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「役立たずの記録係はいらない」と婚約破棄されましたが、王国を救ったのは私の帳簿でした  作者: 北野風人
帳簿にいない人々

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第39話 生きている者の署名

 セラ村へ戻ると、鍋の底には、まだ少しだけ麦粥が残っていた。


 村人たちは八台目の荷車から下ろした袋を、三軒の家へ分けて運んでいた。一か所に集めれば、火事や盗難ですべてを失う。そのためだと老人が説明した。


 王宮の記録官が袋の数を読み上げ、宿場から来た二人の証人が確認する。


 私は最後の一袋に封をしてから、村の老人へ臨時共同受領書を渡した。


「この記録は七日間、有効です」


 老人は紙を受け取ろうとしなかった。


「字は読めん」


「分かっています。ですから、読み上げます」


 私は書かれている内容を、一行ずつ読んだ。


 セラ村に四十七人が暮らしていること。


 八台目の荷車から、冬季救済用の食糧が引き渡されたこと。


 受領者個人の名前は記載せず、セラ村共同体が受け取ったものとすること。


 七日間、監査官の許可なく食糧を村外へ移してはならないこと。


 臨時責任者は、エリナ・ヴァルト。


「間違いはありますか」


 老人は少し考えてから、首を横に振った。


「ない」


「では、証人二名に署名してもらいます。あなたは印だけで構いません」


 老人は差し出された印肉を見た。


「これを押したら、俺たちは帳簿に戻るのか」


「まだです」


「まだ?」


「これは食糧を受け取ったことを確認する記録です。村人全員の身分を確定するものではありません」


 老人の指が、紙の端に触れた。


「なら、七日後にはどうなる」


「その前に王都へ戻り、正式な救済対象として登録するよう求めます」


「認められなかったら?」


 その問いには、簡単に答えられなかった。


 私は老人の目を見た。


「認められなかった理由と、それを決めた者の名前を持って戻ります」


 助けられるとは言わなかった。


 必ず認めさせるとも言えなかった。


 だが、誰にも知られないまま消されることだけは、もう繰り返させたくなかった。


 老人は親指へ印肉を付け、紙の下へ押した。


 薄い赤色の指印が残った。


「これでいいか」


「はい」


「なら、持っていけ」


「原本は村に残します」


 私は同じ内容の副本を鞄へ収めた。


「王都へ持ち帰るのは、こちらです」


 老人は初めて、わずかにうなずいた。


 村には北部騎士を一人残すことにした。


 二人の証人もしばらく滞在し、食糧が動かされていないか確認する。宿場との連絡は、八台目の御者に任せた。


 これですべてが安全になるわけではない。


 だが、少なくとも次に誰かがこの食糧を持ち出そうとしたとき、目撃者が残る。


「これ」


 出発の支度をしていると、ネラが木の椀を差し出した。


 中には、温め直した麦粥が入っていた。


「私に?」


「ほかの人には、もう配った」


 椀を受け取ると、両手に温かさが伝わった。


 朝から何も食べていなかったことを、そのときになって思い出した。


 一口飲む。


 塩はほとんど入っていない。それでも、冷えた身体には十分だった。


「七日で、また消えるの?」


 ネラが尋ねた。


「村が?」


「私たちが」


 私は椀を持ったまま、彼女を見た。


「消させないために、王都へ戻ります」


「戻ってくる?」


「七日が過ぎても、この記録を終わらせません」


 ネラは私の答えを聞いても、笑わなかった。


 ただ、小さくうなずいた。


 そのほうが、約束を信じようとしているように見えた。


 麦粥を飲み終え、椀を返す。


「ごちそうさまでした」


「王都の人も、そう言うんだ」


「言います」


 ネラは少しだけ口元を緩めた。


 村の入口では、オスカーが馬車のそばに立っていた。


 肩の傷は深くないが、出血が止まりきっていない。王都まで馬に乗り続けるのは難しいだろう。


