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「役立たずの記録係はいらない」と婚約破棄されましたが、王国を救ったのは私の帳簿でした  作者: 北野風人


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見つかる前の逮捕状

「ローディス監察官。剣を置いてください」


 年長の守衛が剣を抜いた。


 もう一人の守衛も、倒れているオスカーを庇うように前へ出る。


 オスカーが意識を失う直前、目を向けた先にいたのはローディス監察官だった。


 そして、彼が残した言葉は――王国監察院の中にいる。


「待ってください」


 私が止めるより先に、ローディス監察官は自分から剣を外した。


 腰につけていた監察官印も取り、地面へ置く。


「これも預けましょう」


「ローディス監察官」


「疑われた者を記録の外に置くべきではない。あなた方が、先ほどそう言ったのでしょう」


 ローディス監察官は両手を見える位置まで上げた。


「私の荷物も調べて構いません。ただし、今ここで私を拘束すれば、あなたを監督する者がいなくなる」


「オスカーは、あなたが内通者だとは言っていません」


 私は守衛に剣を下ろすよう合図した。


「王国監察院の中にいる、と言っただけです」


「それだけでも、私を疑う理由にはなる」


「はい。ですから、剣と印章は守衛に預けてください。以後、送る文書には私とカイル、あなた、それに守衛二名の署名をつけます」


「異存はありません」


 ローディス監察官は、剣と印章を年長の守衛へ渡した。


 疑いは消えていない。


 けれど、今は立ち止まっている時間がなかった。


 オスカーの脇腹からは、まだ血が流れている。


 種麦を積んだ荷車は、すでに北東へ向かっている。


「オスカーを管理所へ運んでください」


 私は若い守衛に言った。


「医師と見習いのノアに見張ってもらいます。目を覚ましても、私たちが戻るまで一人にしないでください」


「わかりました」


 守衛がオスカーを馬へ乗せる。


 カイルは茂みの外へ続く車輪痕を調べていた。


「二台分ある。北東へ向かっている」


「その先には?」


「二つの道がある。川沿いの廃渡しへ向かう道と、石橋へ向かう街道だ」


「どちらが近いのですか」


「廃渡しだ。だが、昨日の雨で道がぬかるんでいる。重い荷車なら、石橋を使う」


 私たちは古い軍用倉庫へ戻った。


 壁に掛けられた地図と、残された書類をもう一度調べる。


 小さな事務机の引き出しには、ほとんど何もなかった。


 折れた筆。


 乾いた墨壺。


 使いかけの縄。


 そして、二枚重ねになった薄い紙。


「これは……」


 上の一枚は、馬の飼料と交換馬を予約するための申請書だった。


 昨日の日付。


 申請者は北部穀物管理所。


 場所は、石橋の手前にある橋詰宿駅。


 交換馬十二頭。


 飼料二十四袋。


「十二頭も?」


 ローディス監察官が申請書を受け取る。


「重い荷を運ぶ準備です」


 私は下の紙を確認した。


 廃渡し側の宿駅へ提出するための申請書だったが、交換馬は二頭しか書かれていない。


 しかも、こちらには受領印がない。


「渡しへ向かう車輪痕を見せるため、空の荷車だけを走らせたのでしょう」


「だが、俺が見た痕は深かった」


 カイルが言った。


「荷台に石を積めば、重い荷車の跡を作れます」


「本物の種麦は石橋へ向かった」


「橋詰宿駅で十二頭の交換馬を用意しているなら、その可能性が高いです」


 カイルは迷わず地図から手を離した。


「なら、橋へ行く」


 以前の彼なら、自分の目で見た車輪痕を信じたかもしれない。


 今は、紙の端に残っていた一つの受領印を信じ、進路を変えた。


「先に一人、近くの村へ走らせる」


 カイルは守衛の一人を呼んだ。


「石橋に最も近い二つの村へ知らせろ。荷車と長い縄を持って来るように。何台来られるかわからなくても構わない」


「村人を巻き込むのですか」


