第4話 王の四杯目
一七〇一年、私はドレスデンへ行った。
アウロラ様の妹君、アマーリエ様への手紙を預かっていた。アマーリエ様はザクセン軍のレーヴェンハウプト将軍の奥方で、ドレスデンに住んでいた。
馬車がエルベ川の石橋に差しかかると、淡い黄土色の砂岩の城壁が、水際からまっすぐ立ち上がっているのが見えた。
窓を少し開けると、泥と、焼きたてのライ麦パンの匂いが入ってきた。ウイヴァルの川べりの匂いに、少しだけ似ていた。
レーヴェンハウプト家の屋敷は、城からほど近い石畳の通りにあった。
屋敷に滞在していたとき、王が訪ねてきた。
王は私を見ると、すぐに思い出したようだった。
「アウロラのところにいたトルコの女だな」
「はい、陛下」
「コーヒーは淹れられるか」
「はい」
「本物のトルコのものが飲みたい。どこに行っても、泥水みたいな味がするんだ」
ストックホルムで、アウロラ様に淹れ方を話した日が頭を過る。
「銅の小鍋をいただければ、淹れられます」
「小鍋なら百でも用意させよう」
王は膝を叩いて笑う。座っていた椅子が、ぎしりと鳴った。
百もいらないと言いかけて、私は黙った。
銅の小鍋は、本当に届いた。百ではなく、三つだったけれど。
磨きたての銅が、台所の火を映して赤く光った。
王が淹れるところを見たいと言うので、私はレーヴェンハウプト家の台所で豆を煎った。
鉄の平鍋に豆を広げ、木べらで絶えずかき混ぜる。豆はぱちぱちと爆ぜながら、栗色から焦げ茶へ変わっていく。
焦げる手前の、甘くて苦い匂いが立ちのぼった。
煙が出ると、使用人たちが窓を開けに走った。
豆を真鍮の乳鉢に移し、指が痛くなるほど細かく挽く。
それを水と砂糖と一緒に小鍋へ入れる。
泡が上がったら火から外し、落ち着いたら戻す。
先生に教わったとおり、三回繰り返した。
小さな杯に注いで差し出した。王が大切にしているという、東洋渡りの白磁の杯だ。青い絵付けの小鳥が、縁を回っている。
王はそれを指でつまむように持った。あの人の手の中では、子どものおもちゃに見えた。
一口、二口と飲んでも、何も言わない。口に合わなかったのだろうか。
「泥水じゃないな」
「ありがとうございます」
「褒めたつもりはない。驚いたんだ」
王はそのあと三杯おかわりをした。
◇◇◇
それから、王に呼ばれる日が増えた。
レーヴェンハウプト家のこともあれば、宮廷の一室のこともあった。私はそこでコーヒーを淹れる。
王は飲みながら、ウイヴァルの話を聞きたがった。
市場に何があったかと尋ねられ、香辛料や絨毯や銅器の店の話をした。
羊が通りをふさいで、荷車が立ち往生したこと。値切る客と店主の掛け合い。
「おまえも値切ったのか」
「はい。一番うまかったのは近所の奥さんでした。私は二番目です」
「二番目か。うちの財務官より役に立ちそうだ」
王が笑うと、また椅子が鳴った。
◇◇◇
あの人はトルコの品を好んだ。
ある祝祭では、宮廷の庭にトルコ風の天幕を張らせ、廷臣たちもターバン姿で出てきた。
天幕は深紅の布地に金の縁取りで、内側には花と蔓の模様が縫い取られていた。床には絨毯が何枚も重ねてある。
廷臣たちの衣装はまちまちだった。
絹の長衣をきちんと着こなす人もいれば、普段の上着に布を巻きつけただけの人もいる。誰かのターバンは、どう見ても寝台の敷布だった。
ウイヴァルの人が見たら、何の祭りかと首をかしげただろう。
王は金の刺繍の長衣にターバンを巻いていた。天幕の前で両腕を広げ、私に聞いた。
「どうだ、本物に見えるか」
廷臣たちがこちらを見る。
よくお似合いですと答えれば済んだのに、気になったところが口から出た。
「ターバンの巻きが、緩いです」
まわりが静まり返る。
王は頭に手をやり、それから天幕が揺れるほどの声で笑った。
「直してくれ。今すぐだ」
私は王の前でターバンをほどき、先生がいつもしていた巻き方に直した。
王はその間、子どもみたいにおとなしくしていた。
背の高い人なので、王は座っていたのに、私は爪先立ちにならなければならなかった。
その日の祝祭で、きれいにターバンを巻いていたのは王ひとりだった。
◇◇◇
ある日、王はコーヒーの杯を置いて、ハンガリーで戦った話をした。
「俺も皇帝軍に加わって、オスマン軍と戦った」
宮廷の人たちが自慢げに話していたから、私も知っている。選帝侯だったころ、王は皇帝軍の総大将としてハンガリーへ行ったのだ。
「ウイヴァルにはいなかったが。……だが、同じようなことをした」
私は何も言わず、四杯目を淹れた。
王はいつもよりゆっくり飲んだ。
あの日のことは、あとで何度か思い返した。もしあそこで謝られていたら、私はこの人を嫌いになっていただろう。
◇◇◇
私が取り次ぎの者にマリア・アウロラと名乗るのを聞いて、王が言った。
「アウロラという名前は紛らわしい」
「アウロラ様にも、そう言われました」
「もとの名前はファティマだったな」
「はい」
王は確かめるように、もう一度私の名を口にした。
エルスキン男爵よりも、正しい発音だった。
「どういう由来なんだ」
「預言者の娘の名です」
「それなら俺より家柄がいいな」
冗談だとわかっていたのに、胸がつまった。
その名を親しげに呼ばれると、先生に呼ばれていたころを思い出す。
◇◇◇
王の宮廷は、ドレスデンとワルシャワを行き来した。私もそれについていった。
ワルシャワは、ヴィスワ川の高い岸に張りついた街だった。
赤い煉瓦の王宮が川を見下ろし、そこから延びる通りに、貴族の館と木造の家が入り混じって並んでいる。
ポーランドの貴族たちは、ドレスデンの廷臣とはまるで違う装いをしていた。
踝まで届く長い上衣に、幅の広い絹の帯。頭は耳の上まで剃り上げ、てっぺんにだけ髪を残している。
初めて見たとき、懐かしいと思った。ウイヴァルで見た姿によく似ていたから。
あとで聞くと、彼らはその装いを東から学んだのだという。
やがて、王に呼ばれるのは夜になった。
アウロラ様には、自分の口から言わなければと思った。
けれど彼女はクヴェードリンブルクと各地を行き来していて、なかなか会えない。女子参事会の仕事に打ち込んでいたのだ。
私は思い切って手紙を出した。
返事には、身の振り方を考えるようにとあった。
王の子を産むことになったら、その子の将来について口約束で満足してはならない、とも。
封蝋には見慣れた紋章が押されていた。紙から、彼女の使うオレンジの花の香水がかすかに香る。
私は手紙を畳んで、箱にしまった。
アウロラ様が何を思ってそう書いたのかは、わからなかった。




