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「役立たずの記録係はいらない」と婚約破棄されましたが、王国を救ったのは私の帳簿でした  作者: 北野風人
記録の中で、私は死んだ

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第9話 死者の署名

「この署名を書いた男は、三か月前に死んでいます」


 私がそう告げると、村長の家に集まっていた者たちは、一斉に口を閉ざした。


 机の上には、七枚の受領証が並んでいる。


 北部七村へ送られた、春蒔き用の種麦。


 王都に提出された報告書では、一か月前にすべて届けられたことになっていた。


 村の印。


 輸送を担当した記録官の署名。


 北部穀物管理責任者の承認印。


 必要なものは、すべて揃っている。


 ただ一つ。


 小麦そのものを除いて。


「本当に、一袋も届いていないのですか」


 私が尋ねると、年老いた村長は深く頷いた。


「一袋どころか、麦の粒一つ見ておりません」


「では、なぜ受領証に村の印が押されているのです」


「わかりません。うちの印は、ここにあります」


 村長は首から下げていた革紐を引き上げ、小さな木印を取り出した。


 長年使われた表面には、細かな傷が刻まれている。


 受領証の印影とは、よく似ていた。


 だが、同じではない。


「種を蒔けるのは、あと何日だ」


 隣に立つカイルが尋ねた。


「十日ほどです」


 村長の後ろにいた農夫が答えた。


「それを過ぎれば、今年の収穫は望めません」


 怒りよりも、諦めに近い声だった。


 家の外には、空の荷車が並んでいる。


 畑はすでに耕され、種を待っていた。


 この村だけではない。


 同じ受領証が、あと六つの村にも残されている。


 七村すべてに種麦が届いていないのなら、秋には数千人分の食料が失われる。


 王都の小麦を取り戻してから、まだ三か月しか経っていなかった。


 それでも、帳簿の上では、また穀物が消えている。


 私は受領証の最後に書かれた名前を指でなぞった。


 オスカー・ベルン。


 北部穀物管理所に勤めていた記録官。


 地方死亡簿には、三か月前の雪崩で死亡したと記録されている。


 だが、その男が一か月前、七つの村へ種麦を届けたことになっていた。


「死者が、麦を運んだというのか」


 村長が呟く。


「少なくとも、この書類はそう主張しています」


 私は七枚の受領証を重ねた。


「そして、問題はそれだけではありません」


 一番下に置かれた輸送承認書を、カイルの前へ差し出した。


 そこには、彼の名が刻まれた印が押されていた。


 北部穀物管理責任者、カイル・レグナード。


「これは、あなたの印ですか」


 カイルは承認書を手に取り、黙って印影を見た。


 偽物だと言ってくれればいい。


 一瞬、そんな考えが頭をよぎった。


 だが、彼は書類を机へ戻した。


「ああ。俺の印だ」


 部屋の空気が変わった。


 私の最初の地方監査には、王国監察院からローディス監察官が同行していた。


 私が正しく証拠を扱い、公正な記録を残しているかを監督するためだ。


 そのローディス監察官が、一歩前へ出た。


「レグナード管理官。この輸送を承認した覚えはありますか」


「ない」


「しかし、印章は本物だと」


「俺の印であることと、俺が押したことは別だ」


「それを証明できますか」


 カイルは答えなかった。


 問題の承認書が作成された日、彼は王都にいた。


 バルガス侯爵による備蓄小麦横領事件の調査に協力していたからだ。


 王都にいたことは証明できる。


 しかし、それだけでは彼の印章が使われた理由を説明できない。


「印章はどこに保管していましたか」


 私は尋ねた。


「北部を離れる前、管理所の鉄箱に封じた」


「鍵は?」


「二本ある。一つは俺が持っている」


「もう一つは」


 カイルはわずかに眉を寄せた。


「副管理官のグレン・ハルトだ」


 ローディス監察官が私に向き直った。


「ヴァルト記録官。あなたがレグナード管理官の要請を受け、北部への赴任を決めたというのは事実ですか」


「事実です」


「公務上の要請だけではない、と聞いています」


 村人たちの視線が、私たちに集まった。


 カイルが何かを言おうとする。


 私はその前に答えた。


「私的な信頼関係があることは否定しません」


「それならば、この調査から外れていただく必要があります」


 ローディス監察官の声は冷静だった。


「被疑者となり得る人物と親しい者が調査を担当すれば、結果そのものが疑われます」


 正しい指摘だった。


 だからこそ、簡単には反論できない。


 私は王国記録監査官として北部へ来た。


 けれど最初の仕事で、カイルの承認印が不正な書類から見つかった。


 彼を信じて調査を続ければ、包庇だと言われる。


 彼を疑えば、私たちの関係そのものが試される。


「わかりました」


 私は受領証から手を離した。


「王都へ担当者の交代を申請します」


「待て」


 カイルが私の言葉を遮った。


 腰につけていた鍵を外し、自分の印章とともに机へ置く。


「俺を先に調べろ」


「カイル」


「鍵も印も提出する。執務室も私室も調べて構わない。俺が出した命令書も、王都から戻って以降の行動も、すべて確認しろ」


「それでも、私が担当すれば、調査の公正さが疑われます」


「俺だけを、お前の帳簿の外に置くな」


 カイルは私ではなく、ローディス監察官を見ていた。


「彼女が俺に都合のよい事実を隠したなら、その記録ごと調べればいい。だが、関係があるという理由で最初から外せば、誰もこの七枚を疑わなくなる」


「では、すべての調査に立ち会ってください」


 私はローディス監察官に言った。


「発見した証拠はその場で二通記録します。一通は私が、もう一通はあなたが保管してください。証人の署名も必ず二名以上から取ります。私一人では、訂正も廃棄もできない形にします」


