第37話 帳簿にいない村
王都を出たとき、空にはまだ星が残っていた。
王宮使節から北部臨時監査の許可が下りたのは、夜半を過ぎてからだった。
同行するのは、監察局員一人、王宮記録院の書記官一人、そして北部の街道を知る騎士二人。
ローディス監察官とノーラは王都に残った。
カイルも来なかった。
医官が止めたからではない。
私が頼んだからだ。
出発前、彼は不満そうな顔で冬季街道の地図を渡した。
「第一宿場までは軽馬車で一日だ。荷車には追いつける」
「分かりました」
「峠の手前で雪が強くなったら、無理に進むな」
「はい」
「セラ村へ入るなら、南側の道を使え。北側は七年前に崩れたままだ」
「誰も住んでいない村の道まで覚えているんですか」
「北部では、使わなくなった道ほど覚えておく必要がある」
それ以上は説明しなかった。
私は馬車へ乗り込んだ。
「戻る予定日は」
背後からノーラの声がした。
振り返ると、彼女は小さな記録帳を開いて立っている。
「七日後です」
「予定ですね」
「はい」
「遅れる場合は、宿場から連絡を」
「分かりました」
ノーラは日付を書いた。
その横に、自分の名も残した。
待つ側にも、待つ責任があると言うように。
馬車が動き出す。
王都の門を抜ける直前、私はもう一度振り返った。
カイルは門の内側に立っていた。
左腕を吊ったまま、右手だけを上げる。
私も手を上げた。
言葉はなかった。
門が閉まり、二人の姿は見えなくなった。
◇
北へ進むにつれ、空の色が変わった。
王都では冷たい風が吹いているだけだった。
半日走ると、道の端に白いものが残り始めた。
夕刻には、細かな雪が降ってきた。
最初は灰のように軽かった。
やがて外套の肩に積もり、道の轍を薄く覆った。
「今夜のうちに強くなるかもしれません」
向かいに座る北部騎士が言った。
「荷車は第一宿場で止まるはずです」
「追いつけますか」
「このままなら」
御者が馬を急がせる。
日が沈む少し前、街道の先に明かりが見えた。
石壁に囲まれた小さな宿場。
その前に、八台の荷車が並んでいる。
すべてそろっていた。
宿場へ入ると、護送責任者がすぐに駆け寄ってきた。
「封印に異常は?」
私が尋ねる。
「ありません。八台とも確認済みです」
「途中で近づいた者は」
「北門を出てからは、いません。ただ……」
「何ですか」
「宿場へ入る前から、林の中に誰かがいるようです」
「確認しましたか」
「二人を出しましたが、足跡しか見つかりませんでした。小さな足です」
「子供ですか」
「おそらく」
八台の荷車を一台ずつ確認する。
王宮記録院。
中央財務院。
監察局。
三つの封印は、どれも壊れていない。
縄の結び方も出発時のままだ。
積荷記録と車体番号も一致している。
王都で決めたことが、少なくともここまでは守られていた。
「今夜は宿場で止まります」
護送責任者が言った。
「明日の朝、雪の状態を見て出発します」
「分かりました。夜間の見張りは?」
「二人ずつ交代で立たせます。特に八台目は人数を増やします」
八台目。
もともとセラ村へ送られるはずだった荷車。
今は、十村へ再配分する食糧が積まれている。
「ほかの荷車と同じように守ってください」
「しかし――」
「狙われる可能性はあります。だからこそ、特別扱いしていると分からせないでください」
護送責任者は少し考え、うなずいた。
「配置を組み直します」
夜になると、雪はさらに強くなった。
宿場の食堂で遅い食事を取り、王都から持ってきた書類を確認する。
セラ村。
住民登録、なし。
冬季配給先、該当なし。
過去三年、食糧受領記録あり。
受領者は毎年違う。
今年だけ、オスカー・ベルン。
紙の上では、誰も住んでいない。
それでも誰かが粮食を受け取り続けていた。
不正に売り払われたのか。
別の場所へ運ばれたのか。
あるいは、紙に載っていない誰かが食べていたのか。
外から短い叫び声が聞こえた。
椅子を立つ。
扉を開けると、八台目の荷車のそばに人が集まっていた。
「何がありましたか」
「盗人です」
守備兵が答えた。
雪の上に、一人の子供が膝をついている。
十二、三歳くらいの女の子だった。
髪は短く、古い毛布を外套代わりに巻いている。裸足ではないが、靴の先が破れ、布が巻かれていた。
足元には小さなナイフ。
荷袋には、浅い切り傷がついている。
封印は壊れていない。
「どれだけ盗られましたか」
「まだ何も。袋へ刃を入れたところで捕まえました」
