燃やされなかった命令書
「この命令書は、燃やすために置かれたものではありません」
私がそう言うと、ローディス監察官は、焦げた紙から顔を上げた。
「文書庫に火がつけられ、その中から見つかったのですよ」
「だからこそです」
私は命令書を机に置いた。
上端と左右は黒く焦げている。
けれど、本文はほとんど残っていた。
そして最も重要な署名欄には、火も水も届いていない。
「他の書類は木箱の中へ押し込まれていました。ですが、これは一番上に置かれていた」
「偶然では?」
「火をつけるために使われた布を見てください」
部屋の隅には、水に濡れた布が広げられていた。
油が染み込ませてあるのは両端だけ。
中央部分には、ほとんど油がついていない。
その上に、命令書が置かれていた。
「火は紙の周囲から燃え広がります。見習いが発見しなくても、本文と署名は最後まで残った可能性が高い」
「つまり、犯人はこの書類を焼こうとしたのではないと?」
「私たちに見つけさせようとしたのです」
文書庫に煙を出せば、人が集まる。
その中から、私の署名が入った命令書が発見される。
火災を起こした者が逃げても、疑いは私に残る。
「推測です」
ローディス監察官は言った。
「意図的に残されたと証明するものはありません」
「では、紙の裏を見てください」
私は命令書を裏返した。
右下に、薄い青色で小さな数字が入っている。
王国監察院が使う正式な命令用紙には、一枚ずつ異なる管理番号が刻まれている。
偽造や差し替えを防ぐためだ。
「監査用紙、第二十七号」
ローディス監察官が読み上げた。
「これは、あなたの監査室へ支給された番号ですか」
「はい」
北部へ出発する前、私は支給された公文用紙の番号をすべて控えていた。
二十七号も、確かにその中に含まれている。
「それなら、この紙は本物ということになります」
「いいえ」
私は携帯していた記録箱を開けた。
中から一通の控えを取り出す。
「本物の二十七号は、こちらです」
それは二週間前、南部監査室へ送った照会書だった。
原本はすでに王都から発送されているが、控えには使用した紙の番号が記録されている。
送達記録にも、南部監査室が受け取ったことが残っている。
「同じ番号の用紙が二枚存在する?」
「公文用紙そのものが複製されています」
ローディス監察官の表情が変わった。
署名を似せるだけなら、過去の報告書を手に入れればできる。
だが、公文用紙の番号まで正確に複製するには、監察院が使用する原版か、用紙管理簿を見る必要がある。
「番号を知っている者は?」
「用紙を作る王立印刷所。監察院の備品管理官。それから、支給先を記録する中央書記官です」
「あなた自身も知っている」
「はい」
私は命令書から目をそらさなかった。
「ですから、私も調査対象から外れるべきではありません」
ローディス監察官は黙ったまま、二つの二十七号を見比べた。
「二十四時間です」
「三日ではなかったのですか」
「状況が変わりました」
彼は焦げた命令書を証拠袋へ入れ、封をした。
「二十四時間以内に、この用紙が複製された経路を示してください。できなければ、あなたを正式な被疑者として扱います」
「種麦の調査は?」
「続けて構いません。ただし、私がすべてに同行します」
残された時間は一日。
七村が種を蒔ける期限は、あと十日。
どちらも止まってはくれない。
◇
倒れていた見習いが目を覚ましたのは、それから半刻後だった。
名はノア。
文書庫の整理を任されて、まだ二か月しか経っていないという。
寝台のそばには医師とローディス監察官が立ち、カイルは入口を塞ぐように腕を組んでいた。
「無理に話す必要はありません」
私が言うと、ノアは首を振った。
「あの紙を……見つけましたか」
「はい。あなたが守ってくれた命令書です」
「違います」
少年の声は震えていた。
「あれを守ろうとしたんじゃありません」
「では、なぜ握っていたのです」
「持って逃げろと言われたんです」
「誰に?」
「オスカーさんです」
部屋が静まり返った。
「間違いありませんか」
「以前、ここで働いていたころに何度も会いました。死んだと聞いていたけど、昨日、グレン副管理官と一緒に文書庫へ来ました」
「オスカーは、何をしていましたか」
「書類を探していました。僕が声をかけたら、グレン副管理官に後ろから殴られて……」
ノアは額の包帯に触れた。
「倒れる前に、二人が言い争う声を聞きました」
「何と言っていましたか」
「グレン副管理官が、火をつけろと言いました。でも、オスカーさんは拒んでいました」
私は焦げた命令書を思い出した。
「それから?」
「グレン副管理官が、あの紙を箱の上に置きました」
ノアは掠れた声で続けた。
「『それは燃やすな。あの女に見つけさせろ』って」
ローディス監察官が私を見る。
「そのあと、二人は?」
「グレン副管理官は先に出ていきました。オスカーさんは火のついた布を踏んで消そうとして……僕に、あの紙を渡しました」
「なぜ持って逃げろと?」
「わかりません。オスカーさんも怪我をしていました。脇腹から血が出ていて……」
オスカーはグレンと行動していた。
だが、完全な協力者ではなかった。
「どこへ向かったか、聞いていませんか」
カイルが尋ねた。
ノアは目を閉じ、記憶を探した。
「第二倉庫……」
「第二倉庫?」
「グレン副管理官が、そこで荷を移すと言っていました」
そこまで話すと、ノアの呼吸が浅くなった。
医師が私たちを寝台から離す。
必要なことは聞けた。
命令書は、やはり燃やすために置かれたものではなかった。
そして、死んだはずのオスカーは、まだ生きている可能性が高い。