 ローディス監察官が尋ねた。


「彼らの種だ」


 カイルは短く答えた。


「取り戻したあと、運ぶ手も必要になる」


 守衛が馬を走らせる。


 私たちも、石橋へ向けて出発した。


     ◇


 森を抜けるころには、空が赤く染まり始めていた。


 街道の先に、黒い布をかけた荷車が見える。


 六台。


 荷台には、黒い袋が積まれていた。


 カイルが馬の速度を落とす。


「木炭運びに見せているな」


「見せているだけです」


 私は道の脇に残った車輪痕を見た。


 木炭はかさばるが、重くはない。


 だが、六台の荷車が残した轍は深く、車輪の半分近くまで泥に沈んでいる。


 馬も汗をかき、息を荒くしていた。


 それだけではない。


「木炭を積んでいるなら、袋や荷台に黒い粉がつくはずです」


 遠目にも、荷台の木枠はきれいなままだった。


「中身は木炭ではありません」


 カイルが片手を上げる。


 私たちは左右に分かれ、荷車との距離を詰めた。


「北部穀物管理所だ! 荷車を止めろ!」


 先頭の御者が振り返った。


 次の瞬間、鞭を振り上げる。


 六台の荷車が一斉に速度を上げた。


「止まる気はないらしい」


 カイルが馬を駆った。


 石橋までは、もう半里もない。


 荷車が橋を渡れば、その先は二つの領地へ道が分かれる。


 追跡は難しくなる。


 最後尾の荷車へ追いついたカイルが、御者の手から鞭を弾き飛ばした。


 御者が荷台から飛び降り、森へ逃げ込む。


 私は止まった荷車へ駆け寄り、袋の口を開いた。


 中から出てきたのは、小麦ではなかった。


 石だった。


「偽物です!」


 二台目の荷車も、積まれているのは石だった。


 重い車輪痕を残し、追う者を足止めするための囮。


 その間に、前を走る四台が石橋へ近づいていく。


「前の四台が種麦です!」


 カイルと守衛たちが、さらに馬を走らせる。


 先頭の一台はすでに橋を渡り始めていた。


 二台目、三台目があとに続く。


 最後の一台だけが、橋の手前で急に向きを変えた。


「何をする気だ」


 荷車の横に、一人の男が立っていた。


 グレン・ハルト。


 彼は御者台へ上がると、馬を川岸へ向けて走らせた。


「止まれ、グレン!」


 カイルの声に、グレンは振り返らない。


 荷車は橋を外れ、川沿いの斜面へ向かっている。


 川へ落とすつもりだ。


 種麦は食用の麦とは違う。


 一度深く水に浸かれば、芽が出なくなる可能性がある。


「荷車を捨てて、馬を切り離してください!」


 私が叫ぶ。


 だが、グレンは逆に鞭を振るった。


 馬が怯え、斜面へ向かう速度を上げる。


 カイルが馬から飛び降りた。


 走る荷車の側面へ取りつき、御者台のグレンを引きずり下ろす。


 二人が地面へ転がった。


 手綱を失った荷車は止まらない。


 前輪が斜面にかかる。


「縄を!」


 守衛が荷台へ縄を投げた。


 一本は木枠にかかったが、もう一本は届かなかった。


 私も縄を掴んだ。


 ローディス監察官と守衛が並び、身体を後ろへ倒す。


 それでも、荷車は少しずつ斜面を滑っていく。


 前輪が地面から外れた。


 袋が一つ、川へ落ちる。


「まだだ!」


 背後から声が聞こえた。


 振り返る余裕はなかった。


 誰かが私の後ろで縄を掴む。


 さらに一人。


 もう一人。


 村から駆けつけた人々だった。


 老人も、若者もいた。


 畑仕事の服のまま、息を切らしている。


 別の村から来た者たちも、荷車から長い縄を下ろしていた。


「引け!」


 誰かが叫んだ。


 十人。


 二十人。


 縄を握る手が増えていく。


 少しずつ、荷車の動きが止まった。


 車輪が軋む。


 縄が手のひらへ食い込む。


 誰が一番強く引いたのかは、わからない。


 誰の手が最後の一本だったのかも、記録できない。


 それでも、川へ傾いていた荷車は止まった。


 やがて、後ろから来た空の荷車に縄を結び、種麦を積んだ車体を斜面から引き上げた。