 その後ろに、エドガーがいた。


 古い外套をまとい、村へ戻ってからも一度も荷物をまとめようとしなかった。


「出発します」


 私が言うと、エドガーは答えた。


「私は残る」


「王都で証言が必要です」


「証言なら、オスカーができる」


「三年前から食糧が減ったことを、彼は直接見ていません」


「なら、書いた紙を持っていけ」


「署名のない証言では、本人の意思を確認できません」


 エドガーの顔が険しくなった。


「私は死んでいる」


「生きています」


「王都では違う」


「王都の記録が間違っているのです」


「その間違いを正せば、オスカーが虚偽の死亡確認をしたことになる」


「すでに本人が認めています」


 オスカーが口を挟んだ。


「私が署名した。私が責任を負う」


「また、お前がか」


 エドガーが低い声で言った。


「最初からそう決めていました」


「七年前も、同じことを言った」


 オスカーは黙った。


 村人たちは少し離れた場所から、二人を見ていた。


 ネラも老人のそばに立っている。


 エドガーは村を守るため、自分を死者にした。


 だが、その死を記録した者は、その後七年間、署名の責任を負い続けていた。


 私は王宮の記録官へ目を向けた。


「生存確認書を作れますか」


「過去の死亡記録を取り消す権限はありません」


「取り消す必要はありません。今日、この場所で生存が確認された事実を記録してください」


 記録官は少し考え、鞄から一枚の用紙を出した。


 雪を避けるため、荷車の板を机代わりにする。


 確認日時。


 確認場所。


 身体的特徴。


 立会人。


 最後に、本人の氏名を書く欄が残された。


 記録官がエドガーへ筆を差し出した。


「ここへ、現在名を」


 エドガーは動かなかった。


「名前を書けば、セラ村まで調べられる」


「もう、私が記録しました」


 私は言った。


「村の存在も、四十七人が暮らしていることも、食糧を受け取ったことも」


「それが危険だと言っている」


「記録しなくても、相手はこの村を知っています。だからオスカーさんを一人で鉱山へ呼び出せた」


 エドガーの目が私へ向いた。


「名前を消すことは、もう村を守る方法になっていません」


 風が吹き、用紙の端が浮いた。


 オスカーが傷のない右手で紙を押さえる。


 エドガーは、その手と肩の包帯を見た。


「いつまで、他人の名前で私を守るつもりだ」


 彼が尋ねた。


「必要がなくなるまでです」


 オスカーは答えた。


 エドガーは目を閉じた。


 しばらくしてから、記録官の手から筆を受け取る。


「エドガー・ロウ」


 自分の名前を、声に出した。


「七年前に死んだことになっている。だが、今は生きている」


 筆先が紙に触れる。


 最初の一画は震えていた。


 それでも、彼は最後まで自分の手で書いた。


 エドガー・ロウ。


 七年前に閉じられた名前が、今日の日付の下へ、もう一度残された。


 記録官が署名を確認し、王宮記録課の小さな印を押す。


「今度は、生きている者として書いたか」


 エドガーが尋ねた。


「はい」


 記録官が答えた。


「生存を確認した本人として記録しました」


 エドガーは紙を見つめたまま、長く息を吐いた。


「なら、行く」


 それだけ言って、馬車へ乗った。


 セラ村を出てしばらくすると、雪が再び強くなった。


 オスカーは馬車の後部に座り、傷口を押さえている。


 私は向かい側に座り、包帯を取り替えた。


「痛みますか」


「いいえ」


「では、もう少し強く締めます」


「少し痛みます」


 私は力を緩めた。


 エドガーは御者台の隣に座っている。王宮の記録官は、揺れる馬車の中で生存確認書の副本を作っていた。


「エリナ」


 オスカーが言った。


「はい」


「七年前、あなたが私の立場だったら、どうしましたか」


 包帯を結ぶ手が止まった。


 許可のない食糧を運び、十一の村を救う。


 その代わり、責任を負う者を一人、死者として記録する。


 今の私なら、間違いだと言える。


