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「役立たずの記録係はいらない」と婚約破棄されましたが、王国を救ったのは私の帳簿でした  作者: 北野風人
帳簿にいない人々

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第38話 死者の名前

 セラ村には、本当に四十七人が暮らしていた。


 夜が明け、ネラに導かれて森へ入った私たちが最初に見たのは、村らしい景色ではなかった。


 雪をかぶった低い屋根が、木々の間に点々と隠れている。


 煙突から上がる煙は細く、枝の向こうへ消えていた。


 道らしい道もない。


 枝に結ばれた麻紐だけが、次の家へ続く方向を示していた。


 ネラの後ろを、私と王宮の記録官、北部騎士二名が進む。宿場から同行した二人の証人も続いていた。


 最初の家へ近づくと、扉の隙間から子供が顔を出した。


 すぐに女の手が伸び、その子を奥へ引き戻す。


「王都の人間か」


 家の前に立つ老人が尋ねた。


「北部臨時監査官のエリナ・ヴァルトです」


 老人の視線が、私の記録板へ落ちた。


 周囲の扉が、一つずつ閉まっていく。


「名前を調べに来たのか」


「人数と、今必要なものを確かめに来ました」


「名前も書くだろう」


 私は記録板を開いた。


 まだ、筆は取らなかった。


「今は、家ごとの人数と年齢、病人の有無を確かめます。個人の名前は、説明して同意を得るまで書きません」


 老人が眉を寄せた。


「それで、誰へ食糧を渡す」


「共同受領にします。私が、臨時の責任者になります」


 閉じかけていた扉が止まった。


 私は最初の欄へ書き込んだ。


 受領者――セラ村共同体。


 臨時受領責任者――エリナ・ヴァルト。


 有効期間――七日間。


 北部臨時監査の権限で認められる、緊急の共同受領だった。


 ただし、その先の救済を保証するものではない。


「七日だけか」


「はい。その間に、王都へ確認を求めます」


「認められなかったら?」


 私は記録板を老人へ向けた。


「今日の判断をしたのは私だと残ります。皆さんが名前を偽って受け取った記録にはしません」


 老人は長い間、紙を見ていた。


 白い髪へ、雪が積もっていく。


 やがて家の中へ声をかけた。


「子供から出せ」


     ◇


 一軒ずつ人数を確かめた。


 老人が十一人。


 働ける年齢の者が二十三人。


 十五歳に満たない子供が十三人。


 合わせて四十七人だった。


 熱を出している子供が二人。足を傷め、歩けない男が一人。


 食糧だけでなく、薪と薬も不足していた。


 私は人数を書き入れ、同行した者たちに確認を求めた。


 ネラの言葉に嘘はなかった。


 この村は、確かに存在していた。


 宿場へ使いを戻し、待機していた八台目の荷車を森の入口まで運ばせる。


 十村へ再配分する予定だった荷から、セラの緊急分を切り分ける必要があった。


 配分を変えた数量と理由を記し、残りの荷をほかの村へ送る手配も確認した。


 村人たちは、荷車が現れても近づかなかった。


 小麦より先に、御者と騎士を見ている。


 私は王宮記録官と北部騎士、村の老人に封印を確認してもらった。


 王都で押された印。


 宿場で加えられた印。


 壊れた跡がないことを確かめ、縄を切る。


 セラへ渡す袋を下ろし、量を確かめた。


 それでも、最初の袋の前へ出る者はいなかった。


「これは、あなたたちの分です」


 私はネラに言った。


 彼女は唇を結んでいた。


「名前を書いたら、来年はなくなる」


「今日は、共同受領の記録です。私の名前で責任を残しました」


「でも、いつかは私たちの名前も書くんでしょう」


「何に使う名前なのか、先に説明します」


 私は膝を曲げた。


「知らないまま書かせることはしません」


 ネラは私の顔を見た。


 それから袋へ近づき、麻布に手を置く。


