帳簿の最初の頁
「王都の小麦は、あと四日分しかありません」
監察官の言葉に、部屋の空気が止まった。
王国監察院が三つの中継倉庫を封鎖してから、一夜が明けていた。
バルガス侯爵領財務所の帳簿も押収された。
それでも、消えた小麦の行方だけはわからない。
「四日以内に見つからなければ?」
カイルが尋ねた。
「配給量を半分にします。それでも、七日後には王都のパンがなくなるでしょう」
七日。
犯人を捕らえるだけでは足りない。
小麦を取り戻さなければ、私たちの負けだ。
机の上には、押収された帳簿が積み上げられていた。
穀物台帳。
運送記録。
商会との契約書。
どれも不自然なほど整っている。
王都へ送った。
予定どおり到着した。
不足はない。
そう書かれていた。
「また帳簿か」
監察官の一人が苛立った声を漏らした。
「偽物を何冊読んでも、小麦は出てこないぞ」
「はい」
私は答えた。
「ですから、穀物の帳簿は見ません」
机の端に置かれていた薄い一冊を引き寄せる。
建物修繕費支出簿。
穀物とは無関係に見える帳簿だった。
古い塩倉庫は、十年以上使われていないことになっている。
ところがバルガス侯爵領財務所は、この三年間、毎年補修費を申請していた。
屋根の修理。
外壁の補強。
床板の交換。
そして、地下排水路の補修。
「地下排水路?」
カイルが私の隣から帳簿をのぞき込んだ。
「現地で地下室は見なかったな」
「現在の建物台帳にも、地下室はありません」
「では、この支出は架空か」
「そう考えることもできます」
私はもう一枚の紙を机に広げた。
「ですが、四十年前の建築図面にはあります」
古い塩倉庫の東側。
現在の図面では外壁になっている場所に、地下保管室へ続く通路が描かれていた。
修繕費が本当に使われていたのなら。
存在しないはずの地下室は、今も使われている。
「ここです」
私は図面を指した。
「小麦は、まだ王国内にあります」
◇
古い塩倉庫に到着したのは、その日の午後だった。
裏手の排水溝を掘り返すと、土の中から鉄扉が現れた。
扉は赤く錆びていた。
けれど蝶番には、新しい油がついている。
「開けろ」
カイルの声で、騎士たちが鉄扉に縄をかけた。
鈍い音を立てて、扉が開く。
暗い通路の先に、石造りの地下室があった。
だが――。
「何もないぞ」
監察官が呟いた。
地下室は空だった。
積まれた袋も、木箱もない。
床に残っているのは、細かな埃だけ。
「外れだったか」
「いや」
カイルがしゃがみ込み、床を指でなぞった。
「ここに何か置かれていた。しかも、最近まで」
埃の上に、四角い跡がいくつも残っている。
小麦袋を積んでいた跡だった。
しかし、運び出したのなら、馬車が必要になる。
倉庫の周囲には、荷車が何十台も通った形跡はなかった。
小麦はここにあった。
だが、外へは運ばれていない。
私は建築図面と地下室を見比べた。
図面に書かれた奥行きは、十二歩。
目の前の部屋は、九歩しかない。
「カイル」
「ああ」
彼も気づいたらしい。
奥の壁を剣の柄で叩く。
重い音が三度続いたあと、四度目だけ音が変わった。
騎士たちが石壁を崩す。
一枚の石板が倒れ、乾いた匂いが流れ出した。
壁の向こうには、もう一つの部屋があった。
そこに、小麦袋が天井近くまで積まれていた。
袋にはすべて、北部備蓄庫の印が押されている。
「見つけたぞ!」
誰かが叫んだ。
けれど、私は喜べなかった。
帳簿に記録された不足量には、まだ届かない。
「これで全量か?」
カイルが管理人に尋ねた。
男は青ざめたまま首を振った。
「わ、私は何も……」
そのとき、倉庫の外から馬の蹄の音が聞こえた。
一頭ではない。
何台もの荷馬車が動き出す音だった。
カイルが振り返る。
「裏門だ!」
私たちが地下室を調べている間に、残りの小麦を運び出そうとしている。
カイルは騎士たちと地上へ駆け上がった。
私もあとを追った。
倉庫の裏手では、六台の荷馬車が森へ向かっていた。
「止まれ!」
カイルの声が飛ぶ。
先頭の御者が鞭を振り上げた。
荷馬車は速度を上げようとしたが、重すぎて車輪がぬかるみに沈んだ。
追いついた騎士が御者を引きずり下ろす。
最後尾の馬車から、一人の男が飛び降りた。
倉庫の火事以来、姿を消していた補佐官だった。
男は森へ逃げ込もうとした。
だが、カイルが回り込み、その腕を地面へ押さえつけた。
「離せ! 私は命令されただけだ!」
補佐官が叫んだ。
「誰に命令された」
「知らない! 書類が届いただけだ!」
「では、その書類はどこだ」
男は答えなかった。
代わりに、胸元から一枚の紙が落ちた。
火のついた蝋燭を包んでいたらしく、端が黒く焦げている。
それでも、下部に押された印章は残っていた。
バルガス侯爵家の印だった。
◇
荷馬車に積まれていた小麦と、地下室に隠されていた小麦。
さらに押収された修繕費支出簿から、同じ名目で補修費が支払われた二つの建物が見つかった。
一つは、廃業した染物工房。
もう一つは、侯爵領の狩猟小屋。
どちらにも、帳簿から消えた地下保管室があった。
翌日までに、王都へ送られるはずだった小麦の大半が回収された。
補佐官は、倉庫へ火をつけたことを認めた。
偽の穀物台帳を作ったことも。
古い枡を捨てたことも。
そして、すべては侯爵領財務所の責任者から命じられたと証言した。
