↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
三日月の娘、絢爛の王宮に立つ ~戦争捕虜から王の愛妾へ、ある女性の生涯~  作者: ねこまねどり


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
4/6

第4話 王の四杯目

 一七〇一年、私はドレスデンへ行った。

 アウロラ様の妹君、アマーリエ様への手紙を預かっていた。アマーリエ様はザクセン軍のレーヴェンハウプト将軍の奥方で、ドレスデンに住んでいた。

 馬車がエルベ川の石橋に差しかかると、淡い黄土色の砂岩の城壁が、水際からまっすぐ立ち上がっているのが見えた。

 窓を少し開けると、泥と、焼きたてのライ麦パンの匂いが入ってきた。ウイヴァルの川べりの匂いに、少しだけ似ていた。


 レーヴェンハウプト家の屋敷は、城からほど近い石畳の通りにあった。

 屋敷に滞在していたとき、王が訪ねてきた。

 王は私を見ると、すぐに思い出したようだった。


「アウロラのところにいたトルコの女だな」


「はい、陛下」


「コーヒーは淹れられるか」


「はい」


「本物のトルコのものが飲みたい。どこに行っても、泥水みたいな味がするんだ」


 ストックホルムで、アウロラ様に淹れ方を話した日が頭を過(よぎ)る。


「銅の小鍋(カスロール)をいただければ、淹れられます」


「小鍋なら百でも用意させよう」


 王は膝を叩いて笑う。座っていた椅子が、ぎしりと鳴った。

 百もいらないと言いかけて、私は黙った。


 銅の小鍋(カスロール)は、本当に届いた。百ではなく、三つだったけれど。

 磨きたての銅が、台所の火を映して赤く光った。


 王が淹れるところを見たいと言うので、私はレーヴェンハウプト家の台所で豆を煎った。

 鉄の平鍋に豆を広げ、木べらで絶えずかき混ぜる。豆はぱちぱちと爆ぜながら、栗色から焦げ茶へ変わっていく。

 焦げる手前の、甘くて苦い匂いが立ちのぼった。


 煙が出ると、使用人たちが窓を開けに走った。

 豆を真鍮の乳鉢に移し、指が痛くなるほど細かく挽く。

 それを水と砂糖と一緒に小鍋(カスロール)へ入れる。

 泡が上がったら火から外し、落ち着いたら戻す。

 先生に教わったとおり、三回繰り返した。


 小さな杯に注いで差し出した。王が大切にしているという、東洋渡りの白磁の杯だ。青い絵付けの小鳥が、縁を回っている。

 王はそれを指でつまむように持った。あの人の手の中では、子どものおもちゃに見えた。


 一口、二口と飲んでも、何も言わない。口に合わなかったのだろうか。


「泥水じゃないな」


「ありがとうございます」


「褒めたつもりはない。驚いたんだ」


 王はそのあと三杯おかわりをした。


 ◇◇◇


 それから、王に呼ばれる日が増えた。

 レーヴェンハウプト家のこともあれば、宮廷の一室のこともあった。私はそこでコーヒーを淹れる。


 王は飲みながら、ウイヴァルの話を聞きたがった。

 市場に何があったかと尋ねられ、香辛料や絨毯や銅器の店の話をした。

 羊が通りをふさいで、荷車が立ち往生したこと。値切る客と店主の掛け合い。


「おまえも値切ったのか」


「はい。一番うまかったのは近所の奥さんでした。私は二番目です」


「二番目か。うちの財務官より役に立ちそうだ」


 王が笑うと、また椅子が鳴った。


 ◇◇◇


 あの人はトルコの品を好んだ。


 ある祝祭では、宮廷の庭にトルコ風の天幕を張らせ、廷臣たちもターバン姿で出てきた。

 天幕は深紅の布地に金の縁取りで、内側には花と蔓の模様が縫い取られていた。床には絨毯が何枚も重ねてある。


 廷臣たちの衣装はまちまちだった。

 絹の長衣をきちんと着こなす人もいれば、普段の上着に布を巻きつけただけの人もいる。誰かのターバンは、どう見ても寝台の敷布だった。

 ウイヴァルの人が見たら、何の祭りかと首をかしげただろう。


 王は金の刺繍の長衣にターバンを巻いていた。天幕の前で両腕を広げ、私に聞いた。


「どうだ、本物に見えるか」


 廷臣たちがこちらを見る。

 よくお似合いですと答えれば済んだのに、気になったところが口から出た。


「ターバンの巻きが、緩いです」


 まわりが静まり返る。

 王は頭に手をやり、それから天幕が揺れるほどの声で笑った。


「直してくれ。今すぐだ」


 私は王の前でターバンをほどき、先生がいつもしていた巻き方に直した。

 王はその間、子どもみたいにおとなしくしていた。

 背の高い人なので、王は座っていたのに、私は爪先立ちにならなければならなかった。


 その日の祝祭で、きれいにターバンを巻いていたのは王ひとりだった。


 ◇◇◇


 ある日、王はコーヒーの杯を置いて、ハンガリーで戦った話をした。


「俺も皇帝軍に加わって、オスマン軍と戦った」


 宮廷の人たちが自慢げに話していたから、私も知っている。選帝侯だったころ、王は皇帝軍の総大将としてハンガリーへ行ったのだ。


「ウイヴァルにはいなかったが。……だが、同じようなことをした」


 私は何も言わず、四杯目を淹れた。

 王はいつもよりゆっくり飲んだ。


 あの日のことは、あとで何度か思い返した。もしあそこで謝られていたら、私はこの人を嫌いになっていただろう。


 ◇◇◇


 私が取り次ぎの者にマリア・アウロラと名乗るのを聞いて、王が言った。


「アウロラという名前は紛らわしい」


「アウロラ様にも、そう言われました」


「もとの名前はファティマだったな」


「はい」


 王は確かめるように、もう一度私の名を口にした。

 エルスキン男爵よりも、正しい発音だった。


「どういう由来なんだ」


「預言者の娘の名です」


「それなら俺より家柄がいいな」


 冗談だとわかっていたのに、胸がつまった。

 その名を親しげに呼ばれると、先生に呼ばれていたころを思い出す。


 ◇◇◇


 王の宮廷は、ドレスデンとワルシャワを行き来した。私もそれについていった。


 ワルシャワは、ヴィスワ川の高い岸に張りついた街だった。

 赤い煉瓦の王宮が川を見下ろし、そこから延びる通りに、貴族の館と木造の家が入り混じって並んでいる。


 ポーランドの貴族たちは、ドレスデンの廷臣とはまるで違う装いをしていた。

 踝まで届く長い上衣に、幅の広い絹の帯。頭は耳の上まで剃り上げ、てっぺんにだけ髪を残している。

 初めて見たとき、懐かしいと思った。ウイヴァルで見た姿によく似ていたから。

 あとで聞くと、彼らはその装いを東から学んだのだという。


 やがて、王に呼ばれるのは夜になった。


 アウロラ様には、自分の口から言わなければと思った。

 けれど彼女はクヴェードリンブルクと各地を行き来していて、なかなか会えない。女子参事会の仕事に打ち込んでいたのだ。


 私は思い切って手紙を出した。


 返事には、身の振り方を考えるようにとあった。

 王の子を産むことになったら、その子の将来について口約束で満足してはならない、とも。


 封蝋には見慣れた紋章が押されていた。紙から、彼女の使うオレンジの花の香水がかすかに香る。

 私は手紙を畳んで、箱にしまった。

 アウロラ様が何を思ってそう書いたのかは、わからなかった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。