 村人たちの間から、低い歓声が上がった。


「中を確認します」


 私は袋の一つを開いた。


 表面には薄く木炭が詰められている。


 だが、その下から現れたのは、乾いた小麦だった。


「種麦です」


 村人の一人が、その場に膝をついた。


 麦を一粒、掌に乗せる。


 泣いているのか、笑っているのかわからない顔だった。


     ◇


 四台の種麦のうち、三台を取り戻すことができた。


 先頭の一台は、すでに石橋を渡っていた。


 追手を出したが、分かれ道の先で車輪痕を見失った。


 取り戻した量だけでは、七つの村すべての畑に蒔くには足りない。


 それでも、最低限の作付けはできる。


「村の大きさで分けるのか」


 村長が尋ねた。


「いいえ。畑の広さだけで分ければ、小さな村は来年の種まで失います」


 私は各村の人口と、去年の収穫量を書き出した。


 まず、それぞれの村が翌年まで残るために必要な最低量を配る。


 残った分を耕地面積に応じて分ける。


「全員が望む量を受け取ることはできません」


 私は集まった村人たちに伝えた。


「ですが、どの村も一つも蒔けないということはありません」


 反対の声が上がると思った。


 けれど、最初の村長が静かに頷いた。


「なくなったと思っていた種です。それだけ戻れば、畑を空にはしなくて済む」


 村人たちは、割り当てられた袋の数を自分たちでも数えた。


 私が書いた数字と一致することを確かめ、それぞれ受領簿へ署名する。


 今度は本物の村印を使った。


 誰か一人の机の上ではなく、種を受け取った人々の目の前で。


 少し離れた場所では、カイルがグレンの腕を後ろへ回し、縄で縛っていた。


「離せ!」


 グレンが身体を捩る。


「俺を捕らえても、もう遅い!」


「何が遅い」


「その女だ」


 グレンは私を見た。


 口元に、歪んだ笑みが浮かぶ。


「王都では、とっくに捕らえる命令が出ている」


「何を言っている」


「戻ればわかる。いや、戻る必要もないか」


 遠くから、馬の蹄の音が聞こえた。


 一頭。


 石橋の向こうから、こちらへ近づいてくる。


 騎手は王国監察院の色をつけた外套を着ていた。


 ローディス監察官が前へ出る。


「王都からの使者か」


 騎手は馬を止め、息を切らしながら封書を差し出した。


「王国監察院から、北部監査団への緊急命令です」


 封蝋に押されているのは、王国監察院の正式な印。


 ローディス監察官は、自分の印章が守衛の手元にあることを確認してから、封を切った。


 文書を読み進めるうちに、その顔が険しくなる。


「何が書かれているのです」


 ローディス監察官は、すぐには答えなかった。


 やがて、私へ文書を差し出した。


 王国記録監査官エリナ・ヴァルトを、公文書偽造、北部種麦の横領、および証拠隠滅の容疑で拘束する。


 身分証と監察官印を没収し、王都へ護送すること。


 署名も、封印も、正式なものだった。


「この逮捕状は、いつ王都を出たのですか」


 私は使者に尋ねた。


「二日前です」


「間違いありませんか」


「はい。昼夜交代で馬を替え、運んできました」


 王都から北部までは、どれだけ急いでも二日かかる。


 私は逮捕状の発行日を確認した。


 二日前。


 私が文書庫で偽造命令書を発見したのは、昨日だ。


 逮捕状が作られた時点では、私はまだ、その命令書の存在すら知らなかった。


 それなのに、逮捕理由にはこう書かれている。


 北部七村への種麦輸送停止命令を偽造し、種麦を不正に移送した。


 ローディス監察官も、その矛盾に気づいたらしい。


「なぜ王都が、この命令書を知っている」


 誰も答えなかった。


 二日前。


 私が偽造された命令書を見つける、前の日。


 王都にいる誰かは、北部で何が発見されるのかを、私より先に知っていた。

お読みいただき、ありがとうございます。

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