足りない一日
帳簿が燃えても、取引の相手まで燃えたわけではない。
翌朝、私は焼け残った机に紙を広げた。
右手を火傷したカイルが、向かいに立っている。
「何を書いている」
「失われた記録の一覧です」
「記録そのものがないのに?」
「何が失われたのかを確認しなければ、どこで補えるか分かりません」
私は項目を一つずつ書き出した。
小麦受払簿。
袋と封蝋の使用記録。
馬車の入出庫記録。
夜間勤務表。
門の開閉記録。
灯油購入記録。
カイルが最後の文字を見た。
「灯油?」
「倉庫が灯油を買えば、売った商人にも記録が残ります。馬へ飼料を与えれば、街道の宿駅にも支給記録が残る」
「倉庫側の帳簿がなくても、相手側を調べればいいのか」
「すべての取引には、少なくとも二人います」
受け取った者と、渡した者。
買った者と、売った者。
送った者と、受け取った者。
一方の記録が消えても、もう一方には同じ日の痕跡が残る。
「まず、どこへ行く」
「北街道の宿駅です。王都行きの馬車が、いつ、どれだけ飼料を受け取ったか確認します」
カイルは外套を手に取った。
「俺も行く」
「右手を休ませたほうがいいのでは?」
「字は書けないが、馬には乗れる」
「無理はしないでください」
「命令か?」
「注意です」
「便利な言葉だな」
◇
ベルナ倉庫から王都までの北街道には、五つの宿駅がある。
馬車隊は各宿駅で、通過した馬車の台数と馬へ支給された飼料を記録される。
その記録は倉庫ではなく、それぞれの宿駅に保管されていた。
最初の宿駅で、過去三年分の飼料支給簿を開く。
ベルナ倉庫を出た馬車隊の印を探し、日付、台数、飼料の量を作業帳へ写した。
二番目、三番目も同じだった。
記録に目立った異常はない。
「何も出ないな」
三番目の宿駅を出たところで、カイルが言った。
「まだ三つ目です」
「王都の記録係は、諦めも悪いのか」
「私だけだと思います」
「それも前に聞いた」
四番目の宿駅は、川沿いの小さな町にあった。
帳場を預かる老人は、財務局の検査命令書を見ると、古い支給簿を出してくれた。
私は頁をめくった。
ベルナ倉庫の馬車隊。
通過日。
馬車の台数。
飼料の量。
前年の記録と照合する。
そこで、手が止まった。
「同じ馬車隊が、二日続けて飼料を受け取っています」
カイルが横から帳簿をのぞき込む。
「雪で足止めされたのでは?」
「天候不良の記載はありません。修理記録もない」
さらに前年、その前の年を確かめた。
同じだった。
ベルナ倉庫から来た馬車隊だけが、四番目の宿駅で二日分の飼料を受け取っている。
けれど、王都へ提出された行程表に、二日目は存在しない。
四番目の宿駅を出発した翌日には、五番目の宿駅へ到着したことになっている。
「宿駅に二泊したのですか」
私が尋ねると、老人は首を横に振った。
「いいえ。最初の朝には、いつもどおり出ていきました」
「では、二日目の飼料は誰に渡したのですか」
「同じ馬車隊の御者です。その日の夕方に戻ってきて、もう一度、馬へ飼料をくれと言いました」
「どこへ行っていたか、聞きましたか」
「川向こうの古い倉庫へ、荷を届けたと」
「何の倉庫ですか」
「昔、塩を保管していた建物です。今は何に使っているのか知りません」
私は二つの記録を並べた。
宿駅の支給簿には、同じ馬車隊が二日間いた。
王都へ提出された行程表には、一日しかいない。
「一日が消されています」
カイルが言った。
「行程表からは、そう見えます」
「毎年、同じ場所でか」
「少なくとも三年間は」
老人が、もう一冊の帳簿を取り出した。
「そういえば、馬の飼料だけではありません。二日目には、灯油も渡しています」
「宿駅で使うためですか」
「いいえ。馬車隊の責任者が持っていきました。古い倉庫で、夜も荷を動かすからと」
「量は?」
「二樽です」
小麦を運ぶ馬車隊。
記録から消えた一日。
追加された飼料。
夜間作業のための灯油。
「受取人の署名は残っていますか」
老人は帳簿の下を指した。
名前ではなく、簡単な印が押されている。
三本の麦穂を束ねた紋章。
カイルの表情が変わった。
「知っているのですか」
「バルガス家の領地印だ」
◇
私たちは先に、町の徴税所へ向かった。
土地台帳で所有者を確認しなければ、いくら財務局の調査隊でも、無関係な建物へ立ち入ることはできない。
旧塩倉の頁を開く。
十五年前、王国の塩専売制度が変わったため閉鎖。
その後、複数の商会へ短期間貸し出されている。
現在の管理者欄には、こう記されていた。
『バルガス侯爵領財務所』
管理契約が始まったのは、十八年前。
ベルナ倉庫で、異常な量器交換が最初に記録されたのは十五年前。
契約開始の三年後だった。