「仲間は?」
「林を調べています」
女の子は顔を上げなかった。
両手には、いくつもの小さな布袋が握られている。
私はしゃがんだ。
「名前を聞いてもいいですか」
返事はない。
「どこから来たんですか」
女の子は黙ったままだった。
北部騎士が、彼女の靴についた泥を見た。
「東の道だ」
「分かるんですか」
「この辺りの土は黒い。靴についているのは赤土だ。東の谷から来た」
「東には何がありますか」
「今は何もない」
騎士は少し間を置いた。
「セラ村の跡だけだ」
女の子の肩が動いた。
「セラ村から来たんですか」
「違う」
初めて声を出した。
「では、どこから?」
「言わない」
守備兵が彼女の腕をつかもうとする。
女の子は身を縮めた。
「待ってください」
私は兵士を止めた。
地面に落ちていた布袋を一つ拾う。
大きさが違う。
大人の手のひらほどのもの。
その半分しかないもの。
薬草を包むような細長い袋。
この子一人が食べるためではない。
「何人分ですか」
女の子は答えない。
「この袋です。何人に持って帰るつもりでしたか」
「売るんだ」
「全部、大きさが違います」
「関係ない」
「一番小さい袋は、子供用ですか」
女の子の目が動いた。
「病人もいるんですね」
「いない」
「なら、細い袋は何に使うんですか」
彼女は唇を噛んだ。
沈黙が続く。
やがて、かすかな声で言った。
「四十七人」
「何が?」
「食べる人」
北部騎士が眉を寄せた。
「セラ村に人はいない」
女の子は顔を上げた。
「いる」
「七年前に全員移された」
「全員じゃない」
「住民登録には――」
「村がないんじゃない」
女の子は私たちをにらんだ。
「私たちの名前がないだけだ」
雪が彼女の髪に積もっていた。
騎士は言葉を失った。
「四十七人全員が、セラ村に?」
「言わない」
「今、四十七人と言いました」
「嘘かもしれない」
「確認させてください」
「だめ」
「食糧が必要なら、人数を――」
「前にも名前を書かれた」
女の子が私の言葉を遮った。
「そのあと、どうなりましたか」
「次の冬、名前を書いた人の分だけ、食べ物が来なくなった」
「なぜ?」
「知らない」
「誰が名前を書いたんですか」
「王都の人」
記録されなかったから食糧が届かないのではない。
記録されたことで、食糧を失った人もいる。
この子にとって、名前を書くことは守られることではない。
見つけられることだ。
「あなたを拘束しません」
「嘘だ」
「荷袋を切ったことは記録します」
「やっぱり同じじゃないか」
「私がどう対応したかも、一緒に残します」
私は同行してきた記録官から紙を一枚受け取った。
雪に濡れないよう、荷車の覆いの下へ移る。
最初に、自分の名前を書いた。
エリナ・ヴァルト。
王宮記録院所属。
北部臨時監査担当。
次に、発生したことを書く。
名前の分からない少女が、八台目の荷袋を切ろうとした。
食糧は持ち出されていない。
封印にも異常はない。
そして、最後に自分の判断を書いた。
> 少女を拘束せず。
> セラ村の居住者確認まで、緊急食糧を仮支給する。
> 判断責任者、エリナ・ヴァルト。
「何を書いた」
女の子が尋ねた。
私は最初から読み上げた。
「あなたの名前は書いていません」
「どうして」
「まだ聞いていないからです」
紙を彼女の前へ置く。
「先に私の名前を書きました。あなたの名前は、そのあとで構いません」
女の子は紙と私の顔を何度も見比べた。
「名前を書いたら、村へ来る?」
「確認のために行きます」
「みんなを連れていく?」
「今は、何も決めません」
「食べ物は?」
「今夜と明日の分を渡します。ただし、八台の荷車から勝手には出しません」
再配分の際、雪で道が閉じた場合に備え、共同予備として別封した食糧がある。
使う場合は、護送責任者、監察局員、記録担当者の三名が確認し、理由を残すことになっている。
まさに今のような状況のための食糧だ。
「四十七人分を二日」
護送責任者が言った。
「予備の半分近くになります」
「足りなくなりますか」
「次の宿場までは行けます。ただし、それ以上の遅れが出れば厳しい」
「宿場の備蓄から補充できますか」
宿場の責任者がうなずいた。
「代金と記録があれば、同量を出せます」
「では、ここで補充してください。王宮の臨時監査費から支払います」
「承認者は?」
同行している監察局員が尋ねた。
「私が申請し、あなたと護送責任者が確認してください」
