第3話 王の花とコーヒーの香り
アウロラ様の屋敷で暮らし始めて、まず覚えたスウェーデン語は「すみません」だった。
次に「もう一度」と「わかりません」を覚えた。聞き取れなければ聞き直し、それでもだめなら笑ってごまかす。
そんな調子でも、一年ほどで通訳なしに話せるようになった。
ある朝、アウロラ様が声をかけてきた。
「あなた、耳がいいのね」
「市場では聞き間違えると損をしますから」
「それならフランス語も覚えなさい」
「フランス語も、買い物に使えますか」
「宮廷で人と話すなら、覚えておいたほうがいいわ」
昼食のあと一時間、アウロラ様がフランス語を教えてくれるようになった。発音を間違えると、扇子で机をぱちんと叩く。
「鼻から抜くのよ。それでは鼻をかんでいるみたい」
私には違いがよくわからない。けれど彼女は、納得するまで練習をやめさせてはくれなかった。
お辞儀や食卓での作法、手紙の書き方も教わった。相手の身分に合わせた呼びかけは、ウイヴァルでは使ったことのない言い方ばかりだった。
代わりに私は、ウイヴァルの話をした。市場でどう値切るか、先生の家の台所で何をしていたか。
コーヒーの淹れ方を話すと、彼女は物珍しそうに聞き入った。
「豆を煎って細かく挽き、ジェズベで煮るんです」
「ジェズベとは何かしら?」
「銅や真鍮の小鍋です。ひしゃくみたいな長い柄がついています」
ジェズベにコーヒーの粉と砂糖と水を入れる。気分によっては、カルダモンをひとつまみ。
スプーンで混ぜながら弱火にかける。湯が温まるにつれ、粉っぽい匂いの角がとれて、甘く重たい香りに変わっていく。沸いてきたら火からおろし、軽くかき混ぜる。
泡が落ち着いたら、また火にかけて泡を立たせる。これを三回繰り返す。
「どうして三回なの?」
「先生がそうしろとおっしゃったので」
「理由は聞かなかったの?」
「聞きました。三回目の泡が一番おいしいからだそうです」
「それはただの主観ね」
彼女は愉快そうに笑った。そんな笑い方をするのを初めて見た。
何年かたつうちに、四人は別々に暮らすようになった。
最初に屋敷を出たのはラーズィエ。言葉が通じるようになると、本当に他所へ行ってしまった。アウロラ様は「約束したから」と言って止めなかった。
アシイェとエミネにも、それぞれ奉公先が決まった。
別れの日、エミネは私の首に抱きついて泣いた。
「姉さん、手紙をちょうだいね」
「まだ字が読めないでしょう」
「覚える」
私は屋敷に残り、アウロラ様の話し相手をしたり、手紙を代筆したりした。髪を結う日もあった。
人前でマリア・アウロラ嬢と呼ばれても、もう戸惑わなくなっていた。家では相変わらずファティマのままだった。
◇◇◇
一六九四年の夏、アウロラ様の弟君が行方不明になった。
ケーニヒスマルクの若様、フィリップ様。私たちを北へ連れてきた一行にいた、あの人だ。
ハノーファーの宮廷で、ある夜からふっつりと姿が見えなくなったという。
さる奥方と恋仲になり、それが知れて殺されたという噂もあった。いかにもありそうに話す人はいたが、証拠はない。
アウロラ様は三日間、部屋から出てこなかった。四日目の朝、いつものように髪を結い、普段より濃く紅を差して出てきた。
「ファティマ、荷造りをして。ドレスデンへ行きます」
「ドレスデンですか」
「ザクセン選帝侯に弟のことをお願いするの。あの方なら、ハノーファーで調べさせられるでしょう」
その口ぶりに迷いはなかった。
ドレスデンの宮廷では、昼間から広間に蝋燭が惜しげもなく灯っていた。夜も音楽がやまず、食卓には皿がいくつも並ぶ。
廊下ですれ違う人の服には金銀の糸が縫いこまれていて、見慣れるまで目がちかちかした。