責任者の執務室からは、バルガス侯爵の署名が入った命令書と、抜き取った小麦を商会へ売るための契約書が発見された。
侯爵は最後まで、自分は知らなかったと主張した。
だが、命令書。
支出簿。
商会との契約。
偽りの枡。
そして、隠された小麦。
すべてに、侯爵家の印が残っていた。
王都の広場で、正式な処分が読み上げられた。
「バルガス侯爵を、王国備蓄穀物の横領、記録の改竄、証拠隠滅および放火の容疑で拘束する。裁判が終わるまで、その爵位と領地運営の権限を停止する」
かつて、誰も見ようとしなかった数字が、一人の侯爵を裁きの場へ引き出した。
小麦を積んだ荷馬車は、その日のうちに王都へ向かった。
今回は袋の数だけではなく、重さも記録した。
荷馬車の台数。
馬に与えた飼料。
宿駅への到着時刻。
車輪の修理回数。
すべてを二通ずつ作成し、一通を各宿駅に残した。
同じ記録を、一か所に集めない。
誰か一人の手で、すべてを消せないようにするためだった。
◇
五日後。
王都のパン屋には、朝から焼きたての匂いが戻っていた。
店の前には長い列ができていたが、空の籠を抱えて帰る者はいなかった。
王宮では、事件に関わった者たちの処分が決まった。
セシリア様は、父親の領地経営には関与していなかった。
取り調べのあと、彼女はレオンとの婚約を解消し、母方の親族を頼って西部へ移った。
レオンは罪には問われなかった。
彼が侯爵家から金を受け取った証拠も、不正を直接命じた証拠もなかったからだ。
けれど、財務局の職は解かれた。
何年にもわたり、内容を確かめずに承認印を押し続けた責任を問われたのだ。
王都を離れる前日、レオンは私のもとを訪れた。
「私は本当に、何も知らなかった」
彼は最初にそう言った。
「はい」
「知っていれば、あの書類には署名しなかった」
「そうかもしれません」
「なら、なぜ私まで職を失わなければならない」
私は彼の顔を見た。
婚約を破棄したことへの謝罪ではない。
役立たずと呼んだことへの後悔でもない。
彼が今も心配しているのは、自分が失った地位だけだった。
「あなたの署名で、小麦は移されました」
「だから、私は知らなかったと言っている!」
「知らなかったことが、責任をなくすわけではありません」
レオンの顔から表情が消えた。
「あなたは書類を読まなかった。数字を確かめなかった。三度届いた報告書も無視した。それでも、あなたの署名によって命令は動きました」
「君は、私を許さないのか」
「許すかどうかではありません」
私は静かに答えた。
「もう、あなたとは関係がないということです」
レオンは何も言えなかった。
しばらくして背を向け、そのまま記録局を出ていった。
私は呼び止めなかった。
閉じた扉を見ても、胸は痛まなかった。
◇
一か月後。
王宮に、新しい部署が設けられた。
王国記録監査室。
財務局や穀物管理局から独立し、地方の台帳と現場の状況を照合するための部署だ。
私は、その最初の記録官に任命された。
任命書を受け取った日の午後、カイルが記録局を訪れた。
彼も北部三領の穀物管理責任者に任命されていた。
「ずいぶん立派な肩書になりましたね」
「肩書だけだ。やることは以前と変わらない」
「報告書は増えます」
「それが一番の問題だ」
カイルは苦い顔をしたあと、革表紙の本を机に置いた。
新しい帳簿だった。
中にはまだ、一文字も書かれていない。
「北部には、現場を見る記録官が必要だ」
「監査室から定期的に派遣します」
「定期的では困る」
「では、常駐する者を選びます」
「それも困る」
私は顔を上げた。
カイルは、黙って私を見ていた。
「エリナ」
彼が初めて私の名前を呼んだ日のことを思い出した。
火事の夜。
燃える倉庫の前だった。
あのとき彼は、迷わず言った。
人が先だ、と。
「北部へ来ないか」
「それは、王国からの命令ですか」
「違う」
「では、記録官としての依頼ですか」
カイルはすぐには答えなかった。
戦うときにも、火の中へ入るときにも迷わなかった人が、今は言葉を探している。
「最初は、そのつもりだった」
「最初は?」
「今は、仕事が終わったあとも、隣にいてほしいと思っている」
花はなかった。
指輪もない。
あるのは、まだ何も書かれていない一冊の帳簿だけ。
けれど、飾られた言葉より、その不器用な一言のほうが信じられた。
「すぐには行けません」
「ああ」
「監査室の仕組みを整えます。引き継ぎにも時間がかかります」
「ああ」
「北部へ行ったら、すべての倉庫を調べます」
「覚悟している」
「報告書が遅れた場合、責任者でも容赦なく催促します」
「それは少し手加減してくれ」
「できません」
私が答えると、カイルは笑った。
その笑い声につられて、私も笑った。
新しい帳簿を開く。
最初の頁に、日付を書いた。
北部穀物管理制度再編記録。
その下に、二人の名前を並べる。
記録担当 エリナ・ヴァルト。
現場担当 カイル・レグナード。
「俺の名前まで書くのか」
「共同責任者ですから」
「消すつもりは?」
「ありません」
記録は、過去を並べるだけのものではない。
声を上げられなかった人の代わりになる。
隠された罪を、光の下へ引き出す。
そして、ときには。
これから誰と歩いていくのかを、残すこともできる。
私は、最初の頁に並んだ二人の名前を見つめた。
そして、その一行を消さなかった。
お読みいただき、ありがとうございます。




