止めなかった荷車
受領責任者、オスカー・ベルン。
その名を見た瞬間、八台の荷車を止める理由はできた。
だが、北部へ送る食糧まで止めてよい理由にはならなかった。
「これは、オスカー本人の署名ではありません」
ノーラが荷役確認票を机に置いた。
受領責任者の欄に書かれているのは名前だけだ。本人が受け取りを承諾したことを示す署名も、北部から届いた依頼書もない。
「この名前だけなら、誰でも書けるということですか」
王宮使節が尋ねた。
「はい。この確認票だけでは、オスカーさんが食糧を求めたとは証明できません」
穀物検査所の中庭には、八台の荷車が並んでいた。
昨日の火災で出発が止まり、そのまま検査所へ移されてきたものだ。
一台ごとに厚い布が掛けられ、車体には王宮倉庫の番号が焼き印で押されている。
「受取人が確認できない以上、この状態では出発を認められない」
王宮使節が言った。
「いつまで止めるつもりですか」
ギルベルトが尋ねた。
「オスカー・ベルン本人の意思が確認できるまでだ」
「彼は北部にいる。早馬を往復させても数日はかかる」
「だからといって、名を使われた可能性のある荷を出すことはできない」
「数日あれば、峠は雪で閉じる」
ギルベルトは一枚の報告書を差し出した。
三日前、北部の山間部で最初の雪が降ったこと。
風向きが変わり、峠の宿場が冬支度を始めたこと。
昨夜、北門を通った商隊から聞き取った内容が記されている。
「この報告は確認できますか」
私が尋ねた。
「同じ商隊の者が、北門近くの宿にいる」
ローディス監察官が補佐官を見る。
「二人から別々に話を聞け。互いに相談させるな」
補佐官が走っていった。
しばらくして戻ってきた報告は、ギルベルトが示した内容と一致していた。
明日の夜から山は大雪になる。
今日の日没前に王都を出なければ、荷車は最初の宿場へ届かない。
「急ぐ必要はあります」
私が言うと、王宮使節が眉を寄せた。
「受領者を確認できないまま通せというのか」
「いいえ」
「ならば、止めるしかない」
「この確認票のままでは送れません。ですが、送り先と受領責任者を確認し直せば、食糧は送れます」
「今から八台すべての手続きをやり直すのか」
「はい」
ギルベルトが西の空を見た。
「遅くとも日没前には北門を出なければならない」
「どれだけ時間がありますか」
「半日もない」
「間に合わせます」
「できなければ?」
「確認できた分だけを出します」
「八台全部ではなく?」
「確認できない一台があるからといって、正しい七台まで同じ間違いにはできません」
王宮使節はしばらく考えていた。
「方法を示せ」
「北部十一村の現在の受領責任者を確認します。積荷は正しい基準で量り直し、監察局、中央財務院、王宮記録院の三者で封印します」
「護送は?」
「一つの部署だけに任せません。城門守備軍、監察局、北部の街道を知る者で組みます」
「それで、今日中に出せるのか」
「出せます」
私が決めるのではない。
私は、事実を残したまま食糧を送る方法を示す。
決定し、責任を負うのは権限を持つ者だ。
王宮使節はうなずいた。
「その方法で再申請しろ。内容を確認したうえで、私が承認する」
「分かりました」
「エリナ・ヴァルト」
「はい」
「一台でも不明な点が残れば報告しろ。出発を優先して消すな」
「はい」
ノーラはすぐに中央財務院へ向かった。
冬季配給先と、前年の受領記録を確認するためだ。
一人では行かない。
ローディス監察官の補佐官が同行した。
私は八台の積荷を確認した。
出発番号。
倉庫番号。
積載した日。
使用された分銅。
すべて、昨日まで使われていた重い基準で記録されている。
帳簿上は八台分。
実際には、それより多くの食糧が積まれていた。
「全部下ろすのか」
背後からダリオの声がした。
火傷をした手には、まだ布が巻かれている。
「量り直す必要があります」
「日没までに?」
「かなり急がないと間に合いません」
「無理だとは言わないんだな」
「言っても、荷物は軽くなりませんから」
ダリオは少し笑った。
「手が使える奴を集める」
「昨夜から休んでいないでしょう」
「全員は呼ばない。疲れている奴に重い袋を持たせたら、余計に時間がかかる」
