第2話 北の国で、私は別の名前になる
北へ向かう旅は長かった。何日も荷車に揺られ、川舟に乗り換え、また荷車に乗った。
道沿いの木の葉が黄色くなり、やがて落ちた。いつの間にか、私たちのほかにオスマン語を話す者は、あの通訳だけになっていた。
港に着いたのは十月の初めだったと思う。海を見るのは初めてだった。どこまで見ても灰色の水で、ちっとも青くなかった。
「これに乗るの?」
エミネが船を指さした。
「ほかにどうやって行くのよ。泳ぐわけにもいかないでしょう」
そう答えたラーズィエが、出航すると真っ先に具合を悪くした。半日もたたないうちに甲板の縁にしがみつき、海に向かって悪態をついていた。
船乗りたちが言葉をわからなくてよかったと思う。
アシイェは揺れる船底でも祈りを欠かさなかった。
メッカの方角がわからないと言うので、私は太陽を見て、こちらではないかと指さした。合っていたかは知らない。
こんな船でまで祈っているのだから、少しくらい違っても神様は許してくださるだろう。
幸い、私は船に酔わなかった。船乗りの言葉を聞き、綱や帆、水やパンの呼び方を覚えた。「寒い」は一日に何十回も耳にしたので、真っ先に頭に入った。
航海の途中で、通訳が男爵の伝言を持ってきた。
「おまえたち、男爵さまのもの、もう違う」
私たち四人を、ケーニヒスマルクの若様の姉君に贈るのだという。
ラーズィエは青い顔のまま起き上がった。
「また持ち主が変わるの?」
「お姉さま、とても偉い。とても賢い。おまえたち、運がいい」
通訳はウイヴァルでも同じことを言っていた。行き先は教えられず、運がいいとだけ聞かされる。
◇◇◇
ストックホルムは、水に浮かんだ街だった。いくつもの島に分かれ、島と島を橋がつなぎ、真ん中には三つの冠を戴く塔のある王宮が建っていた。
まだ十月なのに、午後三時には薄暗くなった。海風が吹くと、ウイヴァルの真冬より寒かった。
私たちは、王宮から近い大きな屋敷へ連れていかれた。
暖炉のある部屋で待っていると、若い女の人が入ってきた。
二十代前半だろうか。黒髪を高く結い、灰青色のドレスを着ている。瞳も黒く、オニキスのように輝いていた。
顔立ちは美しかったが、それ以上に、入ってきただけで人の目を集める人だった。
「マリア・アウロラ・フォン・ケーニヒスマルク伯爵令嬢です」
通訳は、それまでになく丁寧に紹介した。
伯爵令嬢は私たちの前に立ち、ひとりずつ顔を見た。何を考えているのか確かめているような目つきだった。
アウロラ様が短く話すと、通訳は言葉を探してしばらく黙っていた。
「おまえたちは奴隷ではない。そう、おっしゃっている」
私たちは顔を見合わせた。ラーズィエが口を開いた。
「じゃあ、私たちは何なの」
通訳からそれを聞くと、アウロラ様は少し考え、口の端を上げた。
「居候よ、だそうだ」
私たちには金も行く当てもない。言葉もわからない。だから当分はこの家にいればいいと、アウロラ様は言った。
仕事をして、勉強もする。ほかのところに行きたければ、この国の言葉を覚えてから行けばいい。
ラーズィエも、今度は何も言わなかった。私は自由になったらしいのに、喜んでいいのかわからなかった。
帰る家は焼け、先生の行方もわからない。ここを出たところで、誰に何と言って助けを頼めばいいのだろう。
自由の身で北の果てに放り出されるのと、誰かの持ち物として暖炉のそばにいるのと、どっちがましなのか。
ただ、言葉を覚えれば自分で尋ねられる。そのことだけは心に残った。
その晩、食卓に塩漬け豚が出た。アシイェは真っ青になって皿を押しのけ、エミネは匂いだけで泣きそうになっていた。ラーズィエが料理番をにらんだが、相手は理由がわからずに困っていた。
私は台所まで行って料理番の袖を引いた。
「これ、だめ。神様、だめ。魚、ある?」
覚えた言葉に身振りを添えると、料理番は首をかしげたあと、大きくうなずいた。出してくれたのは酢漬けのニシンだった。しょっぱくて生臭かった。私たちは文句を言いながら全部食べた。
次の日から、私たちには魚か、じゃがいもが出るようになった。ずっとあとになって、アウロラ様が料理番に言いつけてくれたと知った。
◇◇◇
一六八六年十一月七日、私たち四人はストックホルムのドイツ教会で洗礼を受けた。
その前に、断ってもよいのかと通訳に聞いてみた。通訳は困った顔をした。アウロラ様は洗礼を受けなくてもよいと言ったそうだ。
ただ、キリスト教徒でなければ、この国では暮らしにくいだろうとも。
四人で一晩話し合った。アシイェは泣き、エミネはみんなと同じにしたいと言う。長く黙っていたラーズィエは、やがて「生きていかなきゃならないでしょう」と呟いた。
私は、パンを捏ねるとき、先生がかけた言葉を思い出していた。先生ならどうなさるだろうと、何度も考えた。
洗礼の日、礼拝堂には着飾った大人が並び、その間に小さな男の子がいた。金糸の上着を着て、頬を赤くし、退屈そうに足をぶらぶらさせている。三つか四つくらいだろうか。
「スウェーデンの王太子、カール殿下です。おまえたちの代父になってくださる」
代父は親代わりだと教わったばかりだったので、私はもう一度その子を見た。親代わり。この、足をぶらぶらさせている子が。
殿下は私の前まで来ると、顔を見上げ、そばの侍従に何か尋ねた。あとで通訳に聞くと、私の顔立ちが皆と違う理由を知りたかったのだそうだ。侍従がオスマントルコから来たからだと答えると、今度は、そこは寒いかと聞いた。
「いいえ、殿下。暖かいところだそうです」
「じゃあ、かわいそうだね。ここ寒いもん」
通訳からその話を聞いて、私は笑った。「寒いもん」という子どもっぽい言い方だけは聞き取れた。
この国に来てよかったと思える日も、いつか来るかもしれない。
牧師が額に水を垂らし、私にはわからない言葉で祈った。そしてマリア・アウロラという名を告げた。代母としてそばに立つアウロラ様と同じ名だった。
式が終わると、彼女は私を見て肩をすくめた。
「同じ名前では紛らわしいわね。家では今までどおりファティマと呼ぶわ。人前ではマリア・アウロラ。使い分けなさい。宮廷ではみんな、そんなふうに暮らしているのよ」
通訳から聞いたその言葉が慰めだったのか、何かを教えようとしたのか、私にはよくわからなかった。
夜、屋敷の小さな部屋から暗い海を眺めた。
ポケットには、ウイヴァルから持ってきたものがひとつだけ入っている。先生の上着の、木のボタン。
包囲の最後の晩、取れたから繕ってくれと渡され、そのまま返せずにいた。
私はボタンを握り、小声で一度だけ、昔から知っている祈りを唱えた。
それから、新しい名前を三回、声に出してみた。
マリア・アウロラ。マリア・アウロラ。マリア・アウロラ。
繰り返すと、舌がもつれずに言えるようになった。