 ローディス監察官はすぐには答えなかった。


 やがて、空の倉と七枚の受領証を見比べた。


「三日です」


「三日?」


「三日以内に、レグナード管理官が印章を不正使用されただけだと示す証拠を見つけてください。見つからなければ、彼の職務を一時停止し、あなたも調査から外します」


「三日で十分です」


 私より先に、カイルが答えた。


「見つけるのは私の仕事です」


「なら、俺は現場を調べる」


 最初に会ったころなら、彼は帳簿より自分の目を信じると言っただろう。


 今は違う。


 私の帳簿から逃げず、その中へ自分から入ろうとしている。


「わかりました」


 私は彼の鍵と印章を受け取った。


「例外なく調べます」


「ああ。それでいい」


     ◇


 村の空き部屋を借り、七枚の受領証を並べ直した。


 書かれている村の名は違う。


 受領者の名前も違う。


 それでも、七枚はあまりによく似ていた。


「同じ紙に見えるな」


 カイルが言った。


「王国指定の用紙なので、紙が同じこと自体は不自然ではありません」


「なら、何がおかしい」


 私は一枚目と二枚目を窓の光にかざした。


「墨です」


「同じ管理所で書いたのなら、同じ墨を使ってもおかしくないだろう」


「輸送記録官の署名だけなら、そうです」


 私は村の受領者が記入した欄を指した。


「ですが、この部分も同じ墨です」


 本当にそれぞれの村で受け渡しが行われたなら、受領者は村にある墨を使う。


 七つの村が、まったく同じ割合で煤と油を混ぜた墨を使うことはない。


 七枚すべてが、同じ場所で作成された可能性が高い。


 さらに、村の印が押された部分へ薄い紙を重ね、輪郭を写し取った。


 七つの印は形こそ少しずつ変えられている。


 だが、右下にはすべて同じ欠けがあった。


「同じ木から削り出されています」


「七村の印を、一人が作ったのか」


「おそらく」


 村長から借りた本物の印を並べる。


 大きさも、縁の傷も違う。


 受領証に押されたものは、よく似せただけの偽物だった。


「オスカーの署名は?」


「本物かどうか、過去の報告書と照合する必要があります」


 死亡簿。


 過去の署名。


 印章保管簿。


 それらが置かれているのは、北部穀物管理所だ。


 そして、第二の鍵を持つ副管理官グレンも、そこにいるはずだった。


     ◇


 日が沈む前に、私たちは北部穀物管理所へ到着した。


 石造りの建物の前には、二人の守衛が立っている。


「グレン・ハルト副管理官はいるか」


 カイルが尋ねた。


 守衛は顔を見合わせた。


「昨日から戻っておりません」


「どこへ行った」


「北門へ、人を迎えに行くと」


「誰を?」


「オスカー・ベルン記録官です」


 カイルの目が細くなった。


「オスカーは死んだはずだ」


「え?」


「三か月前の雪崩で死亡している」


 若い守衛は戸惑ったように、隣の男を見た。


 年上の守衛が詰所から通行簿を持ってくる。


 昨日の日付。


 北門から入った二名の名が記されていた。


 グレン・ハルト。


 オスカー・ベルン。


「この記録に間違いはないのですか」


 私が尋ねた。


「ありません。私が二人を確認しました」


「オスカー本人だと、なぜわかったのです」


