↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
「役立たずの記録係はいらない」と婚約破棄されましたが、王国を救ったのは私の帳簿でした  作者: 北野風人
帳簿にいない人々

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
34/54

正しい重さ

 夜が明けるころ、黒かった煙は薄い灰色に変わっていた。


 穀物検査所の西側は焼け落ち、濡れた柱から白い蒸気が上がっている。


 通りの壁際では、作業員たちが座り込んでいた。


 顔も服も煤で黒い。眠っている者もいれば、火傷をした仲間の手に布を巻いている者もいる。


 ダリオは門の脇に座り、両手を水桶に入れていた。


「冷やしているんですか」


 私が尋ねると、彼は顔を上げた。


「いや。洗っている」


 水は真っ黒だった。


 何度洗っても、爪の間に入った煤は落ちない。


「もう宿舎へ戻っても大丈夫です」


「俺たちは、まだ暴徒なんだろ」


「拘束命令は止まっています」


「止まっているだけだ」


 ダリオは水から手を出した。


「だったら、ここで見たことを話すまで帰らない。途中で何をしたと言われるか分からないからな」


 その言葉を否定できなかった。


 昨日までなら、名前を残すことは彼らを拘束するために使われた。


 今は、自分たちを守るために、ここに残ろうとしている。


「全員の証言を記録します」


「一人ずつか」


「はい」


「時間がかかるな」


「事実は、人数が多いという理由では省けません」


 ダリオは少し笑った。


「役に立たない仕事だと思っていた」


「よく言われます」


「今は違う」


 彼は立ち上がり、仲間たちのところへ戻った。


 検査所の中庭には、臨時の長机が置かれていた。


 焼け残った扉を横に倒し、樽の上へ載せただけのものだ。


 その上に、三台の天秤が並んでいる。


 一台は王宮造幣局。


 一台は王立薬師院。


 もう一台は商人組合から運ばれたものだった。


 形も大きさも違う。


 使う者も、目的も違う。


 だが、三台とも造幣局が保管する金属標準片を使い、水平になることを確認してある。


 一つの部署だけが正しいと主張するのではない。


 互いに関係のない三つの場所で、同じ結果が出るかを確かめる。


 ノーラは机の横に立ち、検査所から救い出された二号基準分銅を布で拭いていた。


 裙の裾には、昨夜の火でできた小さな穴が残っている。


「眠りましたか」


 私が聞くと、彼女は首を振った。


「眠ったら、起きられない気がして」


「称量が始まるまで休んでも――」


「大丈夫です」


 そう言ってから、ノーラは少し考えた。


「いえ、大丈夫ではありません。でも、私が確認します」


 以前の彼女なら、大丈夫だと言い切ったあと、自分の疲れを隠したまま働いただろう。


 今は違う。


 疲れていることも、怖いことも認めたうえで、自分の役目を選んでいる。


「終わったら、必ず休んでください」


「エリナさんもです」


 言い返せなかった。


 中庭の入口には、王宮から来た使節が立っていた。


 第七予備金に基づく臨時命令を運んできた、あの使節だった。


 今回は二人の記録官を連れている。


 その向かいに、ギルベルト代理司令官がいた。


 城門守備軍の兵士たちもいる。


 ただし、武器は抜いていない。


 ローディス監察官が、黒い鉄箱を机の中央に置いた。


「一号基準分銅は現在も所在不明です。残っている分銅が正しいか、これから公開確認を行います」


 ギルベルトが口を開いた。


「一号がない以上、確認にはならない」


「だから、三つの独立した天秤を用意しました」


 ノーラが答えた。


「造幣局の標準片を基準として、同じ分銅を三回量ります」


「穀物用の分銅と、貨幣用の標準は違う」


「用途は違います。ですが、金属の重さは変わりません」


「正式な検査ではない」


「ええ」


 ノーラは認めた。


「一号基準分銅の代わりにはなりません。ただし、今ある分銅が、登録された重さと違うかどうかは確認できます」


 ギルベルトは王宮使節を見る。


「このような不完全な検査で、王都の食糧政策を決めるつもりですか」


 使節が答える前に、私は言った。


「不完全だからこそ、非常事態だと決めることもできません」


「基準が失われた。王都にどれだけ食糧があるか確認できない。それ自体が非常事態だ」


「確認できないことと、足りないことは同じではありません」


「不足してからでは遅い」


「だからといって、不明な数字を不足と書き換えることはできません」


 ギルベルトの目が細くなる。


「数字を確認している間にも、人は食べる」


「はい」


「北部では、冬が始まっている」


「それも分かっています」


「分かっていない」


 低い声だった。


 怒鳴ってはいない。


 けれど、その一言だけが、朝の冷たい空気の中に残った。


 王宮使節が片手を上げた。