 だが、七年前の雪も、飢えた子供も、その場で迫られた選択も、私は見ていない。


「分かりません」


 私は答えた。


「あの冬を見ていない私に、正しい答えを言う資格はありません」


 オスカーは何も言わなかった。


「でも、今なら」


 私は新しい包帯の端を結んだ。


「死者の名前を一つ増やす前に、責任を負う者の名前を一つ増やします」


「自分の名前を?」


「必要なら」


「それで村人を救えなかったら?」


「別の人にも署名を求めます。責任を分ければ、一人を消す必要はなくなります」


 オスカーは小さく息を吐いた。


「それを、七年前の私にも思いつければよかった」


「今、思いついたなら、まだ使えます」


 彼は窓の外を見た。


「あなたは、過去を許さない人だと思っていました」


「許すかどうかを決めるために、記録しているのではありません」


「では、何のために?」


「同じ選択を、次の人にさせないためです」


 オスカーはしばらく黙っていた。


 やがて、包帯を巻いた肩へ触れる。


「少し、きついです」


「先ほど緩めました」


「そうでしたか」


 ほんのわずかに、馬車の中の空気が和らいだ。


 昼を過ぎたころ、私たちは王都へ続く街道の北部驛站へ到着した。


 しかし、入口の門は閉ざされていた。


 門前には、三台の馬車が止められている。商人たちが役人に詰め寄っていた。


「通行止めです」


 驛站の役人が言った。


「昨夜からの雪により、南側の山道で崩落の危険があります」


「すべての通行が禁止されていますか」


「軍務と救済物資を除きます」


 私たちの横を、王国軍の紋章を付けた荷車が門の中へ入っていった。


「命令書を確認させてください」


「一般には公開できません」


「私は北部臨時監査官です」


 権限証を見せると、役人の顔が曇った。


 彼は中へ入り、しばらくして驛站長を連れて戻ってきた。


 驛站長は五十歳ほどの男だった。私の権限証を何度も確認してから、封路命令の写しを机へ置いた。


 命令を発したのは、北部冬季対策室。


 理由は積雪による山道崩落の危険。


 軍事、医療、救済物資の輸送は通行可能。


 それ以外の馬車、民間人、監査官、記録官、証言者の通行を禁じる。


 私は最後の三つを、もう一度読んだ。


「監査官と記録官を、特別に記載した理由は?」


「私には分かりません」


「この命令が出された時刻は?」


「昨日の夕刻です」


 昨日の夕刻。


 まだ雪は降り始めたばかりだった。


 私たちが鉱山へ入り、エドガーの生存を確認する前だ。


 相手は、私たちが何を見つけたのかまでは知らない。


 だが、北部から証言と記録が王都へ戻ることを警戒していた。


「救済に関する緊急文書は通せますか」


 私が尋ねると、驛站長は命令書の下部を確認した。


「人命に関わる場合に限り、王室急使一名による運搬が認められています」


「では、急使を用意してください」


「何を送るつもりですか」


「四十七人分の冬季救済申請です」


 私は鞄からセラ村の臨時共同受領記録を取り出した。


 その後ろへ、エドガーの生存確認書の副本を重ねる。


 三年前から、セラ村への受領量が減ったというエドガーの証言。


 八台目の荷車の実際の積載量。


 北部救済監督官へ、三つの権限を集中させる文書の写し。


 銀色の留め具そのものは手元に残し、形状と刻印だけを記録官に書かせた。


「これは監査報告ではありませんか」


 驛站長が言った。


「セラ村を正式な救済対象とするために必要な資料です」


「しかし、生存確認書まで送る必要は」


「現在の記録では、エドガー・ロウは死者です。死者の証言だけでは、食糧が届かなかった事実を正式に確認できません」


 驛站長は紙の束を見つめた。


「通すことはできません」


「では、拒否してください」


「何を?」


 私は新しい用紙を一枚取り出した。


「セラ村四十七名の緊急冬季救済申請を、驛站長の判断で拒否したと記録します。こちらへ理由と氏名をお願いします」


 用紙と筆を差し出す。


 驛站長は受け取らなかった。


