名前と責任
「候補者の欄に、私の名を出したのは私自身だ」
ギルバートの言葉は、冷えた検問所の中に重く落ちた。
王宮の記録官は筆を止め、エドガーは机の向こうに立つ男を見据えている。
「理由を聞かせてください」
私が言うと、ギルバートは窓の外へ目を向けた。
王宮へ向かった急使の姿は、もう雪の向こうへ消えている。
「北部の食糧が消えても、穀倉は出庫記録を示すだけだ。救済局は配分命令に不備はないと言い、北門は許可証が本物なら通す」
「三つの部署が、それぞれ自分の記録だけを守っている」
「そうだ。どの記録も、単独では間違っていない。だが、その間で食糧が消えた」
「だから、三つの権限を自分に集めるのですか」
「責任を押しつけ合うなら、私がすべて引き受ける」
迷いのない声だった。
彼は権力を得たいだけではない。
本当に、自分なら止められると思っている。
だからこそ、危険だった。
「引き受けることと、独占することは違います」
「今の仕組みで、セラ村を救えたか」
「救えませんでした」
「十一の村が雪に閉ざされたとき、三つの部署の許可を待っていたら、食糧が届く前に人が死んでいた」
「だから七年前、北門を開けたのですね」
ギルバートは答えなかった。
当時まだ若かった彼は、ハルトが命令に背いて門を開けるところを見ている。
許可を待たずに運び出された食糧が、十一の村を救った。
その経験が、彼に何を信じさせたのか、ようやく分かった。
正しい者がすべてを決めれば、人を救える。
彼は今も、そう考えている。
「あなたが正しい人間かどうかは、問題ではありません」
私は言った。
「では、何が問題だ」
「正しい人間でなければ扱えない権限を、作ろうとしていることです」
ギルバートの目が細くなった。
「代わりの方法があるのか」
「審議の場で提案します」
「間に合わなければ?」
「そのときは、反対した記録だけが残ります」
「役に立たない記録だ」
「ですから、間に合わせます」
検問所の外で馬がいなないた。
空が明るくなり始めている。
正午まで時間がない。
「王都へ戻ります」
私が言うと、ギルバートは北門衛兵の一人を呼び、腰に下げていた通行証を渡した。
「軍用の交換馬を使え。北門まで二度替えれば、午前中に着く」
「私たちに使わせてよいのですか」
「正午の審議に候補者が遅れれば、任命はできない」
「あなたも行くのですね」
「私の名前について話す場だ。ほかの者には任せない」
ギルバートは外套を取った。
「ただし、私は候補を降りない」
「構いません」
私が答えると、彼は意外そうに私を見た。
「反対しないのか」
「あなたの任命と、権限を一人へ集中することは別の問題です」
「私が監督官になってもよいと?」
「監督される監督官なら」
ギルバートは一瞬だけ眉を動かした。
「本当に、言い方が気に入らない」
「よく言われます」
私たちは検問所を出た。
オスカーの乗った馬車は、あとから王都へ向かう。肩の傷を考えれば、そのほうがいい。
エドガーは、私たちと一緒に馬へ乗った。
王都へ近づくにつれ、雪は弱くなった。
街道を行く人と馬車の数が増える。北門の塔が見えたとき、朝の鐘はすでに鳴り終わっていた。
ギルバートが先頭に立っていたため、門で止められることはなかった。
それでも、エドガーは通行所の前で馬を止めた。
「氏名を」
門番が尋ねる。
エドガーは一度、王都の内側を見た。
七年前、死者として記録されてから、一度も入っていない場所だった。
「エドガー・ロウ」
彼は答えた。
「生存確認書がある」
門番が名簿を調べる。
そこには、死亡の記録しかない。
私は生存確認書の原本を差し出した。
「北部臨時監査官、エリナ・ヴァルトが確認しました」
門番はギルバートを見る。
「通せ」
ギルバートが言った。
「ただし、通行記録に生存確認書の番号を残せ」
門番はエドガーの名前と書面番号を記入した。
エドガーは、その筆先を見ていた。
「入ってよい」
門番に言われても、すぐには動かなかった。
「どうしました」
私が尋ねる。
「何でもない」
エドガーは手綱を握り直した。
「生きて王都へ入るのが、久しぶりなだけだ」
私たちは北門をくぐった。
王宮救済局へ到着したのは、正午より一刻ほど前だった。
入口にはノラが立っていた。
私を見ると、すぐに走ってくる。
「エリナ!」
「文書は?」
挨拶より先に尋ねると、ノラは呆れたように息を吐いた。
「届いています。三つの封印も、ギルバート司令代理の追加印も、すべて無事です」
「受付記録は?」
「確認しました」
ノラは一枚の受領証を差し出した。
受領時刻。
急使の氏名。
同行した北門衛兵の氏名。
封印の状態。
受領担当者の署名。
すべて記入されている。
セラ村共同体、四十七名。
エドガー・ロウ、生存確認。
北部救済物資の未着に関する証言。
その三つが、王宮の中央受付簿に登録されていた。
「今度は、消されていません」
ノラが言った。
「はい」
私は受領証を鞄へ入れた。