「これで、建物を調べられます」
財務局監査官は、検査命令書へ旧塩倉の名称と確認理由を書き加え、徴税官に立会人として署名を求めた。
正式な記録を残したうえで、私たちは川を渡った。
◇
旧塩倉は、高い石壁に囲まれていた。
門には古い錠が掛けられている。
建物を管理する者は、町にいないという。
「検査命令に基づき、開錠します」
監査官が宣言し、護衛が徴税官の立ち会いのもとで錠を切った。
扉を開く。
中は空だった。
棚にも床にも、塩袋はない。
小麦袋も、馬車も、人の姿も見当たらなかった。
ただ、石の床には、新しく掃いた跡が残っている。
壁際だけ、箒が届かなかったらしい。
私はしゃがみ、小さな粒を拾い上げた。
「小麦です」
カイルも隣へ膝をついた。
一粒だけではない。
石壁と床の隙間に、乾いた小麦がいくつも挟まっている。
「最近まで、ここに保管されていた」
「小麦があったことは分かります。ただし、量までは分かりません」
「また、その言い方か」
「分からないことを、分かるとは言えません」
私は小麦を小袋へ入れ、発見場所と時刻を書いた札を結んだ。
奥の部屋には、割れた封蝋が落ちていた。
赤い蝋。
北部備蓄庫の印章の一部。
カイルが手を伸ばしかけて止める。
「触る前に、位置を記録するんだったな」
「覚えてくださったのですね」
「何度も言われたからな」
割れた封蝋の位置を図にし、監査官、護衛、徴税官にも確認してもらう。
奥の壁には、二つの樽を置いていたような油染みがあった。
馬車隊はここへ小麦を運び、夜のうちに別の馬車へ積み替えた。
そう考えれば、記録から消えた一日の意味がつながる。
だが、その先はまだ推測だった。
「この小麦が、ベルナ倉庫から運ばれたことを証明する必要があります」
「北部備蓄庫の封蝋がある」
「同じ印章を使った別の荷物かもしれません」
「ここまで揃っても、まだ足りないのか」
「疑う人を納得させるには、足りません」
カイルはため息をついた。
けれど、もう反対はしなかった。
◇
徴税所へ戻り、土地台帳の正式な写しを作成してもらった。
徴税官が原本と照合し、頁の下へ印章を押す。
その直後、外から馬の蹄の音が聞こえた。
一頭の馬が、徴税所の前で止まる。
王都の伝令だった。
「王宮記録局、エリナ・ヴァルト殿」
名を呼ばれ、私は前へ出た。
「王都からの緊急命令です」
差し出された書状には、王国穀物管理局と財務局、二つの封印が押されていた。
私はその場で封を切った。
『ベルナ倉庫および関連施設における調査を、即時停止する』
一行目を読んだだけで、部屋の空気が変わった。
『記録係エリナ・ヴァルトには、廃棄済み量器への加工、関係者に対する誘導的な聴取、私怨に基づく記録の選別、および証拠捏造の疑いがある』
「証拠捏造?」
カイルが書状を受け取った。
『元婚約者レオン・グラーツ、および、その婚約予定者セシリア・バルガスへの個人的な怨恨が、調査に影響した可能性を否定できない』
指先が冷たくなった。
大広間に広がった笑い声が、三か月ぶりに耳の奥で蘇る。
「馬鹿な」
カイルが低く言った。
「升を見つけたのは馬番だ。測定には俺も監査官も立ち会った」
「それでも、私が調査対象になったことは事実です」
「事実なら、何でも受け入れるのか」
「いいえ」
私は書状を最後まで読んだ。
翌日正午までに調査を停止すること。
すべての証拠品と調査資料を封印し、直ちに王都へ帰還すること。
命令に従わない場合、記録官資格を停止する。
「王都へ戻ります」
「このまま戻れば、向こうの思いどおりだ」
「だから戻るのです」
「何?」
「この命令は、調査を止めるためだけではありません。私を記録から外すためのものです」
私は、土地台帳の写しを持ち上げた。
「ならば、外される前に、残った記録を王都へ持ち帰ります」
「一人でか」
「調査隊と一緒にです」
「そういう意味ではない」
カイルは、まだ包帯の巻かれた右手で外套をつかんだ。
「俺も行く」
「あなたには、北部備蓄庫の仕事があります」
「三度報告しても無視された。四度目に来た人間が捏造者にされるのを、ここで見ていろと言うのか」
私は答えられなかった。
カイルは机の上の確認書を引き寄せた。
使える左手で、頁の末尾へ名前を書く。
慣れない手で書かれた文字は歪んでいた。
それでも、その名ははっきり読めた。
カイル・レグナード。
「現場で見たことは、俺が証言する」
その一行を見たとき、胸の奥に残っていた冷たさが、ほんの少しだけほどけた。
帳簿から消された一日は、道の上に残っていた。
そして今度は、私自身が記録から消されようとしていた。
お読みいただき、ありがとうございます。