「私は救済を拒否するとは言っていない」


「文書を止めれば、七日後に臨時措置が切れます。次の食糧は送れません」


「封路命令に従っているだけです」


「命令には、人命に関わる救済文書を通してよいと書かれています」


「監査資料を救済文書に混ぜることは認められない」


「では、不要だと思う資料を一枚ずつ指定してください」


 私は書類を机へ並べた。


「その資料がなくても四十七人を正式に救済できると、あなたの署名を添えてください」


 驛站長は黙った。


 外では、商人たちの声が続いている。


 雪が門の屋根から落ち、鈍い音を立てた。


 やがて驛站長は、王宮の記録官を見た。


「あなたも、この書類が救済申請の一部だと確認するのか」


「確認します」


 記録官は答えた。


「北部の未登録住民を救済対象へ戻すには、本人の生存、居住実態、過去の物資配分を確認する必要があります」


「全員、同じ意見か」


 オスカーが前へ出た。


「北部監査補佐、オスカー・ベルン。確認します」


 エドガーも机の前に立つ。


「エドガー・ロウ。食糧を受け取れなかった本人として、確認する」


 驛站長の視線が、生存確認書の署名へ落ちた。


 一人の監査官だけではない。


 王宮の記録官。


 北部監査補佐。


 生存を確認された証言者。


 拒否するなら、その全員の前で、自分の名前を書かなければならない。


 驛站長は長く息を吐いた。


「急使を一名、出す」


「出発時刻を記録してください」


「今から半刻後だ」


「到着予定は?」


「雪が強くならなければ、明日の朝」


 私は書類を一つにまとめ、三か所へ封をした。


 私、王宮記録官、驛站長の三人が、それぞれ封印の上へ署名する。


 半刻後、灰色の外套を着た王室急使が門を出た。


 書類を入れた革筒を胸へ固定し、雪の街道を南へ進んでいく。


 姿が見えなくなるまで、私は門の前に立っていた。


「これで、王都には届きます」


 記録官が言った。


「まだです」


 届くまでは、届いたことにならない。


 私は驛站長から借りた封路命令を、もう一度確認した。


 裏面に、先ほどは折り込まれて見えなかった附記があった。


 北部救済監督官への権限移管に関する審議を、一日前倒しする。


 審議時刻――明日、正午。


 送達先の一覧には、王宮財務局、救済局、北部穀倉管理所が並んでいる。


 その下に、見覚えのある名前があった。


 王都北門司令代理――ギルベルト・ノイン。


 これは命令の作成者名ではない。


 受け取る側の名前にすぎない。


 ギルベルトが関与している証拠にはならなかった。


 しかし、彼はこの命令が出たことを知っている。


 少なくとも、知らないとは言えない位置にいた。


「明日の正午」


 オスカーが附記を読んだ。


「私たちは、間に合いますか」


 私は雪の向こうを見た。


 急使の姿は、もう見えない。


「私たちが遅れても、記録は先に着きます」


 そう答えたとき、驛站長が小さく息を呑んだ。


 彼は門の外を見たまま、何かを迷っていた。


「どうしました」


 私が尋ねると、彼は周囲の役人たちを確認してから、声を落とした。


「先ほどの急使は、王都へ直接は行かない」


「どういう意味ですか」


「今日から、急使の交代場所が変わった」


 胸の奥が冷えた。


「どこです」


「王都北門の手前にある、旧検問所だ」


「そこで誰に引き継ぐのですか」


 驛站長は、命令書の送達先へ目を落とした。


「北門司令部から来る者だ」


 雪の中を進む急使は、まだ何も知らない。


 王都へ届くはずの記録は、その直前で別の手に渡る。


 そして北門には、ギルベルト・ノインがいる。


 私は机の上の地図を開いた。


「旧検問所まで、最短でどれくらいですか」


 驛站長が答えた。


「馬を替え続けても、明け方だ」


 審議が始まるまで、残された時間は半日もなかった。

お読みいただき、ありがとうございます。

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