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「役立たずの記録係はいらない」と婚約破棄されましたが、王国を救ったのは私の帳簿でした  作者: 北野風人


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引き渡されなかった記録

 旧検問所まで、馬を三度替えた。


 最初の驛站を出たときには、すでに日が暮れていた。


 雪は弱まらない。


 馬車の車輪が深い轍にはまるたび、車体が大きく傾いた。御者は何度も馬を止め、雪に埋もれた石を避けなければならなかった。


 王室急使は、私たちより半刻早く出発している。


 追いつくことはできない。


 それでも、文書の引き渡しが終わる前に旧検問所へ着けば、まだ確認できることがある。


 二つ目の驛站で馬を替えたとき、番兵が通行簿を差し出した。


「同行者の氏名を」


 王宮の記録官が一人ずつ読み上げていく。


 私。


 オスカー。


 記録官本人。


 北部騎士。


 最後に、エドガーの番になった。


 彼は通行簿を見たまま、すぐには答えなかった。


「エドガーさん」


 私が声をかける。


「分かっている」


 エドガーは息を吐いた。


「エドガー・ロウ」


 番兵の筆が止まった。


「ロウ?」


「ああ」


「同名の者が、死亡者記録にいたはずだが」


「それも私だ」


 番兵が顔を上げる。


 エドガーは、生存確認書を差し出した。


「今日、生きていることを確認された」


 番兵は何度も本人と書面を見比べた。


 やがて通行簿の備考欄に、生存確認書あり、と書き加える。


 エドガーは、自分の名前が記されるところを最後まで見ていた。


 馬車へ戻る途中、私に言った。


「名前を言うたびに止められるのか」


「しばらくは」


「面倒だな」


「生きている人には、面倒なことが多いのです」


「死者よりもか」


「死者は文句を言えません」


 エドガーは鼻を鳴らした。


 だが、次の驛站では、番兵に聞かれる前に自分から名乗った。


 三つ目の驛站を出るころには、夜明け前の薄い光が空の端に広がり始めていた。


 オスカーの肩からは、再び血がにじんでいた。


「ここで休んでください」


 私は言った。


「旧検問所まで、もう遠くありません」


「だからです」


「急使が到着したあとでは、あなた一人増えても変わりません」


「証言者が一人増えます」


「倒れれば、負傷者が一人増えます」


 オスカーは不満そうに私を見た。


「あなたは、ときどき言い方が冷たいですね」


「倒れるまで止まらない人には、このくらいでちょうどいいのです」


 北部騎士も私の意見にうなずいた。


 結局、オスカーは馬車に残ることになった。


 私と王宮の記録官、エドガー、北部騎士が馬へ乗り換える。


 雪道を進んでいると、遠くに低い石壁が見えた。


 王都北門から半日の距離にある旧検問所。


 現在は主に北部から来る軍用物資と公文書の確認に使われている。


 門の前には、一頭の馬がつながれていた。


 鞍に、王室急使の標章がある。


「着いています」


 記録官が言った。


 私たちは馬を降り、検問所の中へ入った。


 暖炉の火はついていたが、室内は冷えていた。


 中央の机を挟み、灰色の外套を着た王室急使と、北門の制服を着た男が向かい合っている。


 急使の胸には、私たちが封をした革筒が残っていた。


 まだ引き渡されていない。


「監査官」


 急使が私に気づいた。


「なぜ、ここへ?」


「交代場所が変更されたと聞きました。引き渡しの確認に来ました」


 机の向こうに立つ男が、私を見た。


 三十代半ば。


 北門の輸送係が着る濃紺の外套。


 両手には黒い革手袋を着けている。


 左手の留め具には、銀色の麦穂。


 エドガーが息を止めた。


「あれだ」


 低い声だった。


「三年前に来た者と、同じ印だ」


 黒手袋の男がエドガーを見る。


「誰だ」


「質問する前に、あなたの所属と氏名を」


 私が言うと、男は視線をこちらへ戻した。


「北門輸送管理係だ」


「氏名は?」


「緊急命令による受領だ。名乗る必要はない」


「そのような規定はありません」


「冬季緊急措置では、受領手続きを省略できる」


 男は急使へ手を差し出した。


「文書を」


 急使は革筒から手を離さなかった。


「受領欄への署名をお願いします」


「不要だと言った」


「署名がなければ渡せません」


 急使の声は大きくなかった。


 だが、その手は革筒をしっかり抱えていた。


 私が封じた文書を守っているのではない。


 自分に与えられた手続きの責任を守っている。


 男の声が低くなった。