「以前、管理所へ来たときに何度も見ています。顔を見間違えるはずがありません」


 死者が歩いて戻ってきたわけではない。


 北門を通った男が偽物なのか。


 それとも、三か月前の死亡記録そのものが偽物なのか。


 今は、どちらも否定できない。


「二人はどこへ行きましたか」


「文書庫です。そのあと裏門から出たはずですが……」


 そのとき、建物の奥から叫び声が上がった。


「煙だ!」


「文書庫から煙が出ている!」


 カイルが走り出した。


 私とローディス監察官も、あとを追う。


 文書庫の扉は半分開いていた。


 中へ入ると、床の上に少年が倒れていた。


 管理所で雑用をしている、まだ十五歳ほどの見習いだった。


「おい、聞こえるか!」


 カイルが少年を抱き起こす。


 息はある。


 頭を打たれたらしく、額から血が流れていた。


 部屋の隅では、書類を入れた木箱から白い煙が上がっている。


 幸い、火はまだ広がっていなかった。


 ローディス監察官と守衛が水をかけ、燻っていた布を引きずり出した。


「消失した書類を確認してください!」


 私が叫ぶと、倒れていた少年の指がかすかに動いた。


 右手に、何かを握っている。


 焦げかけた一枚の紙だった。


「これを守ろうとしたのか」


 カイルが少年の手から、慎重に紙を抜き取った。


 上端は黒く焼けていた。


 それでも、本文と署名は残っている。


 私は紙を受け取った。


 そこには、こう書かれていた。


 北部七村への種麦輸送を、記録照合が完了するまで一時停止する。


 すでに出発した荷車は北部第二倉庫へ戻し、封印のうえ保管すること。


 命令が出されたのは、一か月前。


 種麦が消えた日だった。


 命令者の欄には、王国記録監査官の名がある。


 エリナ・ヴァルト。


「これは、あなたの命令ですか」


 ローディス監察官が尋ねた。


「違います」


「一か月前、あなたは王都にいた」


「はい」


「ですが、王都から命令書を送ることはできた」


「……できます」


「王国記録監査官には、記録照合が終わるまで輸送を停止させる権限がある」


「あります」


 だからこそ、否定する言葉だけでは足りなかった。


 この命令は、私の権限の範囲内にある。


 手順も正しい。


 書式にも誤りはない。


「署名を確認してください」


 私は言われる前に、紙の最後へ目を落としていた。


 文字の傾き。


 名前の最後で、わずかに跳ねる癖。


 筆圧が弱くなる場所まで一致している。


 何度見直しても、私自身が書いた署名にしか見えなかった。


 死んだ男の署名。


 カイルの印章。


 七つの村の偽印。


 そして、私の命令書。


 これは、種麦を盗むためだけの偽造ではない。


 誰かが最初から、私たち二人を犯人にするつもりで記録を作っていた。


 私は、この命令書を書いていない。


 けれど、命令を出す権限はあった。


 王都から送ることもできた。


 そして署名は、私の筆跡と一致している。


 帳簿は、真実を残すものだと信じていた。


 その記録が今、私を犯人だと指し示していた。

お読みいただき、ありがとうございます。

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