ストックホルムとはずいぶん違う。
その真ん中に、あの方がいた。
ザクセン選帝侯フリードリヒ・アウグスト様。
まず体の大きさに驚いた。肩幅が広く、手が大きく、声もよく響く。素手で蹄鉄を折るという噂を、それまでは大げさだと思っていた。でも、あの手ならできるかもしれない。
アウロラ様が選帝侯に会いに行った日、私はお付きとして控えの間で待っていた。彼女が出てきたのは夜遅くだった。どんな話をしたのかは知らない。翌日から、彼女の部屋に選帝侯からの花が届くようになった。
弟君の行方は、結局わからなかった。
アウロラ様は選帝侯の寵姫になった。
モーリッツブルクの祝宴では、選帝侯が彼女の手を取って踊った。人々はそれを見て、何かを知ったような顔で囁き合った。
けれど彼女は、弟を探すのをやめていなかった。そばにいた私は、ほかの人と一緒になって噂をする気になれなかった。
一六九六年の秋、私たちはゴスラーにいた。
秋の終わりに、アウロラ様は男の子を産んだ。
モーリッツ様は大きな声で泣く赤ん坊だった。声の大きさは父親譲りだろう。
私は乳母と一緒に、モーリッツ様のお世話をした。
翌年、選帝侯はポーランド王に選ばれた。そのためにカトリックに改宗したと聞いて、私はおかしくなった。王様でも、王冠のためなら信仰を変えるのだ。
王のまわりにはますます大勢の人が集まり、女の人の顔ぶれも変わった。
アウロラ様の部屋に届く花は、だんだん間があくようになった。彼女は何も言わなかった。
ある晩、呼ばれて机のそばへ行くと、手紙の下書きが何枚も広げてあった。宛先はザクセンの大臣や、クヴェードリンブルクという街の人々。
「花が減ったら、どうすると思う?」
「……待つのですか」
「はずれ。自分で花屋を買うのよ」
アウロラ様は手紙を指し示した。
「クヴェードリンブルクで、地位を得られないか考えているの」
「修道院に入られるのですか」
「修道院とは少し違うわ。あそこでは貴族の女性が財産や地位を持ちながら暮らせるの」
彼女は紙の一枚を指で叩く。
「王の愛なんて、春の天気みたいなものよ。でも、きちんとした役職があれば、あの方のお気持ちが変わっても暮らしていける。陛下が私の話を聞いてくださるうちに、決めておきたいのよ」
「天気のよいうちに家を修理しておく、みたいなことですか」
「……身も蓋もないわね。でも、そのとおりよ。あなたも、よく覚えておきなさい」
彼女は清書に戻った。私はそばで、書き終えた紙のインクが乾くのを待った。
一六九八年、アウロラ様はクヴェードリンブルクの女子参事会で、補佐院長の地位を得た。
私は小さなモーリッツ様のそばにいることが増えた。
同じ年、アウロラ様は、まだ幼いモーリッツ様を父君のいるワルシャワへ送ることにした。私は乳母と一緒に、その旅に付き添った。
ワルシャワは、ドレスデンともまた違う街だった。
通りにはポーランド語が飛び交い、ドイツ語やフランス語も聞こえた。東方から来た商人の荷には、絹や香辛料が混じっている。
ふと、ウイヴァルの市場を思い出した。
ずいぶん遠くへ来たつもりだったのに、匂いだけは、思いがけないところで私を昔に戻してしまう。
モーリッツ様を送り届けると、私はまたアウロラ様の用事を手伝った。
アウロラ様は、ドレスデンやクヴェードリンブルクをはじめ、いくつもの街を行き来した。私も、いくつもの街と屋敷の間を行ったり来たりした。
一七〇〇年、アウロラ様はクヴェードリンブルクの女子参事会で副院長の地位に就いた。
知らせを聞いて、お祝いの手紙を書いた。
返事には、これでようやく自分の花屋を持てた、とあった。