 小さな指が押すと、中の麦が乾いた音を立てた。


 彼女は村の女たちを振り返った。


「本物だよ」


 その一言で、人々が動いた。


 袋を運ぶ男。


 量を確かめる女。


 木の器を抱えて待つ子供。


 麦が鍋へ入れられ、火にかけられる。


 やがて、森の中に湯気と穀物の匂いが広がった。


 記録板では一行だった四十七人が、一人ずつ椀を受け取っていた。


 私は人数の欄と、目の前の人々を見比べた。


 王都の名簿には、誰もいなかった。


     ◇


「こっち」


 配給が始まって間もなく、ネラが外套の裾を引いた。


「鐘のところへ連れていく」


「信じてくれるのですか」


「まだ、全部は信じてない」


 彼女は顔を背けた。


「でも、麦を置いていった」


 私は記録官へ配給の控えを渡し、村での確認を終えてから同行するよう頼んだ。


 残る七日間の量と保管を、老人たちへ説明する。


 そのあと、北部騎士二名と記録官を連れ、ネラを追った。村の老人もついてきた。


 森を抜けると、斜面に古い坑道の入口が見えた。


 手前には、小さな礼拝所がある。


 屋根は半分崩れていたが、黒ずんだ梁から鐘が下がっていた。


 縄の握る部分には、雪が付いていない。


「昨日、ここで鳴った」


 ネラが言った。


「オスカーさんは、一人で入った」


「なぜ、一人で?」


「ほかの人を連れてきたら、村の場所を役所に知らせるって」


 入口には、複数の足跡があった。


 北部騎士が剣を抜く。


 私たちはランプを灯し、坑道へ入った。


     ◇


 中は狭く、湿っていた。


 壁を支える木材は古く、奥から水滴の落ちる音がする。


 しばらく進むと、地面に外套が落ちていた。


 オスカーが着ていたものだった。


 肩口に血が付いている。


「オスカーさん……」


 ネラが駆け寄ろうとした。


「待って」


 私は彼女を止めた。


 外套の周囲を、騎士がランプで照らす。


 そのとき、奥から声がした。


「それ以上、近づくな」


 低い声だった。


「北部臨時監査官、エリナ・ヴァルトです」


 私は呼びかけた。


「オスカー・ベルンを捜しています」


 沈黙のあと、別の声が答えた。


「エリナ?」


「オスカー!」


 ランプの光が動いた。


 坑道の奥からオスカーが現れる。


 左肩に布を巻いていたが、自分の足で立っていた。


 後ろには、痩せた男がいる。


 白髪の混じった髪。


 落ちくぼんだ目。


 手には、錆びた採掘用の槌を握っていた。


「剣を下ろしてください」


 オスカーが言った。


「彼は私を襲った人間ではありません」


「では、その傷は?」


「ここへ来る途中で、別の者に襲われました。彼に助けられたんです」


 男は、まだ槌を下ろさなかった。


 村の老人が声を出した。


「エドガー」


 男の目が動いた。


 その名には覚えがあった。


 エドガー・ロウ。


 七年前、北部の雪害で死亡したと記録された、北門の元運送記録員。


 死亡確認書に署名したのは、オスカー・ベルンだった。


     ◇


「あなたが、エドガー・ロウですか」


 男は私を見た。


「帳簿の上では、違う」


「亡くなったことになっています」


「私が頼んだ」


 エドガーはオスカーへ目を向けた。


「こいつに、死亡確認書を書かせた」


 騎士の一人がオスカーを見た。


「虚偽の死亡記録を?」


「はい」


 彼は否定しなかった。


「七年前、正式な許可を得ずに食糧を運び出した者がいました。雪に閉ざされた十一の村を救うためです。ですが、セラはその時点で、すでに救済対象から外されていました」


「村を記録から消したのも、あなたたちですか」


「違います」


 オスカーの声が硬くなった。


「村は、その前から消されていました」


 坑道に水滴の音が響く。


「ここに残った人々を、不正受領の共犯として捕らえさせたくなかった。エドガーが生きていると分かれば、彼が食糧を渡した先も調べられると思いました」