「北門司令部の命令だ」


「命令書を見せてください」


「部外者に見せるものではない」


「私は北部臨時監査官です」


「ここは北門司令部の管轄だ」


「だからこそ、引き渡し記録が必要です」


 私は机の上に置かれた交接簿を開いた。


 最後の記載は昨夜のものだった。


 文書番号。


 差出人。


 受領者。


 次の送達先。


 時刻。


 すべて記入されている。


 冬季緊急措置が始まったあとも、署名は省略されていなかった。


「これまでの交接記録には、すべて受領者名があります」


「今日から手続きが変わった」


「その変更を記録した文書は?」


 男は答えなかった。


「署名のない引き渡しは、引き渡しではありません」


 私は言った。


「ただ、文書が消えるだけです」


「私が盗むと言うのか」


「いいえ」


「なら、渡せ」


「あなたが受け取ったという記録を残してください」


 男は黒い手袋をしたまま、机を強く叩いた。


「この文書が遅れれば、責任を取れるのか」


「取ります」


 私は交接簿の余白へ、自分の名前を書いた。


 エリナ・ヴァルト。


 引き渡し確認のため、旧検問所に到着。


「次は、あなたです」


 筆を男へ差し出す。


 男は受け取らなかった。


 エドガーが、その左手を見ていた。


「同じだ」


 彼がもう一度言った。


「あの麦穂も、留め具の傷も」


 男が反射的に左手を引いた。


 私はエドガーの前へ一歩出た。


「同じ装備であることは確認できます」


「こいつは、三年前の――」


「同じ人物だとは、まだ確認できません」


 私はエドガーを見た。


「背格好は?」


「違う。あのときの男は、もっと背が高かった」


「声は?」


「違う」


「では、同じなのは手袋と留め具だけです」


 エドガーは口を閉じた。


 ここで、この男を三年前の食糧横流しの実行者だと決めつけることはできない。


 しかし、装備の由来は調べられる。


「手袋を確認させてください」


「断る」


「銀の留め具には管理番号があるはずです」


「ない」


「では、外して見せてください」


 男が一歩下がった。


 そのとき、外で馬の蹄の音がした。


 一頭ではない。


 検問所の扉が開き、冷たい風と雪が吹き込んだ。


 先頭に立っていたのは、ギルバートだった。


 その後ろに、北門衛兵が二人いる。


「司令代理」


 黒手袋の男が姿勢を正した。


 ギルバートは室内を見渡した。


 急使。


 革筒。


 開かれた交接簿。


 そして、私の名前。


「文書はまだ渡していないのか」


「この女が手続きを妨害しています」


「違います」


 急使が言った。


「受領者が署名を拒否しました」


 ギルバートの視線が、黒手袋の男へ移った。


「氏名を」


「冬季緊急命令により、署名は省略できると聞いています」


「誰から聞いた」


「対策室からです」


「命令書は?」


 男は答えなかった。


「手袋を外せ」


「司令代理」


「外して、名前を言え」


 男の顔がこわばった。


 やがて右手の手袋を外す。


 左手は動かさない。


「両方だ」


 ギルバートの声は低かった。


 男は銀の留め具を外し、左手袋を机へ置いた。


 留め具の裏側に、小さな数字が刻まれていた。


 二七。


 王宮の記録官が、すぐに数字を書き留める。


「氏名は」


「マルク・ヘイン」


「所属」


「北門輸送管理係」


「装備の受領日は?」


「覚えていません」


「装備管理簿を確認する。回答が一致するまで職務から外す」


 ギルバートが衛兵へ合図した。


 マルクは抵抗しなかった。


 衛兵に挟まれ、別室へ連れていかれる。


 黒い手袋だけが、机の上に残った。


「これが、黒い手袋の正体ですか」


 私はギルバートに尋ねた。


「北門で救済物資を扱う者に貸与される装備だ」


「何人が持っていますか」


「現在は十二人」


「過去三年間では?」


「返却分を含めれば、三十人以上だ」


 一人ではない。


 やはり、黒い手袋だけで犯人を特定することはできない。


「銀の留め具は?」


「救済物資取扱資格の印だ。装備ごとに番号がある」


「貸与記録は残っていますか」


「残っている」


「確認させてください」


「王都へ戻れば」


 ギルバートは机上の手袋を見た。


「この男が三年前の不正に関わったとは限らない」


「分かっています」


「それでも疑うのか」


「署名を拒否した事実は記録します」


 ギルバートは、私を見た。


「相変わらずだな」


「司令代理も、以前と同じです」


「何が言いたい」


「知っていることを、必要になるまで記録しない」


 室内が静かになった。