一人で決めない。
けれど、誰かが決めるまで飢えさせない。
三人が内容を確認し、それぞれ署名した。
封印を開く。
四十七人が二日を越すための量を取り出す。
残った数量を記録し、宿場の備蓄から同量を補充する。
新しい封印を施し、開封理由を荷車の記録板へつけた。
女の子は、黙ってその様子を見ていた。
「これを全部、一人で持てますか」
「無理」
「仲間が近くにいるんですね」
また答えない。
「兵士を向かわせるつもりはありません。荷物を運ぶ人が必要です」
女の子は雪の向こうを見た。
口に指を入れ、短い音を二度鳴らす。
林の中で枝が動いた。
現れたのは武装した大人ではなかった。
若い男と、腰の曲がった老人。
二人とも痩せ、古い外套を重ねている。
守備兵たちが身構えた。
私は手で止めた。
「セラ村の方ですか」
老人は答えなかった。
女の子が、私の書いた紙を彼に渡した。
老人は時間をかけて文字を読んだ。
「本当に、名前を書けば食糧を止めないのか」
「止めないとは約束できません」
「何?」
「私は王国全体の配給を一人で決められません。ですが、名前を書いたことで食糧を止められた場合、誰が決めたのかを残します」
「それで何が変わる」
「少なくとも、あなたたちが勝手に消えたことにはさせません」
老人は私を見た。
しばらくして、女の子へ紙を返した。
「お前が決めろ」
女の子は濡れた指で紙を持った。
「ネラ」
「え?」
「私の名前」
記録官がペンを取ろうとする。
私は止めた。
「本人に書いてもらえますか」
「字は書けない」
「では、私が書きます。合っているか聞いてください」
紙の空いているところに、ゆっくりと書く。
ネラ。
「これで合っていますか」
女の子は文字を見つめた。
「分からない」
「では、覚えてください。これが、あなたの名前です」
ネラは指先で、その文字をなぞった。
食糧を渡したあと、監察局員と北部騎士の一人が、三人に同行することになった。
セラ村へ入り、本当に四十七人がいるのかを確認する。
全員の名前を無理に聞き出すことはしない。
まず人数。
年齢。
食糧の残り。
病人の有無。
必要なことから確かめる。
「私も行きます」
そう言うと、護送責任者が首を振った。
「明朝、荷車を出さなければなりません」
「私は荷車の護送責任者ではありません」
「しかし、北部監査の――」
「だから、セラ村を確認します。車隊は予定どおり出してください」
八台の荷車を止めない。
十村への食糧も遅らせない。
セラ村の四十七人も、なかったことにしない。
どちらか一方を選ばなければならないと、最初から決めてはいけない。
ネラが毛布の内側へ手を入れた。
小さく折り畳まれた紙を取り出す。
「これを渡せって言われた」
「誰に?」
「王都から記録係が来たら」
紙には、短い一文があった。
> 人数を数えてもらえ。食糧は、そのあとでいい。
末尾に、オスカー・ベルンの署名がある。
私は王宮記録庫から持ってきた写しを開いた。
異議申立てに残された署名。
文字の傾き。
最後の線の跳ね方。
完全に同じだとは、まだ断定できない。
だが、よく似ていた。
「この紙を渡した人は、今どこにいますか」
「分からない」
「いつ会いましたか」
「昨日」
少なくとも昨日、オスカーはセラ村にいた可能性がある。
「どこへ行ったんですか」
ネラは、宿場の東にある暗い山を見た。
「夜、教会の鐘が鳴った」
「廃村の教会ですか」
「うん。鐘はずっと壊れてた。誰も鳴らせないはずだった」
「オスカーさんは?」
「音を聞いて、外へ出た」
「一人で?」
「止めたけど、行った」
「どこへ」
「村の後ろの古い鉱山」
「誰が鐘を鳴らしたんですか」
ネラの顔から、わずかに血の気が引いた。
「オスカーさんは、名前を知ってた」
「誰の名前ですか」
「七年前に死んだ人」
雪が風に流され、荷車の灯りを横切った。
「本当に、その人だったんですか」
「分からない」
ネラは首を振った。
「でも、オスカーさんが言った」
「何と?」
「あの男の死亡確認書に署名したのは、自分だって」
セラ村には、帳簿の上で存在しない四十七人がいた。
そして昨夜、壊れていたはずの鐘を鳴らしたのは、その四十七人の誰でもなかった。
オスカーが七年前、自分の名で死を記録した男だった。
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