第36話 署名できない人
「あの人はもう、署名できないから」
車夫が聞いた言葉は、それだけだった。
オスカー・ベルンが死んだとは言っていない。
負傷したとも、捕らえられたとも言っていない。
本人を待つ必要がない。
署名はできない。
私たちが確認できた事実は、その二つだけだ。
「黒い手袋の男の顔は見ましたか」
ローディス監察官が尋ねた。
「暗くて、よく見えませんでした」
「声に特徴は?」
「低い声でした。でも、布を一枚挟んで話しているような……」
「以前に会ったことは」
「ありません」
「命令を受けた場所は?」
「王宮倉庫の裏です。荷車を受け取ったあと、向こうから声をかけてきました」
「一人だったのか」
車夫は少し考えた。
「姿を見たのは一人です。でも、近くにもう一人いたかもしれません」
「なぜ、そう思う」
「話している途中で、後ろから咳が聞こえました」
「男か、女か」
「分かりません」
ローディス監察官は、それ以上答えを求めなかった。
覚えていないものを、無理に思い出させれば、事実ではなく期待された答えが混じる。
「今日話した内容を確認します」
私は記録を読み上げた。
車夫は間違っているところを二か所訂正した。
黒い手袋を見たのは右手だけ。
セラ村へ入るなとは言われたが、村の手前でどれだけ待つかは聞いていない。
訂正を記録し、本人に署名してもらう。
彼の名が紙の最後に残った。
「帰れるんですか」
車夫が尋ねた。
「今のところ、あなたを拘束する理由はありません」
ローディス監察官が答えた。
「ただし、王都を離れる場合は監察局へ届け出ろ」
「分かりました」
車夫は一礼し、部屋を出た。
扉が閉まる。
「オスカーの生死は判断できません」
私が言うと、ローディス監察官はうなずいた。
「だが、相手は彼が署名しないことを知っていた」
「署名できないのか、署名させるつもりがないのかも分かりません」
「どちらにしても、確認が必要だ」
「北部の保護先へ連絡を」
「すでに早馬を出した」
「返事はいつごろですか」
「順調でも三日。雪で道が閉じれば、それ以上だ」
三日。
オスカーが危険な状態なら、長すぎる。
「それまで待つしかないんですか」
「王都からできることには限界がある」
ローディス監察官の言葉は正しかった。
けれど、正しいからといって、それだけで人を救えるわけではない。
先ほどギルベルトが言った言葉が、頭に残っていた。
「オスカーの異議申立てを、もう一度確認したいです」
「焼け残った断片か」
「はい」
「ユリウスに連絡する」
王宮記録庫から、ユリウス・フェンが来たのは夕刻前だった。
布に包んだ薄い板を、両手で抱えている。
「持ち出し許可を取るのに時間がかかりました」
彼は机の上へ布を広げた。
中には、焼け残った紙片が数枚並べられている。
第28話で火の中から救い出された、オスカーの異議申立て。
紙の端は黒く焦げ、文字の多くが失われている。
残っている部分も、最初に見たときは意味がつながらなかった。
だが今は、一つの地名を知っている。
セラ村。
「ここです」
私は三枚目の紙片を指した。
焦げた行の途中に、セラという文字が残っていた。
ユリウスが保存用の薄い板を傾ける。
光の角度が変わり、煤の下に残った文字が見えた。
「読めますか」
ローディス監察官が聞く。
「すべては無理です」
私は残っている言葉を一つずつ追った。
セラ村。
冬季配給。
三年。
住民登録、なし。
受領印、あり。
「住民がいないのに、食糧は送られていた」
ユリウスが言った。
「今回だけではありません」
紙片には、三年という文字がある。
少なくとも三年間、廃村になったセラ村へ食糧を送った記録が存在していた。
誰も住んでいない村。
それでも毎年、受領印だけは王都へ戻ってきた。
「オスカーは、このことを調べていたんですね」
私は次の紙片を見た。
下半分の大部分が焼け落ちている。
残っていたのは短い一文だった。
受領者の確認を求める。
その下に、オスカー・ベルンの署名がある。
「彼は食糧を求めていたのではない」
ローディス監察官が言った。
「食糧を受け取っていた者を調べていた」
今回の確認票には、そのオスカー自身が受領責任者として書かれていた。
もし八台目の荷車がセラ村の手前で消え、オスカーの名がある受領票だけが戻ってきたら。
記録上、食糧を受け取ったのはオスカーになる。