「ですが、まだ人を救う記録にはなっていません」
「審議室の準備はできています」
ノラはギルバートに気づき、表情を硬くした。
「司令代理も?」
「候補者だからな」
ギルバートが答える。
ノラは何か言いたそうだったが、飲み込んだ。
「ローディス様が中で待っています」
正午の鐘が鳴る少し前、審議が始まった。
出席者は多くなかった。
王宮特使。
救済局長。
財務局の代表。
北部穀倉管理所の責任者。
ギルバート。
ローディス。
そして、記録官として私とノラ。
部屋の中央には、北部救済監督官への権限移管案が置かれていた。
「北部では、すでに複数の街道が雪で閉ざされている」
救済局長が最初に話した。
「この冬だけでも、穀倉、救済局、北門の判断を一つにまとめる必要がある。手続きを続けている間に、被害が出る」
「その判断を、ギルバート・レインへ任せるという案ですね」
王宮特使が確認する。
「はい。北門の実情を知り、七年前の雪害時にも現場へ立ち会った人物です」
「本人の意思は?」
ギルバートが立ち上がった。
「引き受ける意思があります」
救済局長がうなずく。
私は挙手した。
「発言を許可します」
王宮特使が言った。
「権限を集中する前に、確認していただきたい事実が三つあります」
「監査資料なら、すでに提出されている」
「資料ではありません」
私は審議室の扉を見た。
「証人です」
扉が開き、エドガーが入ってきた。
粗末な外套。
雪と泥の付いた靴。
王宮の審議室には似合わない姿だった。
だが、彼は顔を上げて歩いた。
「氏名を」
王宮特使が尋ねる。
「エドガー・ロウ」
財務局の代表が手元の名簿をめくった。
「エドガー・ロウは、七年前に死亡している」
死亡者名簿が机の上へ置かれた。
エドガーは、そこにある自分の名を見た。
それから、生存確認書に残された自分の署名へ視線を移す。
「古いほうが間違っている」
彼は言った。
「今日、私が書いたのはこちらだ」
審議室が静かになった。
私は生存確認書の原本を提出した。
王宮特使が内容と署名を確認する。
「七年間、なぜ名乗り出なかった」
「名乗れば、セラ村の者たちが不正受領の共犯として捕まると思った」
「実際に救済物資を受け取っていたのか」
「最初の四年は受け取った。三年前から、八台分のうち一台分しか届かなくなった」
「残りは?」
「知らない」
救済局長が口を挟んだ。
「一人の証言だけで、制度を変えることはできない」
「そのとおりです」
私は答えた。
「ですから、確認された事実だけを申し上げます」
三枚の記録を机へ並べる。
「第一に、死亡者として登録されたエドガー・ロウは生存しています」
生存確認書。
「第二に、登録を抹消されたセラ村には四十七人が暮らしています。宿場から同行した二名と、王宮記録官が確認しました」
共同受領記録。
「第三に、過去三年間にセラ村へ届いた食糧は、本来の配分量を大きく下回っています」
実際の受領量に関する証言。
「この三つと、権限集中に何の関係がある」
救済局長が尋ねた。
「受領者の存在、配分量、到着確認。その三つに誤りがある状態で、一人にすべての権限を集めれば、誤りを止める者がいなくなります」
「今の制度でも止められていない」
「だから確認をなくすのではなく、機能する形へ変える必要があります」
私は旧検問所からの道中でまとめた案を提出した。
「緊急時には、救済監督官一人の判断で食糧を出せるようにします。ただし、通行許可と受領確認は、別の者が記録します」
「三つの部署の承認を待つのと、何が違う」
「事前の承認ではありません」
私は答えた。
「救済を先に実行し、三日以内に三者の記録を照合します。一致しなければ次の輸送を一時停止し、監査対象とします」
救済局長が文面を読む。
「三日以内に確認できない地域もある」
「その場合は、予定日と遅れる理由を先に記録します。誰が確認を引き受けたのかも残します」
「記録を増やせば、現場が遅れる」
「決定は遅らせません」
私は言った。
「ですが、誰が決め、誰が通し、誰が受け取ったのかは分けて残します」
財務局の代表がギルバートを見た。
「候補者は、どう考える」
ギルバートは立ち上がった。
「私一人に三つの権限を与えれば、決定は早くなる」
救済局長がうなずく。
「だが、私が間違えた場合、それを止める者はいない」
今度は、誰もうなずかなかった。
「緊急配分の決定権は必要だ。しかし、通行と受領の記録は別に残すべきだと考える」
「候補を辞退するのですか」
「しない」
ギルバートは答えた。
「権限を独占しなければ働けない役職なら、引き受けない。三者の確認を残し、それでも決定を早められるなら、引き受ける」
王宮特使は、机上の提案書を見た。
「正午に予定していた任命審議は、権限の範囲が確定するまで延期する」
救済局長が何か言いかける。
特使は続けた。
「ただし、北部の救済を止めることはできない。従来の三部署による確認を維持し、緊急配分に限って、実行後三日以内の事後確認を認める」