 私はオスカーが持っていた権限移管文書の写しを出した。


「穀倉管理、救済物資の配分、通行許可証の発行。この三つを北部救済監督官へ集中する計画を、いつ知りましたか」


「三日前だ」


「なぜ報告しなかったのですか」


「正式な決定ではなかった」


「一号基準分銅が盗まれたときも、あなたは火災現場へ到着してすぐ、分銅の無事を確認しました」


 ギルバートの目がわずかに細くなった。


「オスカーから聞いていた」


「三日前に?」


「ああ」


「そのとき、権限移管の計画も知ったのですね」


 ギルバートは否定しなかった。


「支持者を調べていた」


「誰にも報告せずに?」


「記録へ残せば、相手に知られる」


「記録へ残さなければ、あなたが何を調べていたのか、誰も確認できません」


「結果を出す前に書けば、調査そのものが潰される」


「結果を出す前にあなたが消えれば、何も残りません」


 ギルバートの表情が硬くなった。


「オスカーから聞いたのか」


「いいえ」


「なら、誰から?」


「北部で、記録上は死んでいる人に会いました」


 ギルバートは初めて言葉を失った。


「エドガー・ロウは生きています」


 私が言うと、部屋の隅にいたエドガーが前へ出た。


 ギルバートは、その顔を見つめた。


「七年前に死んだはずだ」


「そう書かれただけだ」


 エドガーが答えた。


「今朝、生存確認書へ署名した」


 ギルバートはしばらく何も言わなかった。


 彼の驚きが演技なのかどうか、私には判断できなかった。


「その文書も、革筒の中に?」


「副本があります」


「原本は?」


「私が持っています」


 ギルバートは急使の胸にある革筒を見た。


「文書は、ここで引き渡さない」


 急使が警戒したように一歩下がる。


「あなたから取り上げるという意味ではない」


 ギルバートは交接簿を開いた。


 新しい欄へ、自分の手で記入していく。


 旧検問所における受領手続きを中止。


 王室急使が引き続き文書を携行。


 北門衛兵一名を同行させ、王宮救済局まで直接送達。


 引き渡しは王宮救済局の受付で行うこと。


 北門司令代理――ギルバート・レイン。


 彼は最後に署名した。


「これでいいか」


「同行する衛兵の氏名も必要です」


「そこまで疑うのか」


「守るためです」


 ギルバートは後ろの衛兵を呼び、本人に氏名を書かせた。


 さらに、急使、王宮記録官、私の三人で革筒の封印を確認する。


 三か所とも壊されていない。


 封印の縁へ、ギルバートの印を追加した。


「この印が壊されれば、北門司令部にも責任が生じる」


 彼が言った。


「責任を負うのですか」


「そのために署名した」


 急使は革筒を再び胸へ固定した。


 北門衛兵とともに、南側の門を出ていく。


 今度の送達先は、王宮救済局と交接簿に明記されている。


 文書は旧検問所を越えた。


 まだ王宮には着いていない。


 それでも、誰の手に渡るのか分からない状態ではなくなった。


 一つの危険は、ここで止めることができた。


 外が明るくなり始めていた。


 審議が始まる正午まで、残された時間はわずかだ。


「私たちも王都へ向かいます」


 私は言った。


「馬車はあとから来る。負傷者を待たなくていいのか」


「オスカーさんは、自分で来ます」


「信用しているのか」


「止めても来る人だと知っています」


 ギルバートは、わずかに息を吐いた。


 私は権限移管文書を机へ置いた。


「最後に一つ、答えてください」


「何だ」


「北部救済監督官に任命されるのは、誰ですか」


 ギルバートは答えなかった。


 暖炉の中で薪が崩れ、小さな火の粉が上がる。


「候補者の名前だけが空欄でした」


 私は続けた。


「あなたは三日前から計画を知っていた。封路命令の送達先にも、あなたの名前がある」


「それだけで私を疑うのか」


「疑っているから聞くのではありません」


「では?」


「空欄に誰の名前が入るのか、知っている人に聞いています」


 ギルバートは窓の外へ目を向けた。


 雪の向こうに、急使の姿が小さく見える。


「私だ」


 彼は言った。


 エドガーが顔を上げた。


 王宮の記録官の筆が止まる。


「誰かが、あなたを候補者にしたのですか」


「違う」


 ギルバートは私へ向き直った。


「候補者の欄に、私の名を出したのは私自身だ」


 机の上には、彼が署名したばかりの交接簿が開かれていた。


 北部の三つの権限を、一人へ集める役職。


 その席に座ろうとしていたのは、ギルバートだった。

お読みいただき、ありがとうございます。

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