「それで、死亡記録を書いた」


「はい」


「そのあと、村を戻す方法は探しましたか」


 彼は答えなかった。


「危険が去るまで待つつもりでしたか。それとも、戻さないつもりでしたか」


「戻せば、彼らは罪人として扱われた」


「だから、消されたまま生きろと?」


「正しい記録が、人を殺すこともある!」


 声が坑道に反響した。


 私はすぐには答えられなかった。


 生きている私を、死亡者名簿が王都の外へ押し戻したことがある。


 人を見ず、記載どおりに扱う者がいることを、知っていた。


「あります」


 私は言った。


「ですが、名前がないために受け取れない食糧もあります」


 記録板を開く。


「今日、私は四十七人分の食糧を、臨時の共同受領で渡しました」


「あなたが責任者に?」


「七日間だけです」


 オスカーが、私の署名を見た。


「その間に、王都へ救済の継続を求めます。村人を、名前を偽って受け取った者として扱わせないために」


「できると思うのか」


 エドガーが尋ねた。


「まだ、認められてはいません」


 私は答えた。


「でも、今日ここで確認したことを、持って帰れます」


 エドガーが槌を下ろした。


 オスカーは壁にもたれ、息を吐いた。


「あなたは、相変わらず帳簿から逃げませんね」


「逃がした人を、そのままにしておくこともできません」


 彼は記録板を見つめていた。


 私たちの考えが同じになったわけではない。


 それでも、今は村へ戻る話ができると思った。


     ◇


「エドガーさん」


 私は男へ向き直った。


「セラ村へ回される食糧を受け取っていたのは、あなたですか」


「そうだ」


「七年前から、ずっと?」


「毎回、同じ形で受け取ったわけじゃない。最初の緊急輸送と、そのあと続いた冬の配給は、分けて聞いてくれ」


 記録官が頁の余白に、時期を区切った。


「では、その後の冬季配給について教えてください」


「北方の十一村へ、八台分を出すと聞いていた。そこから、セラの分も取り分けられていた」


「八台すべてが到着するところを、見たのですか」


「いや。私が受け取るのは、この村へ回された分だけだ」


「ほかの十村へ、どれだけ届いたかは?」


「知らない。村を離れて、確かめに行くことはできなかった」


 私は八という数字の横へ、出発量として聞いたもの、と添えた。


 十一村への輸送全体と、セラでの受領を分けて記す。


「変化があったのは、いつですか」


「三年前だ。受け渡しの場所と、仲介する者が変わった」


 エドガーの顔が硬くなった。


「それから、ここへ回される分が減った。前と同じように分ければ、次の荷まで持たなくなった」


「割当てを減らす説明は、ありましたか」


「ない。用意された分を受け取れと言われただけだ」


「輸送全体の量も、変わったのですか」


「そこまでは分からない。私に分かるのは、この村へ届く物が少なくなったことだ」


 私は、ほかの村の受領量を空欄にした。


「役所へ申し出なかったのですか」


「私は死者だ」


 エドガーは自分の胸を指した。


「名乗れば、死亡記録を調べられる。その先には、セラがある」


 オスカーは何も言わなかった。


「それを恐れて、黙って受け取ったのですか」


「村には、食わせなければならない者がいた」


 私は、鍋の前に並んでいた子供たちを思い出した。


 エドガーは私の返答を待っていた。


 私は次の質問をした。


「新しい仲介人は、どんな人物でしたか」


     ◇


「最初は、背の高い男だった」


 エドガーが答えた。


「次の年は、もっと若い男だ。声も体つきも違った」


「共通していたものは?」


 彼は少し考えた。


「黒い手袋だ」


 私は顔を上げた。


「二人とも?」


「ああ。左手の留め具に、銀色の麦穂が付いていた」


 記録官も顔を上げた。


 黒い手袋をしていたのは、一人ではない。


