から聞こうかしらね』
『わかりました、では…』
二人はまだ熱い紅茶に一口ずつ口をつけると話を始めた。
ーーー
『…以上となります。…引き受けて頂けますかな?』
『ええ、いずれは誰かがやらなければならないのならば引き受けるわ。だったら出来るのは私かノアールぐらいじゃないかしら、だったらグリオネールの為にも私がやるべきではなくて?』
『…楽な仕事ではありませぬぞ? 時に自らの手を汚す事もありますからして、覚悟の程はよろしいですかな?』
『勿論よ。血を分けた弟の為なら悪魔にだってなれるわ』
話が終わり、ドニはある件についてレオナに打診した。
その件についてレオナが直ぐに引き受ける旨を伝え、ドニは念を押す様に覚悟を問い返すが、彼女はドニの双眸を真っ直ぐに見据えたまま躊躇なく問いに答える。
『…では明日より私と行動を共にして頂きますからして、宜しくお願い致しますぞ』
『ええ。…で、今度はこちらの話を聞いてもらうわね』
ドニの話が終わり、彼は一瞬席を立とうとするが、レオナは間髪入れずに話を切り返す。
彼女に誤魔化しは利かず、ドニは席に着き直して息を吐いた。
『まずグリオネールはセオドア様達と無事に国出れたのかしら?』
『はい無事に。予定通りに航海が進んでおれば今頃は大魔大陸の沿岸が見えるまで十日足らずの位置でしょうな』
『そう、だったらいいのだけれど。食料や水は大丈夫なのかしら、それに…』
レオナはグリオネールの事が心配なのか、最初のドニの返答以降はドニが返答する前から矢継ぎ早に質問を重ねる。
『…皇子殿下の事が心配ですかな?』
返答を返す間も無く畳み掛ける質問に呆れてしまったドニは嘆息しながらそう一言返す。
『そうじゃないわ、だけれど家族であると同時に次のガルム皇帝であるグリオネールにもしもがあったら…いえそれもセオドア様達がついているから心配はないのだけれど、万が一、万が一と言う事も考えられるわ、ただ私は…』
ドニは藪蛇を突いてしまった。
半ば逆上気味となったレオナは口を早めており最早返答する間すらない。
早く話を終えて床に就きたいドニは窓越しのまだまだ明ける気配の無い曇った夜空を遠い目で眺めていた。




