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三日月の娘、絢爛の王宮に立つ ~戦争捕虜から王の愛妾へ、ある女性の生涯~  作者: ねこまねどり


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第1話 ウイヴァルが落ちた日

本作は、17世紀末から18世紀にかけて実在した女性、ファティマの生涯を題材にした歴史小説です。

史実をもとにしていますが、人物の会話や心情などには創作を含みます。

全6話、毎日21時10分に更新し、10月30日(金)に完結予定です。

※当初の予定より一話増えました。


短い物語ですので、気軽にお読みいただければ幸いです。

 パンを焼く粉は、あと三日分しかなかった。

 一六八五年夏。ウイヴァルはキリスト教徒の軍勢に包囲されていた。

 二十年ほど前にオスマン帝国が征服したこの街を、神聖同盟を名乗る彼らはノイホイゼルと呼ぶ。街を奪い返しに来たのだ。城壁の向こうに、その旗が翻っている。


 私はファティマ。青い瞳と暗褐色の髪を褒めてくれた夫は、結婚してまもなく亡くなった。

 今は、この街のモスクで説教をしている老先生の家で、台所仕事と洗濯をしている。

 ときどきは先生の目の代わりも務める。先生は字が読めないわけではないけれど、近ごろ、細かい字がよく見えなくなったのだ。


「ファティマ、今朝の砲声は何回だった」


「十を過ぎたあたりで、数えるのをやめました。パンを捏ねていたので」


「それでいい。生きるには、飯を作ることのほうが大事だ」


 先生はそう言って、窓に板を打ちつけた。去年の冬に打った板があったが、その上にもう一枚重ねた。


 包囲が一か月以上も続くと、砲弾の音を聞き分けられるようになった。

 腹に響く低い音がすれば城壁が狙われている。鋭い音のあとに爆発が起これば、街の中に弾が落ちたのだ。弾が近所に落ちると、井戸の水まで濁った。

 音を聞き分けたところで、弾を避けられるわけでもないのだけれど。


 八月の半ばに粉屋へ行くと、おかみさんが、店の裏の壁はもう半分ないのだと言って笑っていた。その次の日には店ごとなくなった。


 その日は、朝から妙に砲声が少なかった。昼過ぎになって、城壁のほうから声が聞こえてきた。叫び声とも歌ともつかない、大勢の声。声は波のように、少しずつ近づいてきた。


「地下へ行きなさい」


 先生は説教のときと同じ声で言った。


「先生はどうなさるんですか」


「上にいる。年寄りがひとり残っておれば、下まで探そうとは思わんだろう」


 そんなはずはないと思ったけれど、口には出せなかった。先生は私の肩を一度叩き、地下の戸を閉めた。


 地下貯蔵庫には近所の女たちが三人いた。


 絨毯商の妻のラーズィエは、三十近い、口の悪い人だった。市場で値切るところを何度も見たが、あの人にかなう者はいなかった。

 その妹分のアシイェは祈り続けていた。

 まだ子どもっぽさの残るエミネは、私を見つけると震える手で袖をつかんだ。


「ファティマ姉さん、あたしたち、どうなるの」


「わからないわ。声を小さくして。くしゃみもしないでね」


 エミネが真剣な顔で鼻をつまんだので、私はこんなときにと思いながら、笑いそうになった。


 頭の上で戸を蹴破る音がした。重い靴音。何かが倒れる音。男たちが知らない言葉で怒鳴り合っていた。先生の声は聞こえなかった。


 どれくらいそこにいたのか覚えていない。地下の戸が開くと、目がまぶしくて、私は腕で顔を隠した。

 髭のある兵士が怒鳴り、別の兵士が笑っていた。腕をつかまれ、階段を引きずり上げられる。

 棚は倒れ、先生の本が床に散らばっていた。本の上にも泥の靴跡がついていた。


 外へ出ると、まだ夕焼けには早いのに空が赤かった。通りの人はみな煤だらけで、知っている顔を探しても見分けがつかなかった。

 モスクの塔には、見たことのない旗が立っていた。アシイェがそれを見て声を漏らすと、兵士が彼女の背中を小突いた。


 城壁の外の野営地で、私たちはほかの女たちと一緒に、縄で囲った地面に座らされた。毛布もなく、四人で背中を寄せた。

 八月の夜がこれほど冷えるとは思っていなかった。

 しばらくして、エミネが私にだけ聞こえる声で先生のことを尋ねた。


「わからないの」


 私は頭を振った。

 ラーズィエがエミネの頭を膝に引き寄せた。


「少し寝なさい。今から泣いてたら、明日まで体がもたないよ」


「明日なら泣いてもいい?」


「いいわよ」


 エミネは少し笑い、やがて眠った。私は眠れず、朝まで街のほうを見ていた。まだ火が燃えているらしく、遠くに明かりが見えた。


 ◇◇◇


 翌朝、私たち四人は天幕の前に並ばされた。女や子どもの間を兵士が歩き回り、品定めをするように顔や体を眺めていた。


 やがて背の高い将校が来た。金色がかった髭をきれいに整え、ほかの兵士と違って上着も汚れていない。後ろには帳面を抱えた男がついていた。

 将校が私たちを見て何か言うと、その男がたどたどしいオスマン語に直した。


「こちら、エルスキン男爵さま。おまえたち四人、男爵さまのもの、なる」


 ラーズィエが鼻で笑った。


「絨毯と同じ扱いね」


 通訳は黙れと言ったが、彼女の言葉をどこまで聞き取れたのかは怪しかった。


 男爵がまた何か言う。通訳はしばらく考えてから、こう訳した。


「おまえたち、運がいい。生きている、から」


 先生がどうなったかもわからないのに、そんなことを言われて、腹の底がむかむかとした。

 私は黙って、通訳の後ろにいる兵士たちの話を聞いていた。ハンガリー語だった。

 ウイヴァルの市場にはハンガリー人の物売りがいくらでもいた。値切るために覚えた言葉が、ところどころ耳に入った。


 男爵はケーニヒスマルクの若様と一緒に北へ帰るらしい。寒いところだという声もする。


「女たちも連れていくんだと。物好きな」


 北と言われても、どこなのか私にはわからなかった。


 顔を上げると、男爵が私を見ていた。聞き耳を立てていたのに気づいたのかもしれない。

 目を伏せると、通訳が名前を聞いてきた。


「ファティマです」


 男爵はファーティマと、妙なところを伸ばして繰り返した。それから通訳の帳面に何か書かせ、立ち去った。


「どうして姉さんだけ、名前を聞かれたの?」


 エミネが小声で尋ねた。


「さあ? でも、覚えられないほうがよかった気がするわ」


「どうして」


「市場で店の人に顔を覚えられると、売り込みを断りづらいでしょう?」


 ラーズィエが、捕まってから初めて声を立てて笑った。


「あんた、商売に向いてるわよ」


「今から商品になるみたいですけど」


 アシイェはその間も笑わずに祈っていた。


 夕方になると荷車に乗せられた。遠ざかる城壁の向こうに、まだ煙が見えた。

 先生の家がどのあたりだったのか、ここからではもうわからなかった。

 私は膝を抱え、荷車が揺れるたびに数を数えた。数えている間は、ほかのことを考えずに済む。百を過ぎたころ、エミネが私の肩にもたれて眠った。


 北。寒いところ。


 この先に何があるのか、私たちは、誰ひとり知らなかった。

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