◇
死亡簿には、オスカーの死が詳しく記録されていた。
三か月前、北部の山道で雪崩が発生。
巻き込まれた荷車は一台。
二日後、雪の中から遺体が発見された。
身元確認者――グレン・ハルト。
「顔を確認した者は?」
私が尋ねると、管理所の書記官は首を横に振った。
「損傷が激しく、顔では判別できなかったと聞いています」
「では、何を根拠にオスカーだと判断したのです」
「着ていた外套と、所持品です」
保管箱の中には、回収された遺品の一覧があった。
北部穀物管理所の身分証。
オスカーの名が刻まれた銅牌。
記録官用の筆入れ。
灰色の外套。
どれも本人が使っていたものだ。
だが、本人だけが持てるものではない。
「埋葬には誰が立ち会いましたか」
「グレン副管理官と、管理所の者が二人です」
「棺は開けましたか」
「いいえ。すぐに封じられました」
オスカーの死を直接確認した者は、グレン一人。
そのグレンが死亡届を作成し、葬儀を手配し、遺品を管理所へ持ち帰っていた。
「墓を調べる必要がありますね」
ローディス監察官が言った。
「今は種麦が先です」
私は死亡簿を閉じた。
「七村が種を蒔ける期限は、あと十日しかありません」
「第二倉庫という名は、正式な倉庫一覧にはありません」
「俺は知っている」
カイルが壁に掛けられた北部の地図を指した。
「北の砦が移されたとき、古い軍用倉庫も閉鎖された。正式名称は第五軍糧庫だが、地元の運送人は第二倉庫と呼んでいた」
「なぜ第二なのです」
「街道の第二分岐にあるからだ。管理所の記録には、十五年前に廃止されたと書かれている」
「廃止された倉庫なら、種麦を移しても監査対象になりにくい」
ローディス監察官は守衛二名を呼び、馬を用意させた。
出発前、私はカイルを呼び止めた。
「もし、あの命令書が偽物だと証明できなかったら」
「証明する」
「それでも、できなかったら?」
カイルはすぐには答えなかった。
慰めるような言葉を探しているのではない。
本当に、その可能性を考えていた。
「そのときは、俺もお前を疑う」
予想していた答えなのに、胸の奥が痛んだ。
「そうですか」
「だが、お前がやっていないと言うなら、その言葉も記録の一つとして調べる」
「信じるとは言わないのですね」
「信じているから、例外にしない」
彼は私の目を見た。
「俺の印を調べたように、お前の署名も調べる。それで残ったものを、俺は信じる」
私は小さく息を吐いた。
「わかりました」
それでよかった。
私が隣にいたいと思ったのは、私だけを記録の外へ置く人ではない。
「行きましょう」
「ああ」
◇
古い軍用倉庫は、北の森を抜けた先にあった。
石壁の半分は蔦に覆われ、正面の扉には鍵がない。
カイルが扉を押すと、錆びた蝶番が低い音を立てた。
中には何もなかった。
穀物袋も、荷車もない。
「また外れか」
守衛が呟く。
「いいえ」
私は床にしゃがんだ。
石の隙間に、まだ乾いていない泥が入り込んでいる。
その上には、小麦が数粒落ちていた。
指でつまむと、殻は新しい。
奥の壁には、袋を積み上げた跡も残っている。
「ここにありました」
「いつまでだ」
カイルが床へ手を当てた。
「車輪の泥が乾いていない。今日か、遅くても昨日だ」
種麦は一度、この倉庫へ運び込まれた。
そして、私たちが到着する直前に、別の場所へ移されている。
「車輪の跡は正面で途切れています」
ローディス監察官が外を確認して戻ってきた。
「街道へ出たあとでは追えません」
「正面から出たとは限りません」
倉庫の古い図面は持っていない。
だが、軍用倉庫なら、敵に包囲された際の搬出口がある可能性が高い。
カイルが壁沿いを調べ、奥に積まれた腐った木板をどけた。
その後ろから、地下へ続く石段が現れた。
階段の先には、小さな装卸口があった。
外からは茂みに隠れて見えない。
泥の上に、二本の車輪痕が続いている。
「北東へ向かっている」
カイルが言った。
そのとき、茂みの奥から物音がした。
守衛が剣を抜く。
「誰だ!」
返事はない。
代わりに、人が倒れるような鈍い音が聞こえた。
カイルが先に茂みへ踏み込む。
そこに、一人の男が倒れていた。
灰色の服は血に染まり、脇腹には刃物で切られた傷がある。
まだ息はあった。
「水を!」
私は男のそばに膝をついた。
あとから来た年上の守衛が、その顔を見て立ち止まった。
「この男です」
「知っているのですか」
「昨日、北門を通った男です」
守衛の顔から血の気が引いていく。
「オスカー・ベルンです」
死んだ男が、私の目の前で息をしていた。
「オスカー、聞こえますか」
男の瞼がかすかに動く。
「種麦はどこです」
唇が動いたが、声にならない。
私は耳を近づけた。
「……北東……川を越える前に……」
「グレンが運んだのですか」
オスカーの指が、私の袖を掴んだ。
弱い力だった。
それでも、離すまいとしている。
「逃げて……ください」
「誰からですか」
「あの命令書を作ったのは、グレンではない」
「では、誰が?」
「署名の見本も……用紙の番号も……北部では手に入らない」
オスカーは苦しそうに息を吸った。
「あなたの署名を写した者は……北部にはいません」
「どこにいるのです」
男の目が、私の後ろに立つローディス監察官へ動いた。
次の瞬間、その身体から力が抜けた。
「オスカー!」
気を失っただけだった。
だが、もう問いに答えることはできない。
彼が最後に残した言葉だけが、耳に残っていた。
私の署名を写した者は、北部にはいない。
その者は――
王国監察院の中にいる。
お読みいただき、ありがとうございます。