「命令ではありません」
「分かってる」
彼は八台の荷車を見た。
「俺たちを暴徒にするための荷物は、あんたたちが止めた。人を生かすための荷物なら、今度は俺たちが運ぶ」
三十人ほどの作業員が集まった。
宿舎を守る者、負傷した者、証言を続ける者は残っている。
来た者たちは荷台を見て、すぐに役割を分けた。
袋を下ろす者。
天秤へ運ぶ者。
量り終えた袋を積み直す者。
縄を締める者。
正しい基準で量り直すと、数字は変わった。
重い分銅で二十袋分と記録された荷には、正しい基準なら二十一袋分に近い食糧が積まれていた。
「多い分は王都へ戻すのですか」
王宮の記録官が尋ねた。
「送り先が確認できるなら、戻す必要はありません」
「しかし、登録量を超えている」
「王都から消えていたのは数字です。食糧ではありません。実際の量を記録し直せばいい」
王宮使節が、量り直された袋を見る。
「北部への配分が過剰になる可能性は?」
「現在の人口と備蓄日数を確認し、受領先ごとに再計算します」
「間に合うのか」
「ノーラが資料を持ち帰れば」
荷車の布は外したままにした。
王宮記録院。
監察局。
中央財務院。
城門守備軍。
商人組合。
そして、荷を運ぶ作業員たち。
誰でも積荷を見ることができる。
食糧を送るために、名前や数量を隠す必要はない。
昼を過ぎたころ、北門から小さな馬車が来た。
中から降りたのはカイルだった。
左腕はまだ吊られている。
「なぜ来たんですか」
「北部へ向かう荷の話を聞いた」
「医官は?」
「馬車から降りるなと言った」
「今、降りています」
「そうだな」
カイルは右手に持った筒を差し出した。
中には、北部の冬季街道を記した地図が入っていた。
宿場ごとの井戸。
荷車を止められる場所。
橋の幅。
雪が降ったあとも使える道。
「軍の地図とは違うんですか」
「軍の地図は兵を通すためのものだ。これは食糧を運ぶ人間が作った」
「誰が?」
「北部の運送人たちだ。昨年、私がまとめさせた」
命令書だけでは分からない道だった。
実際に車輪が泥にはまり、馬を休ませ、水を探した人たちが残した道だ。
「荷を止めると思っていた」
カイルが言った。
「私がですか」
「受取人が確認できない」
「だから、受取人を確認し直します」
「食糧は?」
「送ります」
カイルは一度だけうなずいた。
「それでいい」
馬車の後ろには、北部の外套を着た二人の騎士がいた。
「街道を知っている。護送に加えてくれ」
「北部の騎士だけで運ぶのですか」
「いや」
カイルは首を振った。
「北部の人間だけで運べば、また北部だけの秘密になる」
七年前、北部を救おうとした者だけで道を作った。
食糧は届いた。
人も救われた。
けれど、中央には何も残らなかった。
助かった人の名も。
規則を破った責任も。
そして秘密の道だけが残った。
「北部騎士二人、監察局員二人、城門守備兵二人で組みます」
私が提案すると、王宮使節が承認した。
「一人の判断だけで経路を変えないこと。途中で封印を開けた場合は、全員の名を記録する」
「承知しました」
カイルは馬車へ戻る前に、量り直される食糧袋を見た。
「日没に間に合いそうか」
「間に合わせます」
「無理はするな」
「その言葉は、前に返しました」
「何度でも言う」
彼はそれだけ言って、馬車へ戻った。
夕方前、ノーラが中央財務院から戻ってきた。
腕に台帳と配給先一覧を抱えている。
「十一村のうち、十村は確認できました」
「残りの一村は?」
「現在の冬季配給先一覧にありません」
机の上へ地図を広げる。
ノーラが地名を一つずつ指した。
十村には、現在も人が住んでいる。
受領場所は共同倉庫。
責任者は前年の受領記録と一致している。
オスカー・ベルンの名は、どこにもなかった。
「残る一村は、セラ村です」
カイルが連れてきた騎士の一人が顔を上げた。
「セラ村へ食糧を送るのか」
「何か問題がありますか」
「あの村には、もう誰もいない」
「廃村ですか」
「七年前の飢饉のあと、生き残った者は近隣の村へ移った。建物と共同倉庫は残っているが、住民はいない」
七年前。
第七予備金が初めて使われた年。
「セラ村へ送る量は?」
ノーラが確認票を見る。
「一台分です。八台目の積荷すべてが、セラ村宛てになっています」