「まず確認を行う。判断は結果を見たあとだ」


 ギルベルトはそれ以上、反対しなかった。


 最初の天秤は、造幣局のものだった。


 片側へ二号基準分銅を載せる。


 反対側へ、造幣局の標準片を一つずつ積む。


 ノーラの指が止まった。


 天秤はまだ傾いている。


「もう一つ」


 造幣局の職人が、小さな標準片を加えた。


 天秤がゆっくりと水平へ近づく。


「登録されている重さを超えています」


 ノーラが言った。


「どれくらいだ」


 ローディス監察官が尋ねる。


「二十に対して、およそ一つ分」


 登録上、二十の重さであるはずの分銅が、実際には二十一近くある。


「天秤に問題がある可能性は?」


 ギルベルトが聞いた。


「あります」


 ノーラは答えた。


 次に薬師院の天秤を使った。


 同じ分銅。


 同じ標準片。


 結果も同じだった。


 三台目は商人組合の天秤。


 何十人もの視線が、揺れる横木へ集まる。


 最初は右に傾いた。


 標準片を加える。


 もう一つ加える。


 やがて、中央の針が止まった。


 結果は変わらなかった。


 三台とも、二号基準分銅が登録より重いことを示していた。


「二号だけではありません」


 ノーラは三号分銅を取り出した。


 同じ検査を繰り返す。


 三号も重かった。


 四号も。


 穀物検査所に残っていたすべての基準分銅が、同じ割合で重く作られている。


 偶然ではない。


 摩耗でもない。


 誰かが一つずつ削ったのでもなかった。


 最初から、同じ誤りを持つ一組として作られている。


「これを使うと、どうなる」


 王宮使節がノーラに尋ねた。


 ノーラは机の上に、小麦の入った小袋を二つ並べた。


「本来の基準なら、こちらも、こちらも同じ二十袋分として記録されます」


 片方を正しい標準で量る。


 次に、検査所の分銅を使って量る。


「ですが、この重い分銅を使うと、二十一袋近くなければ、二十袋分として釣り合いません」


「実際には多くあるのに、記録上は少なくなる?」


「はい」


 ノーラは天秤から手を離した。


「量った人が嘘を書かなくても、です」


 中庭が静かになった。


「誰が量っても、同じ結果になります」


 ノーラは続けた。


「そして、全員が同じ間違いを書くことになります」


 私は天秤を見た。


 記録する人間が正直でも、基準が偽物なら記録は正しくならない。


 嘘をつく人間を一人ずつ探しても足りない。


 嘘を真実に見せる仕組みそのものを止めなければならない。


「最近、この分銅で再検査された倉庫は?」


 王宮使節が尋ねた。


 ノーラは中央財務院から持ち出した作業控えを開いた。


 秘密の帳簿ではない。


 どの倉庫で、いつ、誰が検査を行う予定かを記した日常の控えだった。


「王都西部の三か所です。うち二か所は再検査を終えています」


「食糧量は、どれだけ減ったことになっている」


「緊急基準を、わずかに下回っています」


 わずかに。


 その言葉を聞き、王宮使節の一人が顔を上げた。


 第七予備金が動き出す境界。


 王都の食糧が、一定の量を下回ったとき。


 この重い分銅を使えば、実際には十分な食糧があっても、記録上はその境界を越える。


 王宮使節は二人の記録官と短く言葉を交わした。


 そして、ギルベルトへ向き直った。


「第七予備金に基づき、城門守備軍へ一時付与された権限のうち、食糧倉庫、価格統制、穀物検査所に関するものを停止する」


 守備兵たちの間に小さな動揺が走った。


「陛下の正式な撤回命令はないはずです」


 ギルベルトが言った。


「臨時命令の根拠となった数値が、正しい基準で作成されたものではない」


「それでも、北部の不足は変わらない」


「北部については別途確認する。王都の数字を偽ったまま、権限を継続させることはできない」


「城門の指揮権は」


「現時点では維持する。ただし、倉庫を出入りする荷車の許可は、監察局と中央財務院の確認を必要とする」


 すべてを奪う命令ではなかった。


 ギルベルトは今も代理司令官だ。


 城門守備軍も、彼の指揮下にある。


 だが、粮食と価格を一人で動かすことはできなくなった。


 続いて、使節はダリオたちを見た。


「西区作業員百二十名に対する拘束準備を撤回する。昨夜の火災に関しては、救助協力者および目撃証人として記録する」


 作業員たちは声を上げなかった。


 喜ぶ者もいない。


 ただ、長い息を吐く音があちこちから聞こえた。


 ダリオが私を見る。


「今度は、止まっただけじゃないんだな」


「はい」


「消えたのか」


「拘束命令は撤回されました。ただし、昨日、その命令が存在した事実までは消しません」


 ダリオはしばらく考え、うなずいた。


「それでいい」


 なかったことにしてはいけない。


 間違った命令も。


 それによって恐れた人も。


 それを止めた人も。


 全部を残さなければ、同じことが別の名前で繰り返される。