完全な解決ではない。
それでも、一人へすべての権限が集められることは止まった。
「次に、セラ村について」
王宮特使が共同受領記録を手に取る。
「四十七名の居住、二名以上の証人、食糧が尽きる危険、臨時監査官による責任署名。災害時暫定救済対象の条件を満たしている」
「正式な村として認めるのですか」
財務局の代表が尋ねた。
「違う。三十日間の暫定救済対象とする。その間に住民の確認と、七年前の登録抹消理由を調査する」
「過去の不正受領については?」
「調査が終わるまで、住民への追及を停止する」
私は息を吐いた。
七日間だった猶予が、三十日になった。
セラ村が正式に戻ったわけではない。
エドガーの死亡記録も、まだ取り消されていない。
それでも、四十七人は次の食糧を受け取れる。
少なくともこの冬、名前がないという理由だけで飢えることはない。
エドガーは何も言わなかった。
ただ、自分の署名がある生存確認書を見つめていた。
「異議はありますか」
王宮特使が尋ねる。
救済局長は、しばらく黙ったあとで首を横に振った。
財務局の代表も同意する。
決定内容が読み上げられ、出席者が一人ずつ署名した。
ギルバートの番になる。
彼は筆を取り、権限集中の延期と三者確認の維持、その両方に自分の名前を書いた。
最後に私が署名する。
紙の上に並んだ名前は、誰か一人を正しい者と決めるためのものではなかった。
間違いが起きたとき、どこまで戻って確かめればよいのかを残すためのものだった。
審議が終わり、廊下へ出る。
エドガーは窓の前に立ち、雪の残る王都を見下ろしていた。
「三十日後は、どうなる」
彼が尋ねた。
「それまでに、セラ村が消された理由を調べます」
「また、村人の名前を書くのか」
「本人の同意を得てからです」
「同意しなければ?」
「個人名を書かずに、救済対象として扱える方法を探します」
「そんな都合のよい方法があるのか」
「なければ作ります」
エドガーは私を見た。
「お前は、簡単に言うな」
「簡単ではありません」
「なら、なぜ言える」
「七日を三十日にできました」
私は答えた。
「次も、できるところまで進めます」
エドガーは窓の外へ視線を戻した。
「三十日後にも、俺の名前は残っているか」
「残します」
「死者ではなく?」
「生きている証人として」
エドガーは何も言わなかった。
だが、その横顔から、王都へ入ったときの硬さが少しだけ消えていた。
廊下の反対側では、ギルバートがローディスと話していた。
私が近づくと、ギルバートは王宮受付の机へ向かった。
「何をするのですか」
「調査を始める」
「すでに始めていたのでは?」
「あれは私個人の判断だ」
彼は受付官から調査着手届を受け取った。
調査対象。
北門救済物資取扱者の装備記録。
銀色の麦穂留め具の貸与履歴。
三年前から現在までの受領者。
調査責任者の欄に、ギルバート・レインと書く。
その下にある共同確認者の欄で、筆が止まった。
彼は私を見た。
「名前を書いてよいか」
以前の彼なら、確認しなかっただろう。
「はい」
ギルバートは、私の名を書き加えた。
「今度は、一人で始めない」
受付官が書面へ受領印を押す。
私は受付番号を確認した。
「確認しました」
「信用するとは言わないのか」
「調査は、まだ始まったばかりです」
「やはり、言い方が気に入らない」
「よく言われます」
ローディスが小さく笑った。
「ギルバート。彼女の名前を書いた以上、もう一人では決められないぞ」
「分かっている」
ギルバートは不満そうだったが、提出した書面を取り戻そうとはしなかった。
そのとき、廊下の奥から足音が近づいてきた。
ノラだった。
息を切らし、手には何も持っていない。
書面ではなく、直接伝えるために走ってきたのだ。
「エリナ」
「どうしました」
「ハルト司令官が目を覚ましました」
ギルバートの表情が変わる。
「意識は?」
「はっきりしています。ただし、事情聴取は三人が揃うまで受けないと言っています」
「三人?」
「エリナ、ギルバート司令代理、それからアルベルト様です」
七年前、北門を開けるようハルトへ頼んだのは、アルベルトだった。
「何を話すつもりですか」
私が尋ねると、ノラは息を整えてから答えた。
「北門を開けた夜のことです」
ギルバートが一歩近づいた。
「八台の荷車についてか」
「いいえ」
ノラは首を横に振った。
「ハルト司令官は、こう言っています」
窓の外で、正午の鐘が鳴り始めた。
「自分が北門を開けたのは、七台の荷車を通すためだった、と」
私はノラを見た。
「七台?」
「はい」
帳簿に残っているのは、八台。
七年前から、ずっと八台だった。
「では、八台目は?」
ノラは、ハルトから聞いた言葉をそのまま伝えた。
「八台目の荷車は、北門を通っていないそうです」
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