「ほかに残っているものはありますか」


「一つだけ」


 エドガーは壁際の木箱を開いた。


 取り出したのは、小さな銀の留め具だった。


 表には麦穂。


 裏側に、王国の紋章の一部がある。


「二年前、荷車を追い返そうとしたときに落ちた」


「なぜ、保管していたのですか」


「捨てれば、何も残らない」


 彼は私へ差し出した。


「役所へ持っていけば、先に私が捕まる」


 私は布越しに受け取った。


 縁には、細い傷があった。


「これだけでは、持ち主は分かりません」


「分かっている」


「同じ印を使う部署と、装備の記録を調べます」


 そのとき、オスカーが外套の内側から紙を出した。


 端に血が付いていた。


「これを届けに来た使者が、私を襲いました」


     ◇


 北部救済監督官。


 以前からある役職だった。


 ただし、文書には冬季の緊急措置として、三つの権限を集める案が記されていた。


 穀倉の管理。


 救済物資の配分。


 北門通行許可証の発行。


 審議は三日後。


「承認されれば、配分を決める者が、輸送の許可も出せるようになります」


 オスカーが言った。


「受領記録も、その者の管理下へ入る」


 私は権限の範囲を読んだ。


 目的地を書き換えた荷を、同じ指揮のもとで通す。


 届いたという報告も、そこへ戻る。


 別の部署が確かめる機会は、少なくなる。


「任命されるのは誰ですか」


「名前がありません」


 オスカーが末尾を指した。


 案を進める側の承認欄には、名前がある。


 候補者の欄だけが空いていた。


 私は銀の留め具を見た。


 異なる二人が、同じ特徴の手袋を使っていたという。


 同じ人物を探すだけでは、足りないのかもしれない。


 私は記録板へ、確認したことと証言を分けて書いた。


 エドガー・ロウは生存している。


 セラには四十七人が暮らしている。


 エドガーは、三年前から村への受領量が減ったと証言している。輸送総量と、ほかの村の受領量は未確認。


 声と体格の異なる二人が、同じ特徴の黒い手袋を着用していたという。


 そして、三日後には、救済の権限移管に関する審議が予定されている。


 照合の必要な箇所へ印をつけ、記録板を閉じた。


     ◇


「今日中に、村へ戻ります」


 私が言うと、北部騎士が坑道の外を見た。


「雪が強くなっています」


「明日になれば、道が塞がるかもしれません」


 私はオスカーへ向いた。


「歩けますか」


「あなたよりは」


「では、帰りながら説明してください。七年前のことを、まだ半分しか聞いていません」


 彼は傷のない手で、外套を拾い上げた。


 私はエドガーを見た。


「あなたも、戻ってください」


「村の外では、私は死んだ人間だ」


「生きていることを、今日の記録に残します」


「それで、オスカーのしたことも調べられる」


 彼の言葉に、オスカーは黙っていた。


 私は留め具を証拠袋へ入れた。


「死亡記録を書いた経緯も残します。村の人が食糧を必要としていたことも」


 封をして、記録官に確認してもらう。


 過去の行為を、ここで無かったことにはできない。


 そのために、今生きている人まで、また記録から外すこともできなかった。


 外から冷たい風が吹き込んだ。


 王都までは、雪がなくても馬車で二日かかる。


 残る時間は三日。


「間に合いますか」


 記録官が尋ねた。


「分かりません」


 私は文書の候補者欄を確かめた。


「ですが、任命はまだ決まっていません」


 鞄へ文書と記録板を収める。


 王都へ届いている紙には、ここで見た四十七人の暮らしも、エドガーの声もない。


 それを審議の席へ届ける必要があった。


「戻りましょう」


 私は、坑道の出口へ向かった。

お読みいただき、ありがとうございます。

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