「受領責任者は?」
「オスカー・ベルンです」
十村へ七台。
誰もいない一村へ一台。
送り先が間違っているからといって、一台分の食糧まで残す必要はない。
「八台とも送れます」
私は王宮使節を見た。
「ただし、セラ村分は十村へ再配分します」
「均等に分けるのか」
「いいえ。人口と、現在残っている食糧の日数で決めます。ノーラ、できますか」
「できます」
ノーラは台帳を開いた。
「前年の人口記録と、今年の配給申請を比べます。移住者の数も確認できます」
「時間は?」
「半刻あれば」
王宮使節が西の空を見る。
まだ間に合う。
「再配分案を出せ。私が承認する」
「はい」
ギルベルトは門のそばから、その様子を見ていた。
「あなたは、セラ村が廃村だと知っていましたか」
私が尋ねる。
「北部すべての村の現状を、私が知っていると思うのか」
「七年前、あなたは八台の荷車が北門を通るのを見届けました」
「セラ村へ届いたとは聞いていない」
「では、なぜ今回も八台だったんですか」
ギルベルトの表情は変わらなかった。
「偶然だ」
「分かりました」
「信じるのか」
「あなたが偶然だと答えたことを記録します」
事実かどうかは、これから確かめる。
今、私が勝手に決めてはいけない。
ノーラが計算した再配分案を、王宮使節が確認した。
八台目の食糧は十村へ振り分けられた。
備蓄が少ない三村へ多く。
比較的余裕がある村へは少なく。
すべての数量を書き直す。
オスカーの名には一本の線を引いた。
消してはいない。
なぜ変更したのかを横に記し、新しい受領責任者の名を書いた。
日没前、八台すべての準備が整った。
一台ごとに、王宮記録院、中央財務院、監察局の三つの封印をつけた。
護送する者の名も残した。
途中の宿場。
予定到着日。
封印を開ける条件。
事故が起きた場合の責任者。
空欄はない。
王宮使節が最後の確認票へ署名した。
「八台の出発を許可する」
北門が開く。
一台目が動き出した。
二台目。
三台目。
車輪が石畳を鳴らし、冷たい風の中を進んでいく。
八台目には、もともとセラ村へ送られるはずだった食糧が積まれている。
今は、十村の名が書かれていた。
誰も命令書を隠していない。
誰の名も消していない。
それでも八台の荷車は、北部へ向かった。
「これで人が救えると思うか」
ギルベルトが尋ねた。
「分かりません」
「分からない?」
「届くまで、救えたとは書けません」
私は遠ざかる荷車を見た。
「ですが、誰かを暴徒にしなくても、検査所に火をつけなくても、八台の食糧を送ることはできました」
ギルベルトは答えなかった。
最後の荷車が見えなくなる。
北門が閉じた。
中庭には、八台目を運ぶ予定だった元の車夫だけが残っていた。
再配分を決めた時点で、護送担当から外されている。
ローディス監察官が、その男を連れてきた。
「本来の経路について、話すことがあるそうだ」
車夫は帽子を両手で握っていた。
「俺は、セラ村まで行くようには言われていません」
「確認票には、セラ村と書かれています」
「村の手前で止まれと言われました」
「誰を待つんですか」
「名前は聞いていません」
「どうやって相手を見分けるのですか」
車夫は自分の右手を覆うような仕草をした。
「黒い手袋です」
ローディス監察官と目が合った。
レオンに署名を迫った監察官も、黒い手袋をしていた。
「荷を渡したあとは?」
「空の車で戻れと」
「受領票は?」
「向こうが用意すると言っていました」
「オスカー本人が来るのですか」
車夫は首を振った。
「本人を待つ必要はないと言われました」
「なぜですか」
男は握っていた帽子へ目を落とした。
「あの人はもう、署名できないから、と」
死んでいるとは言わなかった。
捕らえられているのかもしれない。
傷つき、動けないのかもしれない。
それとも、誰かが最初からオスカーの署名など必要ないと考えているのか。
八台の荷車は、正しい名と正しい重さで北へ向かった。
けれど、その先で待つはずだった男の名だけが、生きているのかどうかさえ、確かめられないまま残った。
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