廃村への不正な配給を調べていた者が、不正の受取人に変わる。
「彼の名を使ったのは、偶然ではありません」
私は言った。
「オスカーを犯人にするためか」
「そこまでは断定できません。ですが、彼が調べていたことを知っている人間がいます」
「異議申立てを読んだ者か」
「あるいは、異議申立てを書かれる側にいた者です」
ユリウスが焦げた紙片を見つめた。
「この申立ては、王宮へ届いたあと処分対象になりました」
「誰が処分を決めたか、分かりますか」
「登録簿に残っていた担当名は、存在しない書記官でした」
また、存在しない名。
死んだ者。
いなくなった者。
確認できない者。
責任を負わない名前だけが、紙の上で働き続けている。
「この断片を北部へ持っていきます」
私が言うと、ローディス監察官が顔を上げた。
「持ち出しは許可できない」
「では、写しを作ります」
「何をするつもりだ」
「オスカーを探します」
「早馬は出した」
「返事を待っている間にも、時間は進みます」
「北部へ行くつもりか」
「はい」
口にしたあと、不思議と迷いはなかった。
王都に残って書類を調べることもできる。
けれど、セラ村で誰が食糧を受け取っていたのかは、ここには残っていない。
オスカーが何を見つけたのかも、王都の帳簿だけでは分からない。
「八台の荷車に追いつきます」
「雪が降る」
「だから、今行く必要があります」
ローディス監察官はすぐには答えなかった。
「君は王宮記録院の書記だ。北部へ派遣する権限は、私にはない」
「王宮使節に申請します」
「許可が出なければ?」
「そのときは、出ない理由を記録してください」
ローディス監察官が小さく息を吐いた。
「君は、いつからそこまで扱いにくくなった」
「最初からだと思います」
「そうかもしれない」
わずかに、彼の口元が緩んだ。
だが、すぐにいつもの表情へ戻る。
「私は王都に残る」
「はい」
「アルベルト評議官、ギルベルト代理司令官、火災、偽造された計量基準。ここを空にするわけにはいかない」
「分かっています」
「ノーラも残せ」
その言葉が聞こえたのか、部屋の外からノーラが入ってきた。
「私も行きます」
「だめです」
私が言うと、彼女は立ち止まった。
「どうしてですか」
「中央財務院に、正しい基準を知る人が必要だからです」
「ほかの人でも――」
「昨日まで使われていた数字が、なぜ間違っていたのかを説明できるのは、あなたです」
「でも、エリナさん一人では」
「一人では行きません」
北部への道を知る護衛。
監察局員。
そして、八台の荷車に同行している者たち。
「王都の食糧記録を守る人がいなくなれば、北部へ送った意味もなくなります」
ノーラは何か言おうとした。
けれど、最後には口を閉じた。
「戻ってきますか」
「そのつもりです」
「そのつもり、では困ります」
ノーラは机の上に新しい記録帳を置いた。
「戻る予定日を書いてください」
「まだ道程が決まっていません」
「では、決まったら必ず」
「分かりました」
約束ではなく、予定日を記録させる。
ノーラらしいと思った。
王宮使節への申請書を書き始めたとき、外から馬の蹄の音が聞こえた。
一頭だけ。
速い。
止まる音に続き、誰かが廊下を走ってくる。
扉が開いた。
北門の伝令兵だった。
外套に雪がこびりつき、唇が青くなっている。
「北部からの緊急報告です」
彼は封をされた細い筒を差し出した。
「いつ出た報告だ」
ローディス監察官が受け取る。
「二日前です。途中の宿場で馬を三度替えました」
私たちが早馬を出すより前に、北部から送られていた報告。
封印を確認し、ローディス監察官が筒を開ける。
中の紙は短かった。
彼は一度読み、私へ渡した。
保護対象オスカー・ベルン、所在不明。
護衛二名は生存。
争った形跡、および室内の血痕なし。
扉は内側から開けられていた。
オスカーは死んだと確認されたわけではない。
連れ去られた証拠もない。
自分から出ていった可能性さえある。
報告の下には、所在が確認できなくなった時刻が記されていた。
八台の荷車にオスカーの名が書き込まれたのと、ほぼ同じ時刻だった。
王都で彼の名が受領者になったとき。
北部では、彼本人が記録から消えていた。
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