 ノーラと検査員たちは、正しい標準を使って倉庫量の再計算を始めた。


 昼前には、最初の結果が出た。


「王都の備蓄は、現在の配給量なら、記録より十二日分多くあります」


 ノーラが報告した。


 十二日。


 大きな数字ではない。


 冬を越すには短い。


 けれど、今日から粮食を減らされるはずだった人々にとっては、失ってよい十二日ではなかった。


「十二日か」


 ギルベルトが言った。


「はい」


「それで冬が終わるのか」


 ノーラは答えられなかった。


「王都は十二日延びる。では、北部は?」


 ギルベルトは私を見た。


「正しい記録を王宮へ送り続けて、北部で何人死んだと思う」


 昨夜までとは違う顔だった。


 怒っているのではない。


 ずっと押さえ込んでいたものが、声の端に現れている。


「七年前も、数字は正しかった。村に食糧がないことも、承認に四十日かかることも、全部正しく書かれていた」


 灰色の帳簿。


 命令書のない八台の荷車。


 北門を開けたハルト司令官。


 最後まで反対しながら、食糧が届くのを見届けた若い副官。


「正しい数字が、人を救うわけではない」


 ギルベルトは言った。


「だから」


 私は彼を見る。


「正しくない記録で、別の誰かを死なせてもいいんですか」


 ギルベルトは答えなかった。


「暴徒ではない人を暴徒にして、火をつけて、食糧がないことにする。それで誰かが救われたとして、犠牲になった人の名は、どこに残すんですか」


「私が火をつけた証拠はない」


「はい。ありません」


 私は認めた。


「だから、あなたを放火犯とは記録しません」


「なら――」


「ですが、あなたが何を知っていたのかは確認します」


 私は一歩も退かなかった。


「ハルト司令官が何を伝えたのか。あなたがいつ異常を知ったのか。知ったあと、なぜ同じ基準を使わせたのか」


 ギルベルトの顔から、感情が消えた。


「それが、記録係の仕事か」


「はい」


「王都の紙を守るために、北部を見捨てる仕事か」


「違います」


 私は答えた。


「どちらかを消さなければ、もう一方を救えないという記録を、疑う仕事です」


 ギルベルトは何も言わず、踵を返した。


 彼を止める命令はない。


 ローディス監察官も剣へ手を掛けなかった。


 守備兵たちが、そのあとを追う。


 けれど、全員ではなかった。


 昨夜、二台の荷車を護衛していた兵士の一人が、その場に残った。


 彼は去っていくギルベルトの背中を見たあと、私たちに一礼した。


「受けた命令について、話します」


 ローディス監察官が補佐官を呼んだ。


 証言を取るためだった。


 昼を過ぎると、西区の店が少しずつ開き始めた。


 火事と食糧不足の噂を聞き、朝から閉じていた店も多い。


 検査所から王都の備蓄量が訂正されたと知らせが出ると、一軒のパン屋が扉を開けた。


 店主は入口に掛けていた値札を外す。


 昨夜書き直したばかりの、高い値段。


 その数字を布で消し、昨日までの値段へ戻した。


 店の前で待っていた母親が、小さなパンを二つ買った。


 一つを隣にいる子供へ渡す。


 子供はすぐには食べず、両手で抱えた。


 十二日。


 数字だけを見れば短い。


 けれど、その十二日の中には、今渡されたパンも入っている。


「エリナさん!」


 検査所の入口からノーラが呼んだ。


 手に新しい荷役確認票を持っている。


「どうしました」


「再検査を止めた倉庫の中に、出発前の荷がありました」


「どこへ送るものですか」


「北部です。八台分あります」


 八台。


 七年前、命令書のないまま北門を通った荷車と同じ数だった。


「今日の明け方に出発する予定でした。でも、検査所の火災と権限停止で止まっています」


「積載量は?」


「古い基準で記録されています」


「では、実際には」


「一台につき、およそ二十分の一多いです。八台すべてなら、村一つが数日を越せる量になります」


 王都の記録から消えた食糧が、北部へ送られようとしていた。


 しかし、それだけでは誰の目的なのか判断できない。


「命令者は?」


「中央財務院の臨時調達印です。個人名はありません」


「受取人は」


 ノーラは確認票の末尾を見た。


 その瞬間、表情が止まった。


「知っている人です」


「誰ですか」


 彼女は紙を私に渡した。


 受領責任者の欄には、一人の名が書かれていた。


 オスカー・ベルン。


 北部で保護されているはずの男。


 王宮へ送った異議申立ての一部だけが、焼け残った男。


 彼が求めていたのは、八台分の食糧だったのか。


 それとも、誰かが彼の名を使い、七年前と同じ道をもう一度開こうとしているのか。


 正しい重さは分かった。


 だが、その重さを誰のために運ぼうとしていたのかは、まだ記録されていなかった。

お読みいただき、ありがとうございます。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。